表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第三学年・春〈選択〉と〈恋人〉の物語
308/434

第86話 君は幸せにはなれないかもしれない 2


 ゆうひ・・・は待合室で南さんに抱かれて大人しくしていたが、なんの前兆もなく突然うめきだし、それから激しい痙攣に襲われた。両目をかっと見開き、手足を激しくばたつかせている。


 12歳の黒猫の体内で何かただならぬことが起こっているのは、素人目にも明らかだった。俺は慌てて診察室へ駆け込み、柴田先生にありのままを報告した。ちょうど先生はビーグル犬の健康診断の最中だったが、それを聞くと続きは後にさせてほしいと飼い主に理解を求めた。飼い主は二つ返事でそれを了承した。ビーグル犬も何かを察したように診察台から下りた。


 先生は「すぐに連れてきて」とジェスチャーで俺に命じた。俺は待合室に戻って、南さんに診察室へ行くよう促した。気づけば時刻は受付時間の5時を過ぎていた。俺は外に出て「診察中」のプレートを裏返し「休診中」にした。そして急いで診察室へ向かった。


 ♯ ♯ ♯

 

 残念ながらゆうひは助からなかった。


 痙攣が起こってまだ30分も経たないうちに、南さんの愛猫は息を引き取った。


 先生は一年前にモップに対してもそうしたように、姿勢を正し、目を閉じ、そして静かに合掌した。南さんは診察台の脇で泣き崩れた。俺は無意識に自分の右手を見た。ついさっきゆうひを撫でた時の感触がそこにははっきり残っていた。

 

 やがて南さんは泣きやむと、ゆっくり立ち上がり、診察台の上で冷たくなったゆうひを撫でた。そして声を震わせ「返してください!」と叫んだ。「ゆうひを返してください! 私にとってこの子は妹同然の大切な家族なんです! この子がいない生活なんて考えられません! 明日から私はどうやって生きていけばいいんですか!? ゆうひを返してください!」

 

 それはすごい剣幕だった。俺は面食らった。教室での寡黙な南さんとはまるで別人だった。彼女は今にも先生に掴みかかりそうな勢いで叫び続けた。


「先生、私、ずっと言ってきましたよね? 手術した方がいいんじゃないかって。でも先生はいつも『投薬治療で大丈夫』の一点張りでした。その結果がこれですよ。何が大丈夫ですか! 手術に踏みきっていれば、もっとゆうひは長く生きられたんです! 先生がゆうひを殺したんです! 私は先生のことを許しませんから!」

 

 結局南さんは迎えの車が来るまで先生に辛辣な言葉を浴びせ続けた。悪徳獣医、製薬会社の回し者、果てには死神・・なんてものまであった。先生は何を言い返すでもなく、ただじっと非難を受け止めていた。

 

 さすがに俺は先生のメンタルが心配になった。南さんが帰ったあとで「大丈夫ですか?」とそれとなく聞いてみた。


「さっきのことなら、気にしなくていい」と先生は涼しい顔で言った。「専門的な細かい説明は省くがね、ゆうひちゃんのケースでは投薬治療が最善策だ。手術をすれば助かったというのは、それこそ結果論というものだよ。100人獣医がいれば99人は投薬治療を選択しただろう。したがって今回の件は医療ミスでもなんでもない。僕は獣医師として決して間違った判断はしていない」

 

 俺は納得がいかず首をかしげた。「どうしてそのことをはっきり南さんに伝えなかったんですか? 落ち度はないのに死神呼ばわりされて、悔しくないんですか?」

 

 先生はそれを聞くと無言で意味ありげな笑みを浮かべた。そして俺の肩を二、三度軽く叩き、ビーグル犬を診察室に呼び込んだ。


 ♯ ♯ ♯


 利口なビーグル犬と寛大な飼い主を「お大事に」と言って見送って、ようやくすべての業務が終了した。疲れた。俺が一息ついていると、ご苦労さん、と先生が声をかけてきた。


「よくがんばってくれたね。良い働きっぷりだった。明日からも来てほしいくらいだよ。ああ、あまり放課後の時間を奪ってしまっては、気の強そうな君のカノジョに怒られるか」

 

 俺は苦笑した。「受験勉強もありますし」居酒屋のバイトもありますし。

 

 先生は待合室のパイプ椅子を向かい合わせにした。そしてその片方に俺を座らせ、もう片方に腰を下ろした。それから口を開いた。

「さて。今日一日僕の下で働いてみて、獣医の仕事がどういうものか、ちょっとは理解できたかな?」


「想像していたより5倍くらい重労働でした」と俺は正直に感想を述べた。

 

 先生は笑って自分の頭を触った。

「この歳で白髪だらけになるのもうなずけるだろう? 楽な仕事じゃないよ。君の中で獣医になりたいという気持ちもだいぶ萎んだんじゃないかな?」


「逆です。その気持ちはむしろ、強くなりました」

「ほう。どうして?」

 

 俺はゆうひの感触の残る右手に目を落とした。

「僕はモップを助けてやれなかった悔しさから獣医を志すようになりました。でもモップの死から一年経って、正直最近はその悔しさも薄らいでいました。でも今日、ゆうひの死を目の当たりにして、初心を思い出したんです。ゆうひは待合室で、僕になついてくれました。ごろごろ喉を鳴らして甘えてくれました。そんなゆうひが苦しむ姿に、モップが苦しむ姿が重なりました。モップが苦しんでいるのに、ただ見ていることしかできなかった無念さが胸によみがえりました。やっぱり僕は、獣医になりたいです」


「たいしたものだ」と先生は言った。そこには嫌味や皮肉の響きはなかった。しかし特別感心している風でもなかった。「せっかくなので、もう少し踏み込んだ話をしてみようか。君は人生の中で獣医という職をどういう風に位置づけているんだろう?」

 

 俺は質問の意図がわからずきょとんとした。


「ああ、ちょっと難しかったね。有り体に言えばつまりこういうことさ。獣医になるのが何も人生の最終目標というわけではないだろう? あくまでも獣医はひとつの職業、言わば通過点に過ぎない。何年か後に獣医になれたとして、その先君はどうなりたいんだろうという話さ。金を稼ぎたいのか、女にもてたいのか、社会貢献して表彰されたいのか、はたまたテレビに出て有名人になりたいのか。それを聞いているんだ」

 

 言われてみればそこまで考えたことはなかった。でもたしかに先生の言うとおりだ。20代で獣医学部を卒業し、80歳まで生きると仮定すれば、獣医になった後の人生の方がずっと長い。


 獣医のその先の未来――。


 “今を生きる”がモットーの気の強そうな誰かさんが聞いていれば、「あまり未来のことを考えさせないで!」と怒り出しそうなところだが、今隣には誰もいないので、俺はそれについてじっくり考えることにした。


 さまざまな言葉が頭に浮かんでは消えた。やがて最後まで一つだけ消えずに残ったのは、やはりこの言葉だった。


幸せ(・・になりたいんです」と俺は言った。そしてこれまでの生い立ちや境遇を先生に包み隠さず打ち明けた。決して幸せとは言えない、つらい過去を。


「お母さんが家出をしてお父さんが放火で服役」先生は腕を組み、唸る。「なんとなく普通の高校生ではないと感じてはいたが、まさかそんな重い過去を背負っていたとは」


「そのせいか僕は、幸せな未来を手にしたいという気持ちが昔から人一倍強いんです」俺は前のめりになってそう言った。「将来獣医になれれば、僕の望む幸せはきっと手に入ります」


「君の望む幸せとは、いったいどういうものだろう?」


「そうですね、まずは平穏無事な生活ですね。いざこざやトラブルはもうまっぴらです。そういう面倒はこれまでにもう一生分を味わいました。波風の立たない、穏やかな毎日が一番です」よどみなく言葉が出てきた。「それにやっぱり家族もほしいですね。温かい家族。もちろん奥さんには家出なんかさせたくないし、子どもには自分のように寂しい思いはさせたくない。このすべてを叶えるには、どうしてもある程度安定した収入が不可欠です。獣医は高収入だと聞きました。獣医になれれば、僕は幸せになれると思います」


「整理すると、“平穏な日々”と“円満な家庭”が、君の思う幸せというわけだね?」

「はい。それだけは譲れません」

 

 先生はどういうわけか眉間にしわを寄せ、気まずそうに俺から目を逸らした。


「目を輝かせて夢を語る若者にこういうことは言いにくいのだが」と先生は本当に言いにくそうに言った。「それが神沢君の幸せだというのなら、たとえ苦労して獣医になれたとしても、君は幸せにはなれないかもしれない」


 風駆ける草原で気持ちよくうたた寝していたら、いつしか周囲は凍てつく氷原に変わっていた。心酔する柴田先生の予期せぬ言葉は、それくらい俺の世界を一変させた。


「それは」俺は戸惑った。「それは、どういう意味ですか?」


「文字通りの意味だと解釈していい」心なしか先生は診察中より真剣だった。「獣医という職は、君を幸せにはしないだろう」

 

 俺は寒気を覚えて思わず身震いした。先生は淡々と話し続けた。

「さっきの子、たしか南さんと言ったかな。君のクラスメイトでもある子。彼女は愛猫のゆうひちゃんの死を受け入れることができず、我を忘れて僕に食ってかかってきたわけだけど、君もその場にいたから覚えているね?」

 

 よく覚えていた。「教室での無口な彼女とはまるで別人で、驚きました」


「君はああいうシビアな場面に自分がたまたま・・・・居合わせたと思っているかな?」

「違うんですか?」


「とんでもない」先生は大きく手を振る。「あんなのはたまたまでもなんでもない。日常茶飯事と言ってもいい。南さんにとってのゆうひちゃんがまさにそうであったように、今やペットは人間にとって家族同然の存在になっている。その家族の死は飼い主に強い悲しみや苦しみ、あるいは怒りをもたらす。そうしたやり場のない負の感情は時として、我々獣医に向けられるのだよ」


「そんな理不尽な」と俺はつぶやいた。


「にわかには信じられないかもしれないね。でも君も南さんの豹変ぶりをその目で見ただろう? ペットの死は得てして人を変えてしまう。普段の彼女は礼節をわきまえたほがらかな少女だった。そんな彼女が分別を失って、聞くに堪えない言葉を僕に浴びせるようになるんだ。そしてそれは決して珍しいことじゃないんだよ」

 

 悪徳獣医、製薬会社の回し者、さらには死神とまで罵られる自分を想像して、俺はぞっとした。

 

 するとそれを見抜いたかのように先生はこう言った。

「先ほど君は僕にこう尋ねてきたね? 正しい治療をしたのに死神呼ばわりされて、悔しくないのか? どうして反論しないのか、と」

 

 俺は無言でうなずいた。先生は意味ありげな笑みを浮かべただけで、回答を保留していた。


「答えは簡単さ。その程度のこと・・・・・・・をいちいち真に受けて気に病んでいたら、獣医なんてとてもじゃないがやってられないからだよ」

 

 先生は天を仰ぐように院内を見渡した。


「この病院を開業して今年で20年になるがね、僕はこれまで、決して愉快とは言えない目に幾度とあってきた。脅迫めいた電話がかかってきたこともあった。殺害予告のような手紙が届いたこともあった。愛車にスプレーで『ヤブイシャ』と落書きされたこともあった。ネット上に根も葉もない悪評を書き込まれることもあった。訴訟は三度起こされた。どうだろう? これが果たして君の求める、波風の立たない穏やかな日々と言えるだろうか? 少なくとも僕は自分の獣医人生を振り返ってみて、“平穏な日々”を享受していると感じたことは、一度もないよ」

 

 俺は何も言えなかった。言えるはずがなかった。

 

 先生は椅子から立ち上がった。そしてデスクの引き出しから一枚の写真を取り出し、それを俺に手渡した。そこには三人の人物が写っていた。まだ白髪が生え始める前の先生と白髪が生え始めた中年女性。それから7、8歳の女の子。誰の顔にも笑みはない。


「僕の女房と娘だ」と先生は言った。「女房は娘を連れて5年前に出て行った。ふたりとも僕に愛想を尽かしたんだ」

 

 どうしてですか、と俺は目つきで尋ねた。


「仕事にかまけて家庭をかえりみなかったからだよ」先生は自嘲気味にそう答えた。「長年連れ添った女房との結婚記念日を祝うより、初めて来た犬の手術を優先することもあった。娘の父兄参観やピアノ発表会に行くと約束しておきながら、急患が入ってすっぽかすこともあった。そんなようなことを何度も繰り返しているうちに、いつしかふたりの心は僕から離れていった」

 

 俺は無言で写真を先生に返した。先生は写真に目もくれず、続けた。


「君が幸せになるために欠かせないもの。もうひとつは“円満な家庭”だったね。もちろんすべての獣医が家庭をないがしろにして仕事に打ち込んでいるわけではない。なかにはうまくバランスをとっている人もいる。しかし多かれ少なかれ、家族に寂しい思いをさせてしまうのは避けられない。


 それくらい獣医は多忙だよ。プライベートな時間なんてまずないと思った方がいい。たまの休みも学会やら研究会やらであちこちに駆り出される。なにしろ獣医学も日々進歩してるからね。常に新しい知識をアップデートしなきゃいけない。君は自分の子には寂しい思いはさせたくないと言ったね? 『この家には父親はいない。いるのは仕事熱心な獣医だ』これは僕が娘に実際に言われた言葉だよ。これを聞いて君はどう感じるかな?」

 

 俺は何も言えなかった。何が言えるだろう? そのまま何も言えないでいると、やがて先生は動物を診察する時の目つきで俺を見てきた。よほどひどい顔をしていたらしい。


「すまなかったね。せっかく獣医になりたいという意欲を取り戻したばかりなのに、こんな気の滅入る話は聞きたくなかったよな。もしかすると君はこう思っているかもしれない。この人はどうして自分の夢を踏みにじるようなことを平気で言うんだろうって。しかしわかってほしいのだが、何も君が憎くてこんな話をしたわけじゃないんだ。むしろ僕は君のことを個人的に気に入っているんだ。幸せになってほしいとさえ思っている。どうしてだろう? 娘と同じ歳だからだろう、きっと。娘も今年受験なんだ」


 俺は黙って話の続きを待った。


「君には幸せになってほしいからこそ、敢えてありのままの現実を話した。“平穏な日々”と“円満な家庭”が幸せになる上で欠かせないというのなら、悪いことは言わない。獣医の道には進まない方がいい。そのふたつが手に入る職業は他にいくらでもある。まぁいろいろ言ったが最終的に決めるのはもちろん君自身だ。どうか誤った選択だけはするんじゃないよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] トラブルの無い生活どころか、トラブルと最前線で戦い続ける仕事だからね、医者って。 自分の家族より患者を優先しなきゃいけないし。 医者だけでなく、高給取りの仕事って割とそういうものかもしれな…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ