第85話 ねぇ、この音が聞こえるでしょう? 2
俺の視界は闇で閉ざされた。無意識に顔を両手で覆っていたのだと、だいぶ遅れて気がついた。視界とは対照的に頭は真っ白になって、何も言葉が浮かんでこなかった。
しばらくしてようやく口にすることができたのは、「嘘じゃないんですよね」というどうしようもない台詞だった。
いずみさんの乾いた咳払いが聞こえた。
「あのさ悠介。私はべつにたいした人間じゃないけどさ、だからといってこんな馬鹿げた冗談を抜かすほど、くだらない人間でもないよ」
俺は小さくうなずくのが精一杯だった。しかしいつまでも現実から目を背けているわけにもいかなかった。柏木は病気だ。それもえらくたちの悪い病気だ。俺は両手をゆっくり顔から離した。
「病気がわかったのは、いつのことですか?」
「三年生になってすぐだよ」いずみさんは昨日のことのように言う。「学校から帰ってきた晴香に店の手伝いをお願いしたら、あの子、二階の自分の部屋からなかなか出てこないんだよ。普段はものの一分で着替えて階段を下りてくるのに。どうしたんだろうと思って行ってみたら、うずくまって左胸を手でおさえてるじゃないか。それを見て私はすぐにピンときたよ。これはあの病気の発作だって。なにしろ苦しみ方が兄貴と同じだったからね。すぐに店じまいして晴香を病院に連れて行ったさ。精密検査の結果は――案の定。私は取り乱してつい叫んでしまったよ。晴香の心臓と私の心臓を取り替えてくれってね」
俺はこの一ヶ月半の柏木の様子を思い返した。心臓が悪いような素振りなんて、一瞬たりとも見せなかった。5日前に交際を始めてからも体をかばうどころかむしろ、前にも増して活発に動いていた。ゲームセンターで汗だくになるまで遊んで、無邪気に笑う彼女の顔が脳裏に浮かんだ。
「なんで俺にずっと黙ってたんだよ……」
「あんたの前では強くてカッコいい女でいたいんだろうさ」叔母は姪の気持ちを代弁する。「病気で苦しんでいる姿を好きな男に見せて心配かけるなんて、あの子の意地が絶対に許さないはずだよ」
「今日あいつが動物園に来なかったのは、もしかして」
いずみさんはうなずいた。
「晴香、昨日からすごく楽しみにしてたんだよ。明日は悠介と動物園デートだって。一緒にポニーに乗るんだって。でも朝になっておめかしして外に出たところで発作が起きてね。あの子は悠介が待ってるから行くって言い張るんだけど、なにしろ病気がわかって以来初めての発作だったからね。私がなんとか説き伏せて、行くのをやめさせたんだよ」
そういえば柏木はしきりに「気分が変わった」と言っていた。外に出たところで気分が変わった、と。それを「発作が起きた」に置き換えれば、すべて合点がいった。俺はため息をついた。
「この病気のことをあらためて詳しく教えてください。俺は知っておく必要があります」
いずみさんは主治医から聞いたという話を噛みくだいて説明してくれた。
国内でも数百例しか症例のないとても珍しい病であること。
おそらくは遺伝性の疾患だと思われること(つまり父方からの遺伝であること)。
有効な治療法は今のところ確立されていないこと。
大人しくしていたからといって快方に向かうわけではないこと。
動き回ったからといって悪化するわけでもないこと。
したがって日常生活には特に制限はないこと。
そんなわけで学校には普通に通えるんだ、といずみさんは言った。「激しいものでなければ運動したってかまわないし、ハメを外し過ぎなければ遊んだってかまわない。実際あの子はよく動くしよく遊ぶ。だから傍目には心臓の病気だなんてわからないだろうね」
俺は柏木の父親を思い出さずにはいられなかった。あの男も実によく動きよく遊んだ。その奔放な人生には安静の“あ”の字もなかった。言われなければ病気だなんてわからなかった。しかし最後は発作で死んでいった。
「発作が怖い」と俺は言ってみた。
「とにかく発作が怖い」といずみさんは言い直した。「発作と一口に言ってもね、そのうち99%はただ胸に痛みが走って時間が経てば元に戻る、言ってみれば『良い子の発作』なのさ。問題なのは残りの1%。こいつは心臓の動きを問答無用で止めてしまう『悪い子の発作』なんだよ。この子がひとたび暴れだすともう、お医者さんでも手の施しようがないそうなんだ。
これまでと同じように生活していてかまわないとは言われたけれど、それは裏を返せば、治る見込みがないから匙を投げられたってことだろう? やるせないよ、まったく」
俺は小さく唸った。
いずみさんは続けた。「私の兄貴は――あの子の父親は、生前よく、自分の病気をこんな風に例えていた。『まるで導火線の長さのわからない爆弾が体内にあるようなもんだ』って。それはまさに言い得て妙だよ。導火線が長ければ、爆発する前に天寿をまっとうできるかもしれない。でも短ければ、今こうしているあいだにも爆発するかもしれない。兄貴の導火線は40歳目前で燃え尽きた。導火線の長さは――どれだけ長く生きられるかは――誰にもわからないんだよ」
「わかっているのは、一ヶ月半前に導火線に火がついてしまったということ」
いずみさんは小さくうなずいた。それから大きくうなだれた。
「それにしても晴香はいったいどれだけ試練を与えられなきゃいけないんだよ。父親が家出して母親は自殺。父親が帰ってきたかと思えばその日のうちに病気で死別。そして今度は自分が父親と同じ病気にかかる始末。まったく、この世には神も仏もないのかい」
俺はそこではたと、数日前に月島から聞いた人魚の話を思い出した。
恋した漁師に会うため陸を目指した人魚。陸では何日も生きられないことをわかっていた人魚。今この瞬間の恋のために生きることを選択した人魚。その人魚と柏木の姿が俺の中で重なった。
俺は途方もない後悔に襲われた。売り言葉に買い言葉だったとはいえ、病気のことを知らなかったとはいえ、心ない言葉を彼女に浴びせてしまった。
「人生はこの先まだまだ長いんだぞ? 嫌でも未来は来るんだ。おまえも少しは未来のことを考えろ」
それをあいつはどんな気持ちで聞いていただろう? どんな気持ちで……。
そう思うと居ても立ってもいられなくなった。俺はいずみさんに断って椅子から立ち上がり、二階へ向かった。
柏木はまるでふて寝するように、壁際のベッドで横になっていた。毛布を深くかぶり、こちらに背を向けている。
俺がベッドに近づくや頭まで毛布にすっぽり潜ったところをみると、どうやら眠っているわけではないようだった。俺はベッドの脇に立って口を開いた。
「いずみさんから全部聞いたぞ。親父と同じ心臓の病気になっちまったんだって?」
柏木は毛布の中で微動だにしなかった。俺は続けた。
「なんで話してくれなかったんだよ? おまえはいつもそうだ。他人の問題には首を突っ込みたがるくせに、いざ自分に問題が起こると、それを一人で抱え込もうとする。強がるなよ。他の奴の前ではいいけど俺の前では強がるな。俺には弱みを見せてもいいんだよ。今の俺はおまえの恋人なんだから」
十秒ほどすると、毛布の中から頭だけのっそり出てきた。俺はちょっとほっとして喉の調子を整えた。
「病気のことを知らなかったとはいえ、それにしても、さっきは言い過ぎた。反省してる。その、すまんかった。怒ってるなら、許してほしい」
「絶対許さない」と柏木は無表情な声で言った。「悠介なんか大嫌い」
「そう言うなよ」俺は焦った。「どうすれば許してくれる?」
「本当に反省してるの?」
「してる」
「それなら」と彼女は壁を向いたまま言った。「そこで正座して、パンツ一丁になって、あたしの好きなところを100個言って。それができないなら、もう悠介とは口をきいてあげない」
仕方がないので俺はトレーナーとジーンズを脱ぎ、両膝を突いて座った。そして口を開いた。
「ひとつ、底抜けに明るいところ。ふたつ、裏表がないところ。みっつ、物怖じしないところ……」
27個目、「脚が綺麗なところ」と言ったところで、毛布の中の体ががたがた震えだした。まさか発作かと思って冷やっとしたけれど、聞こえてきたのはうめき声ではなく、ぎゃはははという笑い声だった。
「ストップストップ。もう限界! これ以上耐えられない! 普通本当にやる? やらないでしょ。なによ、パンツ一丁で好きなところ100個って? 可笑しくて仕方ない! 笑いすぎてお腹が痛い!」
呆気にとられる俺を尻目に、柏木は腹を抱えて笑った。文字通り笑い転げた。三分ほどしてようやく彼女は起き上がり、涙を拭いながらベッドから降りてきた。
「絶対許さないなんて、冗談。階段を上ってくる足音が聞こえたから、ドッキリを仕掛けてやろうと思ってベッドに潜り込んだの。怒ってなんかいないし、嫌いになってもいません。ドッキリ大成功」
「なんだよもう……」俺は足を崩してベッドに寄りかかった。
「それはそれとして、さっきの言葉、もう一度聞きたいな」
「さっきの言葉?」
「ほら、『強がるなよ』っていうやつ。今度はきちんと顔と顔を合わせて」
なんだか照れるが、断れる雰囲気でもないので、俺は姿勢を正して柏木の顔をまっすぐ見た。そして口を開いた。「いいか、晴香。強がるなよ。他の奴の前ではいいけど俺の前では強がるな。俺には弱みを見せてもいいんだよ。今の俺はおまえの恋人なんだから」
それを聞くとどういうわけか、彼女は再び笑い始めた。
「せっかく格好いいセリフなのに、パンツ一丁じゃ台無しだよ!」
俺ははっとして着ていたものをかき集め、急いで身につけた。そのあいだもやはり彼女は笑い転げていた。そんな姿を見るかぎり、心臓に爆弾を抱えているなんてちっとも信じられなかった。
♯ ♯ ♯
いっそ病気のことも柏木家ぐるみのドッキリであればよかったのだが、残念ながら「大成功」の札はとうとう俺の前に現れなかった。春の太陽が雲の裏に隠れ、部屋は少しだけ暗くなった。
「ついに悠介に知られちゃったか、病気のこと」ほどなく柏木はそうつぶやいて、ばつが悪そうに頬を掻いた。「墓場まで持っていくつもりだったのに」
「笑えないぞ」まるでイボ痔でもバレたかのようなその物言いは、当然俺の首をかしげさせた。「なんだかやけにあっけらかんとしてるな。さっきから言ってるけど、俺の前では無理して元気に振る舞うことはないんだぞ?」
「別に無理なんかしてないよ」と彼女は言った。「そりゃあ病名を聞かされた時は少なからずショックだったし、落ち込みもした。でも何日か経つと案外すんなり病気のことを受け入れられたの」
「命にかかわる病気なのに?」
「ある程度覚悟はしてたから」と答えて柏木は、臭いものを嗅がされたように顔をしかめた。「ほら、あたしって死んだバカ親父とよく似てるでしょ? 明るいところとか裏表がないところとか物怖じしないところとか。そういうのも全部父親譲りなの。それでもしかしたら心臓の病気も引き継いでるんじゃないかってなんとなく前々から思ってたわけ。だから心の準備はできていたの。まったく、あのバカ親父もとんだ置き土産を残していったもんだよね」
俺は何を言えばいいかわからず黙っていた。
「それに、この病気との向き合い方がわかったから」と彼女は微笑んで続けた。「運が良ければ長生きできるけど運が悪ければ一年後、いや一ヶ月後、それどころか明日を迎えることすらできないかもしれない。そんな病気にかかっちゃうとさ、先のことをあれこれ考えても何の得にもならないんだよね。気が滅入るだけだもん。だからあたしは、とにかく『今この時』を全力で大事にするようにしたの」
今を生きる、と俺は心で言った。それは喧嘩中に彼女から聞いた言葉だった。
柏木は言った。「ごはんの時は一口一口味わって食べる。遊ぶ時は無我夢中で遊ぶ。可笑しい時は笑いたいだけ笑う。泣きたい時は泣きたいだけ泣く。そうしていると、不思議なんだけど、不安な気持ちにならないんだよね。今を大事にして過ごす。それがこの病気とうまく付き合っていく秘訣」
将来やりたいことが見つからない、としきりに嘆く彼女を思い出し、俺はため息をついた。
「どうりでなかなか進路も決められなかったわけだ」
柏木は苦笑した。「進路調査票だけはきちんと出すよ。悠介にも学校にも約束したからね。運が良かった場合の未来を想定して、しっかり考える」
そこで会話はばったり途絶えた。互いに言いたいことはあるのだがそれを口にするには何かきっかけを必要としている。そんな感じの沈黙だった。静寂は長い時間続いた。やがて雲に隠れていた太陽が顔を出し、俺たちのあいだに日だまりを作った。柏木は日だまりの中へ進み、両手を広げた。
「ハグ」
「え?」
「仲直りの、ハグ」
俺は座ったまま彼女に近寄り、正面からその体をたどたどしく抱きしめた。彼女は長い手を俺の背中に回した。
「おまえが死ぬなんて嫌だ」と俺は柏木の体温をたしかに感じながら言った。「病気のことをいずみさんから聞いて以来、俺はどうしても頭で想像してしまうんだ。おまえが発作で苦しんで、そのままぴくりとも動かなくなってしまうところを。払っても払ってもそのイメージが頭から離れない。気がおかしくなりそうだ」
「まーた望遠鏡で遠くを見てる」柏木は小さく笑う。「悠介の悪い癖。未来のことばかり考えるから不安になるの。すぐには直せないだろうけど、悠介もあたしを見習って少しは今を大事にしたら?」
「今を大事に?」
柏木はうなずいた。そして体をぎゅっと密着させた。
「ねぇ、この音が聞こえるでしょう? どくんどくん。どくんどくん。心臓がきちんと動いてる。あたしが生きてる証。そう、あたしは今、生きてる。誰がなんと言おうが間違いなく生きてる。とりあえず、今のところは、それでいいじゃない。ね? 明日のことは明日考えればいいし、あさってのことはあさって考えればいいの」
俺は肉体を伝って聞こえてくる心臓の鼓動に耳を澄ませていた。彼女は俺の背中を優しく撫でた。
「それにさ、考えてみなよ。いつ死ぬかわからないっていうのは、べつにあたしに限ったことじゃないんだよ。みんな同じなんだよ。そうでしょ? 誰だって明日を迎えられない可能性はある。あたしはその確率がちょっと他の人より高いだけ。だからそんなに悲観しないでよ。わかった?」
「わかった」としか俺は言えなかった。
「よろしい」と柏木は言って、俺の背中を軽く叩いた。「ていうかさ、なんであたしが悠介を励ましてるの? 普通逆じゃない? これじゃあどっちが病人かわからないじゃない。勘弁してよ、もう」
「すまん」と俺は言った。そして彼女の顔を再びまっすぐ見た。「もう一度しっかり謝らせてほしい。『嫌でも未来が来る』なんて軽率に言って、ごめん。本当にごめん」
「馬鹿」と柏木は優しく言った。
大馬鹿野郎だ、と俺は愚かな自分を戒めた。頭にはモップや柏木恭一の顔が思い浮かんでいた。いずれも今日を迎えられなかった者たちだ。
死というものをいくつも身近で目の当たりにしてきたというのに、明日が来るのが決して当たり前ではないということに、俺はいまだ気づかないでいる。




