第87話 君が、好きだ 3
この10日間のあいだ俺と柏木のあとを尾けていたのは誰か。
月島との対話を終えてその謎は解消されつつあったが、あいにく肝心の悩みの方は解消されなかった。それどころかむしろ迷いはいっそう深まってしまったと言ってよかった。
俺はいったい将来何を目指せばいいのだろう?
どの未来を選択すれば幸せになれるのだろう?
獣医になる未来だろうか? 居酒屋の店主になる未来だろうか? あるいは東京の老舗せんべい店の15代目になる未来だろうか? それとも――。
高3の5月にして、どの道を進めばいいのかまったくわからなくなってしまった。すごろくで言えば、あがり目前で振り出しに戻った気分だった。サイコロをふる気にもなれない。どうしたらいいだろう?
こういう時こそ誰かに――気心が知れた同性の誰かに――相談を持ちかけてみるべきなのだろうけど、残念ながら友人が極端に少ないというのが俺の高校生活における最大の泣き所だった。
ただひとり友達と呼べるのは太陽だが、医学部現役合格のために全てを捧げるあいつを頼ってみたところで、つべこべ言わず勉強しろと一蹴されるのがオチだった。
こんなことなら普段からいけ好かない奴にも媚を売っておくべきだった。そう強く反省したところで、俺ははっとした。諦めるのはまだ早い。一人だけ、相談に乗ってくれそうな奴がいる。いや、断言したっていい。あの男なら間違いなく親身になって俺の話を聞いてくれる。
俺のファンを公言してやまない男。俺を小説か何かの主人公のように思っている男。8歳年上の巨乳薬剤師と真剣交際する男。日本人初のノーベル賞受賞者と同姓同名の男。
あの変人は俺のことをよく知っている。ともすると俺よりも俺のことをよく知っている。それに口も堅い。友人にするのはちょっと抵抗があるけれど、相談相手としてはうってつけの人物だ。
俺はクラスメイトの湯川ヒデキを捕まえるべく、さっそく校内を探し始めた。
♯ ♯ ♯
湯川君はラウンジで暇を持て余していた。用件を聞くと彼はたちまち瞳を潤ませて、俺の手を握りしめた。
「うれしいなぁ、憧れの神沢君に頼られるなんて! 今日は人生最高の日だよ!」
彼は今にも抱きついてきそうだった。周囲には他の生徒たちもいる。校内であらぬ噂が広まっては面倒なので、俺は彼が落ち着くのを待つことにした。
「うれしいのはうれしいけれど」と湯川君は15分後に言った。「僕なんかが相談相手になっていいのかな?」
「自信を持ってくれ」と俺は待ちくたびれて言った。「ほら、去年の秋、修学旅行で行った京都でも相談に乗ってくれたじゃないか。あの時は学園祭のキスの件で高瀬がすっかりヘソを曲げて大変だった。でも湯川君のアドバイスが活きて、大ごとにならず済んだんだ」
俺は忘れていなかった。彼の提案した“プレゼント大作戦”が功を奏して高瀬との仲が修復できたことを。
「わかった」と湯川君は腕まくりして言った。「それじゃ誠心誠意、相談にあたらせてもらうよ」
「興奮しないで聞いてくれよ」と俺は前置きしてから、近況と併せて悩みを話した。かくかくしかじか。それを聞くと彼はもちろん興奮した。キタキター! と始まった。
「謎の少女の残した謎のメッセージ! 二転三転する“未来の君”の意味! 尊敬する獣医に突きつけられた厳しい現実! そして揺れ動く神沢君の気持ち! ああっ、なんてドラマティックなんだっ! それでこそ僕の憧れの人だ! 神沢君はやっぱりどう考えたって主人公だよ!」
俺はくすぐったくて仕方なかった。
「その“主人公”っていうの、頼むからやめてくれないかな?」
彼は大きく首を振る。「いくら神沢君の頼みでも、これだけは譲れない。恋に進路に悩める高校生。うん、まさしく青春小説の主人公そのものじゃないの!」
こいつにはもう何を言っても無駄っぽいので、俺は潔く諦めることにした。
「神沢君の主人公感もすごいけど、高瀬さんのヒロイン感も尋常じゃないね」湯川君は弁舌なめらかにそう続けた。「だって本当に新人賞をとっちゃったんでしょ? 普通とれないよ。高校生ならせいぜい奨励賞どまりだよ。ねぇ、どこの出版社の新人賞? 僕も小説は好きでよく読むから、くわしく知りたいな」
ここだけの秘密だぞ、と念押しして俺は高瀬から聞いた出版社名を口にした。彼はすぐにスマートフォンでその出版社のホームページを開いた。
「あったあった。『未来の君に、さよなら』っていう作品だね?」
俺はうなずいた。
どういうわけか、そこで彼の表情がとたんに曇った。視線の先には、著者名がある。
「湯川うんざり?」と湯川君は首をかしげて言った。「これが、高瀬さんのペンネーム?」
そういえばそうだった。どうしてかはわからないが、高瀬はそんなおよそ文芸的とは言いがたいへんてこなペンネームを名乗っていた。そうだよ、と俺は認めた。
「なんでよりによって“湯川うんざり”? 高瀬さんの身近にいる『湯川』って、どう考えたって同じクラスの僕だよね? 僕、高瀬さんにうんざりされるようなことを何かしたかなぁ? そんな覚えはないんだけどなぁ……」
俺も高瀬から彼にまつわるうんざり体験を聞いた覚えなんて、一度たりともなかった。
見れば湯川君は高瀬がペンネームに込めた意図を読み取るように、液晶とにらめっこしている。やがて彼は、わかった! と声をあげた。
「さては高瀬さんは僕に嫉妬してるんだ。僕があちこちで神沢君への憧れを喋ってまわっているから、目障りなんだ。さしずめこのペンネームは僕に対する当てつけなんだよ。それにしてもやり方があくどいなぁ。ヒロインなのに、黒い。高瀬さんはブラックヒロインだね」
なぁ高瀬、と俺は苦笑しながら心でつぶやいた。「清楚爆弾」と「カマトト姫」に続いてまたひとつ不名誉な称号が増えたぞ、と。
♯ ♯ ♯
「そろそろ本題に入ろうか」と湯川君は思い出したように言った。
「入ろう」と俺も趣旨を思い出して言った。
「神沢君の悩みはよくわかったよ。進路の選択肢が三つある。そのうちどれを選ぶべきか迷っている。要約するとそういうことだね?」
俺はうなずいた。
「三年生になる前は高瀬と獣医を目指すってことでほとんど決まりかけていた。ところが唯の書き置きがあったり柴田先生の言葉があったり、その他にもなんやかんやあったりで、もうどうすればいいのか、すっかりわからなくなっちまった」
「僕を相談相手に選んだのは正解だったかもね」そんなことを真顔で彼は言う。「実は僕もちょっと前まで将来をどうするか本気で悩んでいたんだ。しかも選択肢は三つ」
俺は思わず前のめりになった。
湯川君はすでに前のめりになっていた。
「一つめは研究者。これはもちろん両親の希望。なにしろヒデキなんて名前を僕につけるくらいだからね。うちは昔からの学者家系なんだ。二つめは小説の編集者。これは僕の小さい頃からの夢だった。神沢君も知っての通り僕は物語には目がない男だからね。そして三つめは地方公務員。これは他でもなく彼女のススメ。研究者や編集者を目指すならこの街を出なきゃいけないけれど、市役所にでも勤めれば彼女と離ればなれにならず済むからね」
「それで湯川君はどうすることにしたの?」と俺は訊いた。
「三つめの選択肢に決めたよ」と彼はなんのわだかまりもなく答えた。「大学は受けず、公務員試験を受ける。『何の仕事をしたいか』よりも、『誰と一緒にいたいか』を優先したんだ」
「8歳年上の薬剤師の彼女さん」
「試験に受かって公務員になれたら、結婚するつもりでいる」
ひゅう、と俺は口笛を吹いた。
「彼女と一緒にいるのが、僕の幸せだ」
「ひゅう」
「と、とにかく僕が何を言いたいかというとね、『この人が好きだ』っていう強い想いがあるなら、それを大事にしようよってことさ。今の時代、仕事なんてその気になればいつだって変えられる。でも心から好きだって思える人とめぐり会える機会は、そう何度もないでしょう? 僕は彼女のことが好きだ。だから彼女と一緒にいたいと思う。それが幸せだと思う。この選択に悔いはない。神沢君はどう? 高瀬さんのことが好きなんじゃないの? だったら何をすべきかは簡単じゃない。高瀬さんに正直に事情を話して、獣医になる以外の未来をふたりで一から考えなよ」
俺は何も答えることができなかった。その沈黙は当然ながら湯川君を困惑させた。
「あ、あれ? 高瀬さんのことが心から好きなんじゃなかったっけ?」
俺は心の声に耳をすましてみた。声には雑音が混じっていた。
「好きは好きなんだけど」
「ずいぶん歯切れが悪いね」
俺は否定しなかった。そして思いの丈を吐露した。
「高瀬と話していると、ふとこんな風に思うことがあるんだ。高瀬が本当に必要としているのは俺じゃなくて、一緒に夢を追う人なんじゃないかって。言っている意味、わかる?」
「一緒に夢を追ってくれるなら、神沢君以外の誰かでもいいってこと?」
俺は伏し目がちにうなずいた。
「柏木と月島はそうじゃない。あの二人は本当に俺を必要としている。俺だけを必要としている。高瀬はどうなんだろう? 俺たちは一緒に大学に行くと約束した。俺は獣医を、高瀬は翻訳家を目指すと誓い合った。でもその約束が、誓いが、もし果たせなくなったら、それでも彼女は俺と一緒にいてくれるだろうか? わからない。わからないから、獣医になるという意欲が俺の中から消えつつあることも打ち明けられないんだ」
「なるほど」と湯川君は言った。「高瀬さんの本当の気持ちがわからなくなってしまった。そしてそのせいで自分の気持ちもわからなくなってしまった。煎じ詰めれば、そういうことだね」
俺は自嘲せずにはいられなかった。
「そう聞くと、どうしようもなく情けない男だな」
彼は目を細めてこっちを見てくる。どうせ「主人公っぽい悩みだ」とでも思っているんだろう。
変人はそれから、高瀬さんの本当の気持ちねぇなどと独り言を言いながら、再び新人賞の特設サイトを眺めた。
彼の手からスマートフォンが滑り落ちそうになったのは、その一分後のことだった。「ちょっと待てよ」とつぶやくと彼は慌ただしくノートを取り出し、そこに高瀬のペンネームをひらがなで書き起こした。そして難しい方程式を解いたみたいに顔をほころばせ、笑った。
俺は笑えなかった。「どうしたの、急に」
「僕はとんでもない勘違いをしていたみたいだ」と彼はうれしそうに言った。「高瀬さんはなにも僕にうんざりしていたわけじゃなかったんだ!」
「というと?」
「神沢君、安心していいよ」湯川君は俺の肩に手を置いた。「どうやら高瀬さんは、神沢君が考えているよりもずっとずっと、神沢君のことを真剣に想っているみたいだよ」
俺はわけがわからず首をかしげた。「あのさ、さっきからいったい何を言ってるんだ?」
「どうしてわからないかなぁ」彼はノートを持ち上げ、俺に見せた。「しっかりよく見て。『ゆかわうんざり』。このペンネームがすべてだよ。まだ気づかない? ここに高瀬さんの本当の気持ちがちゃんと表れているじゃないの」




