第85話 ねぇ、この音が聞こえるでしょう? 3
昼時になると柏木は馴染みのそば屋に電話をかけて、出前をとってくれた。
正直食欲はあまりなかったけれど、いつまでもくよくよしてないで食べなさいと叱ってくるので、俺は無心でそばをすすった。通も認めるうまいそばらしいが、味なんてほとんどわからなかった。
それでも不思議なもので、腹がふくれるといくぶん気分が和らいだ。ちょっとだけ心の余裕が出てきた。彼女のために何かしてやりたいという気持ちになった。するとそれを見透かしたかのように、柏木は身を乗り出してきた。
「ねぇ。さっきの話、考え直してくれた?」
「さっきの話?」
「温泉旅行!」
俺ははっとした。それは先ほど喧嘩の引き金になった言葉だった。
「そういえば言ってたな」
「言った言った」と彼女は言った。
「今でもその気持ちは変わらない?」
「1ミリも変わらない」彼女は大きな瞳を輝かせた。「ほら、あたしって修学旅行に参加しなかったじゃない? だから他の高校三年生より思い出がひとつ少ないんだよ。それを埋めるためにも、どうしても悠介と旅行に行きたいの。ねぇ、いいでしょ?」
「旅行」と俺はつぶやいた。
「お泊まりで、温泉旅行」と柏木は言い改めた。
叶えてやりたいのはやまやまだが、やはりどうしても費用のことが頭をよぎった。宿泊費に交通費やらなんやらも加えればどう安く見積もったって、ちゃんとしたメーカーのちゃんとした掃除機を買えるくらいの金額になる。家の掃除機の調子が悪くて、ちょうど買い替えようかと思っていたところなのだ。
俺の頭の中には、いつしか特設リングができあがっていて、そこでは温泉旅行と新型掃除機が激しい攻防を繰り広げていた。そこへ思わぬ人物が乱入してきた。高瀬だった。彼女はかんかんに怒っていた。制服姿の高瀬はトップロープをまたいでリングに上がると、掃除機を荒々しく持って「温泉旅行」の四文字をあっという間に吸い取ってしまった。そして掃除機ごとリングの外へ豪快に放り投げた。
ねぇ神沢君、大学はどうするの? と彼女はマイクを持って言った。大学進学のためにバイトをがんばってるんじゃないの、と。まったくもってその通りです、と俺は頭を垂れるしかなかった。
「なぁ」と俺は柏木に言った。「日帰り旅行じゃだめなのか?」
「えぇ? 日帰り?」
「日帰りだって楽しいぞ。朝早くの電車に乗って、知らん街に行って知らん景色を見て知らん料理を食べる。そうやって一日中たっぷり遊んで、夜の電車で帰ってくる。どうだ? ワクワクしないか?」
「うーん、いまいち」
「でもさ、心臓のことを考えると、日帰りが無難だと思うんだ」俺はもっともらしい口実をつけた。「もしも夜中に何か起きたらどうする? 温泉街だと病院も遠いだろうし、救急車だってきっとすぐには来ない。やっぱり日帰りにしよう」
柏木はしばらく悶々と悩んだ末に口を開いた。
「悠介がそこまで言うなら仕方ないか。残念だな。憧れだったのにな、恋人との温泉旅行。『カレシができたらやりたかったこと・その3』は未達成、と」
「すまんな」と俺は言った。そして明るい声を出した。「日帰りでも修学旅行に負けないくらいの思い出が残せるように、良いプランを考えておくから」
そう約束したはいいものの、いったいどこへ行って何をすればいいか、簡単には思いつけなかった。
そのうち俺は部屋の片付けが途中だったことを思い出した。見ればまだまだ部屋は散らかっている。体を動かしながら考えた方が良いアイデアが出るかもしれない。俺は再び頭にスカーフを巻いて、片付けにとりかかった。
その小さな紙を見つけたのは、テーブルの下を掃除している時だった。二年生の時のプリントや半年前の日付のレシートに埋もれてそれはあった。紙はどうやら福引券のようだった。何年前の福引券だよと思って券をよく見てみると、驚いたことにそこには今年の西暦が書かれていた。そしてさらに驚いたことに今日が福引の最終日だった。
「こんなん出てきたけど」俺は券をつまんで柏木に見せた。
「あーっ!」彼女はすっ飛んできた。「すっかり忘れてた! それ、うちの商店街のガラポン抽選券なの! たしか今日まででしょ」
「何が当たるんだろう?」
「裏に書いてない?」
「どれどれ」俺は券を裏返した。たしかにそこには景品が書かれていた。景品は一等から五等まであった。五等は酢で四等は海苔だった。三等は昆布醤油で二等は米だった。おいおいまさか一等は寿司桶じゃないだろうなとも思ったが、さすがにそんな馬鹿な話はなかった。「一等は、遊園地のフリーパスだ」
「フリーパス!」柏木は目の色を変える。「乗り物乗り放題ってこと? どこの遊園地?」
俺は遊園地の名前を読み上げた。そこは電車で二時間半の街にある人気の遊園地だった。
「そこ、一度でいいから行ってみたかったんだよね。当たらないかなぁ、フリーパス」
「ここに行く旅行なら、日帰りでも楽しめそうか?」
「ワクワクしてきた」柏木は俺の手から券を奪いとった。「モタモタしてたらフリーパスを誰かにとられちゃう。今すぐ行こう!」
♯ ♯ ♯
そのまま抽選会場へまっしぐら、と言いたいところだったが、途中で俺の足を止めたものがあった。
それは背中に刺さった視線だった。誰かに後ろから監視されているような気配がたしかにあった。柏木との交際初日に墓場で感じた気配と同じものだった。
俺は振り返った。そして注意深くあたりを見渡した。しかし俺と柏木の動きに目を光らせているような人物なんて、特には見当たらなかった。
「また?」と隣で柏木は呆れたように言った。
俺は額に手を当てた。「おかしいな。誰かの視線を感じたんだけどな」
「やっぱり優里なんじゃないの?」
「高瀬は今日は家で受験勉強だよ」
「わかった。人間じゃないのなら、神様だよ。神様の視線。『大時計の神様』があたしたちを見守ってくれているんだよ」
「そうだといいけどな」と真顔で言いつつも、俺は心で、そんなわけあるか、と笑い飛ばしていた。“大時計の伝説”なんて所詮迷信だ、と。
俺がその凝り固まった考えを改めることになったのは、これからわずか7分後のことだった。
♯ ♯ ♯
会場となる婦人服店の前では、紅白のハッピを着た商店街のお偉方が抽選客を待っていた。彼らはいかにも寂れた商店街の寂れた店の主らしく辛気くさい顔をしていたが、柏木の姿を見たとたん、にわかに色めきだった。
「おお、商店街のマドンナのお出ましだ!」
学園のアイドルは商店街のマドンナも兼務しているらしかった。
マドンナは台座の上に置かれた酢や醤油を見てため息をついた。
「それにしても毎年ケチくさいねぇ。たまには景気よくどーんとハワイ旅行でも用意すればいいのに」
会長が苦笑いした。「晴香ちゃんも知ってるでしょ。今は郊外の大型店にお客を取られて、どこも大変なんだって」
副会長はなぜか得意顔になる。「ここだけの話、今年は奮発した方なんだよ」
これで? と言いたげに柏木は首をかしげた。「まぁいいや。それで、一等の遊園地フリーパスはまだ残ってるの?」
「晴香ちゃん、ツイてるね」と会長は言った。「まだひとつ、残ってるよ」
柏木は手を叩いた。そして俺の背中を押した。「悠介、任せた」
「君がウワサのカレシ君だな」副会長はくす玉のひもに手をかける。「晴香ちゃんのためにも、ここは一丁、男を見せるんだぞ」
「はぁ」男を見せるべきシーンはもっと他にある気もするが、ともあれ、俺は玉の色を確認した。三等は青で二等は紫。そして一等は赤だ。
一つだけ抽選箱の中に残っているという赤玉をイメージしてハンドルに手を伸ばした、その時だった。サンバイザーをつけた婆さんがどこからともなく現れて、俺たちの前に強引に割り込んできた。サンバイザーのひさしが俺の腕に当たったが、婆さんは謝るでもなく会長に抽選券を渡した。ちょっとお婆ちゃん、とすかさず柏木が抗議した。「ちゃんと後ろに並んでよ!」
「そんな時間はないよ」とサンバイザー婆は図々しく言った。「あたしゃ老い先短いんだから、一秒だって惜しいんだ。あんたたちみたいに時間が腐るほど余ってる若い人とは違うんだよ」
そんなことはない、とよほど言い返してやりたかった。俺はともかく彼女はそうじゃない、と。しかしここでわざわざ柏木の病気のことを持ち出してまでこの想像力も常識もない婆さんを諭すのも馬鹿らしかった。それで俺はやむなく黙っていた。
会長と副会長はあたふたしていたが、そうこうしているうちに、サンバイザー婆はハンドルを回し始めてしまった。抽選器の中を多くの玉が転がる、がらがらという乾いた音がした。
赤だけは出るなよと俺は祈った。柏木も隣で祈っていた。
やがて受け皿に放出された玉を見て、俺は愕然とした。柏木も頭を抱えた。それは何色かといえば、憎たらしいまでに鮮やかな、完全な赤だった。
会長と副会長は顔を見合わせた。副会長はくす玉のひもを持ったまま固まり、会長はハンドベルを鳴らした。「お、おめでとうございます。一等、遊園地フリーパスの当たりです!」
「ちょっと待った!」柏木は物申す。「こんなのってないよ! 無効だよ無効!」
「なにさ、人の幸運にケチつけるんじゃないよ!」
サンバイザー婆はほとんどひったくるように、会長からフリーパスの入ったのし袋を受けとった。そして透明のひさし越しに勝ち誇った目で我々を見て、どこかへ消えた。
「なんだかごめんね、晴香ちゃん」会長は手を合わせる。
「出ちゃったものは仕方ないからねぇ」副会長は赤玉をつまんで取り除き、一等の欄に太いペンで線を引いた。
柏木は肩をすくめた。「こうなったら悠介、二等のお米でもいいよ。あたし、お米大好きだから。がんばれ!」
一応うなずきはしたものの、正直なんだかもうどうでもよくなってしまった。俺は抽選器の元へ無表情で向かい、無欲でハンドルを回した。がらがらがら。玉はなかなか出てこなかった。がらがらがら。無目的な作業はしばらく続いた。とうとう回転が八周目に入ったところで、俺の耳元である音が甦った。それは例の大時計の鐘の音だった。
なんだってこのタイミングで?
その疑問がブレーキとなって思わず手が止まった。そのはずみでついに一つの玉が抽選器から放出された。玉は弧を描き、小気味よい音を立てて、受け皿の上を転がった。その玉の色は俺を仰天させた。それは白でも緑でもなかった。青でも紫でももちろん赤でもなかった。玉は金色だった。
「どういうこと?」と俺は柏木に言った。
「どういうこと?」と柏木は会長に尋ねた。
「どういうこと?」と会長はわざとらしく副会長に聞いた。
「こういうこと!」と副会長は言って、くす玉のひもを思いきり引っ張った。「おめでとう! 特賞の大当たり!」
割れたくす玉から勢いよく出てきた垂れ幕には、こう書かれていた。
「祝! 特賞! 温泉旅行ペア宿泊券」
それを見た俺と柏木は雄叫びとも悲鳴ともつかない声をあげた。拳を突き上げ、飛び跳ね、そして抱き合った。どこかへ消えたはずのサンバイザー婆が、電柱の影からこちらを見ていた。よほど悔しくてたまらないのか、透明なひさしが鼻息か何かで曇っていた。それがまた痛快で、喜びを二割も三割も増幅させた。
時間も忘れてはしゃぎ終わると、やはり先ほどの疑問が浮かんだ。
「ところで会長さん、これ、どういうこと?」柏木が再度尋ねた。
会長はしたり顔をする。「いやね、今年は趣向をちょっと変えようと思ってさ、一等の上に特賞があるのを、当たるまで隠しておくことにしたんだよ。まぁ世に言うサプライズってやつさ」
「ね?」副会長はにんまりした。「今年は奮発したって言ったでしょ?」
俺は目録と書かれたのし袋を丁重に受け取った。中からは正真正銘、温泉宿の宿泊券が二枚出てきた。
「行くでしょ、悠介?」と柏木は少し不安そうに言った。
心臓のことはもちろん気がかりだったが、ここで細かいことをぐだぐだ言うのは、野暮というものだった。「行くしかねぇだろ」
柏木はほっとしたように微笑んだ。
「そういえばさっき、ガラポンを回してる途中で手が止まったよね? そのおかげで特賞が当たったようなものだけど、なんで急に手が止まったの?」
「笑うなよ? 大時計の鐘の音が聞こえたんだ」
俺は柏木と交際を始めてからこの5日間で起きた“良いこと”を思い出さずにはいられなかった。
まず初日。いずみさんのなくした形見のイヤリングが、墓参り中にたまたま会った老婦人がたまたま以前拾って大事に保管していたおかげで、無事戻ってきた。
3日目。中学の同級生に絡まれてクイズゲームで勝負することになり窮地に陥ったが、たまたま直前に知り合った元競艇選手のおっちゃんの問題がたまたま出て、事なきを得た。
そしてたった今。部屋の片付け中にたまたま見つけた福引券を使って一度だけガラポンを回すと、最終日までたまたまひとつだけ残っていた特賞が当たった。特賞は柏木の念願の温泉旅行だった。
こんな、一年に一度あるかないかの幸運な出来事が、こうも立て続けに起こるものなのだろうか? たまたまにしては、偶然にしては、あまりにも出来すぎている。何か特別な力が働いているとしか――。
そんなことをぼんやり考えていると、ある言葉が頭に浮かんできた。三つの出来事を包括して表現するなら、この言葉しかなかった。
「なぁ」と俺は柏木に言った。「大時計の伝説が本当だとして、大時計の神様が本当にいるとして、神様が何を起こしてくれるのか、俺はなんとなくわかった気がする」
「え? なになに? 教えて」
確証はないので、少しもったいつけることにした。
「“き”で始まって、“き”で終わるもんだ」
それを聞くと柏木は目をぱちぱち瞬いた。そして特賞の金の玉をつまみ、俺の股間と交互に見た。
「もしかして、きんてき?」
「帰ろうか」としか俺は言えない。




