第87話 君が、好きだ 4
『未来の君に、さよなら』の著者として高瀬がペンネームに込めた想い。
それが明らかになると、俺は居ても立ってもいられなくなった。高瀬の遠回しなメッセージを見事読み取ってみせた湯川君に礼を言うと、俺は本人と会って話をするべく、校内を探し始めた。
高瀬は音楽室でピアノを弾いていた。廊下から室内を覗くかぎり、彼女の他には誰もいないようだった。俺は呼吸を整えてからドアに手をかけ、まるで新生児室に入るみたいに静かに音楽室に入った。
高瀬は演奏に没頭しているらしく、侵入者の存在にまったく気づかなかった。ちょっと驚かせてやろうとイタズラ心が芽生えた俺は、壁にあったベートーヴェンの肖像画を拝借した。そしてその厳めしい顔をお面のようにしてピアノに近づいた。すると高瀬はやっとこちらに気づいて、きゃっと小さく悲鳴を上げた。すかさず俺は正体を明かした。彼女はむっとしたようなほっとしたような表情で独奏を続け、俺はステージの段差に腰を下ろした。
開かれた窓からは5月の暖かい風が入り込んで、カーテンを優しく撫でるように揺らしていた。俺はただ一人の観客となって、彼女がピアノを弾く姿を静かに見守った。
クラシック以外は音楽とは認めない偏狭な母親のせいもあって、俺はその曲に幼少の頃から聞き覚えがあった。たしかサティの曲のはずだ。エリック・サティのワルツ。ジムノペディやグノシエンヌに並んで彼の代表曲だったように思う。偏狭さも場合によっちゃ役に立つらしい。しかし肝心の曲名まではわからなかった。
極東の島国の地方都市の音楽室でその異国情緒あふれる旋律に耳を傾けていると、不思議なもので、どこか別世界へ運ばれていくような感覚に陥った。
作曲者がフランス人だからだろうか、そこは石畳の敷き詰められた、いかにも西洋的な趣のある街だった。
俺はその街のひどく入り組んだ路地裏に迷い込んで、すっかり途方に暮れてしまっている。するとどこからともなく制服姿の高瀬が現れる。傷一つないローファーを履いている。彼女は俺の手を引いて颯爽と駆け出していく。
路地裏だけあって道中にはスリやらコソ泥やら得体の知れない輩がうようよしている。彼女はそんな連中を軽快にかわしつつ、決して走りやすいとはいえない石畳の道を進んでいく。道はいくつも枝分かれしている。どの道に進むべきか高瀬はちゃんとわかっている。俺は黙って後をついていく。彼女のローファーはいつしか傷だらけになっている。やがて二人は一本の大きな道に出る。そして道の先に光が見えてくる。彼女はその光に向かって俺を導く――。
そこで俺ははっとして目を開けた。どうやら無意識のうちに瞼を下ろしていたらしい。しかし現実に戻ってきても、瞼の裏には俺を光へと導く高瀬の後ろ姿がくっきり焼き付いていた。
♯ ♯ ♯
約5分間の演奏が終わると、俺は立ち上がって拍手を送った。
高瀬は両手で顔を扇いだ。「びっくりしたなぁ、もう」
「ごめんごめん」と俺は言った。そして楽譜を見た。「サティの曲でしょ? なんていう題名だっけ?」
「ジュ・トゥ・ヴー」
「ジュ・トゥ・ヴー」と俺は疑問符をつけて繰り返した。あいにく頭の中の仏和辞典にはボンジュールくらいしか項目がなかった。「日本語でどういう意味なの?」
高瀬は意地悪な顔をして肩をすくめた。それは自分で調べてくださいとでも言うように。
俺も肩をすくめた。「それはそうと、こんなところで何してるんだ?」
「受験勉強の息抜き」と彼女は言った。「気分転換にはピアノを弾くのが一番なの。吹奏楽部が今ちょうど遠征中だから、このところ放課後は毎日使わせてもらってるんだ」
放課後は一人だから退屈だし、となんとなく聞こえた気がした。
「神沢君こそ、こんなところに何しに来たの?」
「高瀬にどうしても話さなきゃいけないことがあるんだ。聞いてくれ」
俺は意を決して、柴田先生の発言に端を発する一連の経緯を彼女に語った。
高瀬は椅子に座ったまま、『ジュ・トゥ・ヴー』の楽譜をじっと見つめていた。やがて彼女は息を長く吐き出し、それから十本の指を叩きつけるように鍵盤に落とした。
「獣医になっても幸せにはなれないかもしれない。柴田先生にそう言われて獣医を目指す気持ちが消えかけている? 神沢君、それ本気で言ってるの? 私がどんな思いで応援し続けてきたかわかってるの? 学費を工面するため、約束通り新人賞だってとったっていうのに。私のこれまでの貴重な時間を返してよ。神沢君にはがっかりした。もう顔も見たくない」
舌を噛みちぎろうかそれとも窓から飛び降りようか俺が迷っていると、高瀬は可笑しそうに口元を抑えた。
「というのは、冗談」
「はぁ!?」
「さっきのお返し」高瀬はベートーヴェンの肖像画を手に取って、俺の顔を見た。「どう、びっくりした?」
「やめてくれよ。どうすんだよ。頭の中で『運命』の冒頭が鳴り止まないぞ」
ででででーん、と追い討ちをかけるように言って彼女は笑った。
俺は冷や汗を拭った。「とにかく、このことで俺を見損なったりしてないんだな?」
「あのね神沢君」と彼女は諭すように言った。「私たちはまだ高校生なんだよ? 大人の人だって自分の進むべき道に迷うんだもの、私たちが迷うのは当然でしょう? 神沢君なら立派な獣医になれると太鼓判をおしていた身からすると、残念だなっていう気持ちは正直ある。でもそれとこれとは話が別。これくらいのことで神沢君を見損なったりしないよ」
それを聞いて俺は心底ほっとした。憑き物が落ちたみたいに全身の力が抜けた。思わずピアノの前に座りこんでしまった。
「もしかしてここ最近ずっと暗い顔をしていたのって、このことで気を病んでいたから?」
俺は無言でうなずいた。
「どうしてもっと早く私に話してくれなかったの? さっきみたいにけちょんけちょんに言われると思ったから?」
俺は無言でうなずいた。
「信頼されてないな」高瀬はため息をつく。「というか、獣医さんの件それ自体よりも、こっちの方がよっぽどショックなんだけど。ショックだし、なんだか悔しい。こんな大事なことなら、私を信じてもっと早く話してほしかった」
俺は唇を噛んでいた。高瀬も唇を噛んでいた。
「でも私もいけなかったんだよね」と彼女は髪を手ですいて続けた。「思い返してみれば、事あるごとに『大学』『獣医』って口にしていたもの。それがたぶん知らず知らずのうちに神沢君を追い詰めてしまっていたんだね。話せなくなるのも無理はないか。反省しなきゃな」
ひとしきり沈黙があった。彼女は例の『ジュ・トゥ・ヴー』の楽譜を見ていた。それから独り言を言うように小さくつぶやいた。
「いっそ思いきって何かを変えたいな。大きく何かを。今はそういう時期なんだと思う。ねぇ、神沢君、私たち――」
そこで高瀬は一旦言葉を切って、こちらへ向き直った。そして椅子から下りると、何を思ったか俺の左右の瞼を指で優しく下ろした。瞼の裏には相も変わらず俺を光へと導く彼女の姿が残っていた。ほどなくして高瀬は言った。
「神沢君、私たち、恋人同士になろう。何かの検証のためでもない、12日間限定でもない、正真正銘、本物の恋人に」
体内のありとあらゆる細胞が真新しく生まれ変わる感覚があった。まるで一瞬にして別人になったみたいだった。事実、十数年ものあいだ俺の中に居座っていた、優柔不断で煮え切らない少年はもういなかった。
「なる!」と俺は間髪をいれず答えた。「なるなる! なります! なろう! なっちゃおう、恋人に!」
「ちょっと落ち着いて、神沢君! え? そんな即答!? もう少し考えたり悩んだりしないものなの?」
当惑したように目を瞬かせる高瀬を見て、まさか、と俺は勘繰った。「まさか、冗談で言った?」
「そんなわけないでしょ」彼女は視線を斜め下に落とす。「さすがに冗談でこんなことは言わないよ。100%本気」
俺は安堵した。「それじゃ俺も100%本気で答える。なろう、恋人同士に」
高瀬ははにかんで、小さくうなずいた。
少し冷静になると、俺の頭にある疑問が浮かんできた。
「それにしても、いったいどうしたの。突然『恋人になろう』だなんて」
「神沢君を救うためにはそれしかないと思ったから」
「俺を救うため?」
「きっと今の神沢君は、獣医さんになるっていう大きな目標を失いかけて、これからどうすればいいかまったくわからなくなっていると思うのね。わりと思い詰めちゃうタイプだから、そのことで頭がいっぱいになって、勉強も手につかないし、ご飯も喉を通らないし、夜もまともに眠れない。違う?」
その通りだった。「その通りだ」と俺は答えた。
高瀬は得意になるでもなくうなずいた。
「そんな行き先を見失った今の神沢君に必要なのは、どんな時もそばにいて、励ましたり、元気づけたり、勇気づけたり、時には叱ったり、そういうことができる存在だと思うの。一言で言えば正しい方向へ導ける存在。そしてそれは、友達や期間限定の恋人ではなれない。なれるのは本物の恋人だけ。私が言ってること、わかる?」
「高瀬が恋人になって俺を救い出す」と俺は答え合わせするようにつぶやいた。
正解、という風に彼女は顎を引いた。「私としても、その方がいい。今までみたいにあやふやな関係だと、変に気兼ねして言いたいことも言えないもの。結局はそのせいで誤解やすれ違いが生まれていたみたいだし」
そのセリフにはどことなく彼女の気持ちを疑っていた俺を責める響きがあった。俺は素直に反省した。すみません、高瀬さん。
「獣医にもしなれても、君の求める幸せは手に入らないだろう、か」高瀬は柴田先生の言葉を一語一語噛みしめるように繰り返した。「たしかに現役の獣医さんにそう言われちゃったら、気持ちが滅入るのも無理はないよね」
俺はうつむいた。「他でもなくモップを看取った――俺が獣医を目指すきっかけになった先生の言葉だけに、なおさらだよ」
「でもさ、今のうちにそういう体験ができたのは、考えようによっては良かったんじゃないかな?」彼女はそんなことを口にした。「だって想像してみて。獣医っていう職業の厳しさを知って落ち込むのがもし大学に願書を出した後だったら? 試験に受かった後だったら? 獣医学部に入学した後だったら? 前に進むことも後戻りすることもできなくなって、それこそ完全に行き詰まっていたかもしれない。でも今ならまだ体勢を立て直せる。選択肢は豊富にある。私たちには時間がある。そうでしょ?」
私たち、という言葉は俺をさっそく勇気づけた。「そうだな」と俺は顔を上げて言った。
「とにかくさ、こんな風にふたりでまた一からいろんなことを考えていこうよ。どうするのが神沢君にとって一番いいのか。獣医さんじゃ本当に望む幸せは手に入らないのか。どんな未来を選べば神沢君が幸せになれるのか。そういうようなことを、一緒に」
まるで降臨した女神を崇めるような眼差しを俺が向けていると、高瀬は出し抜けにはっと息を呑んだ。どうやら目の端に何かを捉えたらしい。彼女はなんの説明もなく俺のシャツの裾をつかみ、そのままピアノの下に身を隠すように移動した。
「急にどうしたの?」と俺は身を屈めて言った。あやうくピアノの角に頭をぶつけるところだった。
「まなと」高瀬は声をひそめる。「廊下をちょうどまなとが通りかかったの。こうして音楽室でふたりきりでいるところなんか見られたら、たぶん面倒になる」
いや、間違いなく面倒になる。そのうちここに戦車隊が突入してきてもおかしくない。高瀬の判断は正しかった。俺たちは息を殺して周防が通り過ぎるのを待った。さいわい音楽室の扉が開くことはなかった。しかし周防のものと思われる足音が遠ざかった後でも、俺たちは一向にそこから這い出ようとはしなかった。その畳半畳ほどの狭いスペースに留まったままだった。耳をすまさずとも互いの息づかいが聞こえるくらい体と体は接近していた。やがて高瀬が口を開いた。
「あのね神沢君。これは言うまでもないことだと思うのだけど――それでも念のため言っておくけれど――私と恋人同士になるっていうことは、その代わり失うものもあるっていうことだからね?」
「失うもの」と俺は言った。
「つまり」と彼女は言った。「もし他の人との未来をちょっとでも志向しているなら、その気持ちはきっぱり捨てなさいってこと。神沢君にその覚悟はある?」
すっかり浮かれてしまって、そこまで考えが回っていなかった。しかし高瀬の言う通りだった。正式な恋人がありながら他の異性との未来に思いを馳せるなんて、そんな不埒なことが許されるはずがない。高瀬が許すはずがない。「もちろんだ」と俺は言った。「覚悟はできてる」
彼女は至近距離から俺の目を見つめた。それから訝しそうに眉をひそめた。
「声は上擦っていたし、目は泳いでる」
声が上擦ったとすればそれは柏木のせいだった。目が泳いだとすればそれは月島のせいだった。「覚悟はできてる」と俺は頭をからっぽにして繰り返した。
「本当かな?」と高瀬は悪戯っぽく言った。そして悪戯っぽく笑った。「それじゃ、その覚悟を試しちゃおっかな」
「試す?」
「あの約束を守れるかどうかで、神沢君の覚悟をテストする。覚えているよね? あさっての約束」
「もちろん。柏木との交際が終わり次第、高瀬と鳴大のオープンキャンパスに行く。そういう約束だった」
高瀬はうなずいた。「つまりこういうこと。当初の予定通り、神沢君には晴香とのかりそめの恋人関係をまっとうしてもらう。まなととの取引もあることだしね。12日間の交際が終わるのはあさっての正午。それ以降はもう晴香と一緒にいる理由はないわけだから、すぐに鳴大前に来てもらう。そうすれば私は神沢君の覚悟を信じて、正式にお付き合いする。それでいい?」
「なんだ、そんなことでいいのか」俺はほっと胸をなで下ろした。どんな無理難題を突きつけられるかと思った。「簡単じゃないか。俺を信じて、鳴大前で待っていてくれ」
「どうだろうね」と高瀬は言った。「温泉が気持ちよくて、『もう一泊』なんてことにならなきゃいいけどね」
「え」俺の顔は引きつった。「なんで温泉旅行のこと、知ってるんだ?」
高瀬は種明かしを求められたマジシャンみたいに絶妙な笑みを浮かべた。そしてしばし間を置いてから表情をきりっと引き締めた。
「とにかく、私たちが恋人になって初めてのデートは、鳴大のオープンキャンパスってこと。ちょうどよかったじゃない。大学構内を歩きながら、さっそく神沢君の未来を一緒に考えよう」
「高瀬が俺を救い出す」と俺は言った。
「任せておいて」と彼女は請け合った。それから鼻先と鼻先が触れそうになるほど顔をぐっと近づけてきた。「ねぇ神沢君。ちょっとフライングになっちゃうんだけど、キス、しよっか?」
俺は唾を飲み込んだ。「今、なんて言った?」
「こんなセリフ、女の子に何度も言わせないで」
俺は舞い上がった。心はもちろん、体も文字通り物理的に舞い上がった。それがいけなかった。今自分がピアノの下にいるということをすっかり忘れていた。頭頂部が支柱か何かとにかくやたら固いものにぶつかり、たまらず俺はその場に倒れこんだ。
「ちょっと!」高瀬は慌てる。「今すごい音したけど、大丈夫!?」
「キス……」と俺はうめきながらつぶやいた。
「そんなムードじゃなくなっちゃった」と高瀬は呆れたように言った。そしてため息混じりに足を崩した。「やっぱり今の私たちにはこれくらいが精一杯みたい。キスの代わりに膝枕、してあげる」
俺は情けなさを感じつつのそのそと這うように移動し、スカートの上に頭を置いた。
「痛みが消えるまでしばらくこうしていなさい、お馬鹿さん」
高瀬は頭を優しく撫でてくれた。それがあまりにも心地よくて、俺はいつしか目をつぶっていた。瞼の裏には俺の手を引いて光へと導く彼女の後ろ姿がありありと焼き付いていた。そして『ジュ・トゥ・ヴー』のメロディが耳によみがえった。
それにしても、と俺は思った。それにしても高瀬。君という人はなかなか取り扱いが難しい女の子だ。
まずなりより第一に、素直じゃないのにも程がある。
何も「湯川うんざり」なんていうペンネームをこしらえて俺への想いを表明することはないじゃないか。俺の母親・有希子と柏木の親父が20年前、あちこちの文学賞に応募するため「川岸小雪」のペンネームを用いたのを倣ったのだろうが、俺がいつまでもアナグラムに気づかなければどうするつもりだったんだ。
俺との未来を夢見てくれているなら、何もわざわざそんな回りくどい真似をしなくたって、一言「好き」と言ってくれればそれで済む話なのに。
ああ、そうか。プライドの高い君のことだから、俺が先に好きと言うまでは意地でも自分からは言わないと決め込んでいるのだろう。きっとそうだ。頑固な人だ。素直じゃないし、どこまでも頑固だ。
それから、裏表がありすぎるのもいただけないぞ。
普段は大人しい反面感情に火がつきやすいからヒヤヒヤさせられるし、初心なように見えて案外キスには積極的だったりするからドキドキさせられるし、こっちはたまったもんじゃないよ。
明日から温泉旅行に行くのを知っていたことから察するに、俺と柏木を見張るべく月島を密偵として送り込んでいたのは、おそらく君なんだろう。まったく、やることが黒いよ。学園一の優等生と名高い生徒の所業とはとても思えない。
なぁ高瀬、そんなんだから君はいろんな不名誉なあだ名をつけられるんだ。ある人は「清楚爆弾」と言う。またある人は「カマトト姫」と言う。そしてまたある人は「ブラックヒロイン」と言う。さんざんな言われようだ。
まぁでも、言いたい奴には言わせておけばいいさ。誰がなんと言おうと、光に導いてくれる君は、俺にとって幸運の女神だ。
まだまだ言いたいことは山ほどあるけれど、こんな極上の太ももを枕にしていると、なんだか眠くなってきたな。頭を撫でられているのもいけない。風が気持ちいいのもいけない。このままだと何秒か後には確実に寝てしまう。
まぁなんだ。いろいろああだこうだ言ってきたが、結局一番何を言いたいかというと、高瀬。俺はやっぱり、君が好きだ。眠りから覚めても君が消えていないことを願ってもう一度言う。
俺は、君が、好きだ。




