第85話 ねぇ、この音が聞こえるでしょう? 1
【交際5日目】
柏木の恋人になって迎えた初めての日曜日は、晴天だった。
彼女との交際中においては、目覚まし時計もかけず昼までぐっすり眠るなんていう怠惰な休日の過ごし方は許されない。「日曜は朝から動物園デートがしたい!」という彼女の希望を叶えるため、俺は居酒屋バイトの疲れもとれないうちにベッドから起き上がった。そして身支度を整え、眠い目をこすりながらバスに乗り込んだ。
動物園の前は9時の開門を待つ家族連れやカップルたちで賑わっていた。ところがその中に柏木の姿はなかった。待ち合わせ時間を過ぎても彼女は現れなかった。もしや彼女の身に何かあったのかと思いスマホを取り出したところで、ちょうど着信が入った。しかし電話をかけてきたのは柏木ではなかった。高瀬だった。
「今大丈夫?」と彼女は言った。晴香と一緒じゃない? と言外に言っていた。
「大丈夫だよ」と俺は応答した。柏木と一緒じゃない、と言外に言った。
高瀬は言った。「交際期間の三分の一が過ぎたけど、何か変わったことはあった?」
俺は記憶をたどった。
暴走老人の自転車に轢かれそうになった。
柏木の叔母のなくしたイヤリングが半年ぶりに戻った。
元競艇選手だという気さくなおっちゃんと仲良くなった。
ゲームセンターで中学の同級生に絡まれた。
奴らとのクイズ対決でおっちゃんの問題が出たおかげで劇的勝利を収めた。
ちょっと振り返ってみただけでも、日常ではなかなか体験できない変わったことだらけだった。しかしそれぞれの出来事がいったい何を意味しているのかまでは、わからなかった。
「まぁね」と俺は仕方なく曖昧に答えた。
「“大時計の伝説”の謎はわかりそう?」
「今の時点ではまだなんとも言えないかな」と俺は正直に答えた。
「“未来の君”の謎は?」
「今の時点ではまだなんとも」
「そっか。まだ4日しか経ってないんだもんね」
「ああ、あと残り8日もある」
高瀬は少し間を置いた。「声、だいぶ疲れてるね?」
俺は電話を持ち直した。「そうかな?」
「さては、ずっと晴香に振り回されっぱなしなんでしょう?」
図星だった。俺は声を出して苦笑いした。
「すっかり女王様の言いなりだよ。カレシと言うよりまるで、家臣だ」
「逆らえないのはわかるけど」高瀬は咳払いする。「だからと言って、授業を抜け出してふたりでどこかへ行くのは、あまり良くないと思うな。学校をサボってデートしている鳴桜生がいるなんて風評が広まれば、全生徒が迷惑を被るわけで」
これには返す言葉がなかった。二度としませんと誓って俺は話題を変えた。
「それはそうと、今日はすっきり晴れた日曜だけど、何か予定はあるの?」
「カノジョがいるのに、他の女の子の予定を聞くなんて、悪い男」
「えぇ?」
「冗談だよ」と言って高瀬はくすくす笑った。電話の向こうからは、窓を開けるような音が聞こえてきた。「こんな天気の良い日曜日はお弁当を持って動物園にでも行きたいところだけど、今日は家で一日中勉強。当然でしょ? 私、受験生だよ? 遊んでるヒマなんかないよ」
「そうだよな」としか俺は言えない。
「そうだよ」と高瀬は言った。そして(おそらく)窓を閉めた。「神沢君がサボった授業のノート、私はしっかりとってあるから。明日見せてあげる。それじゃあまた学校でね」
俺は礼を言って電話を切った。それからため息をついた。高瀬の言う通りだった。俺は受験生なのだ。なにを呑気に家族連れやカップルに混じって動物園の開門を待っているのか。すべては柏木が言い出したせいであるが、当の本人はまだ現れない。今度こそ電話をかけようとしたところで、またしても着信が入った。しかし今度は柏木だった。
「あのね、気分が変わった」
「今なんて言った?」
「だから、気分が変わったの」と柏木は平然と言った。「今日は動物園デートじゃなくて、おうちデートがいい。そういうわけで、今からうちに来て。よろしくね」
おそろしいことにそこで電話は一方的に切れた。かけ直したところで聞く耳を持たれないのは目に見えていた。
9時になってきゃっきゃ言いながら園内に入る客を尻目に、俺は一人むなしく最寄りのバス停へ戻った。
♯ ♯ ♯
柏木は二階の自分の部屋にいた。女の子にはどうしても体調の優れない日があるということくらいは、保健の教科書を開くまでもなく俺だってわかっていた。しかし見たところ、今日はそういう日ではないようだった。ぶかぶかのTシャツを着てショートパンツを履き、ベッドの上に寝転んでスマートフォンのゲームに興じている。文句の一つも言いたくなった。
「さすがにワガママすぎるぞ。こっちはわざわざ早起きして動物園の前で待ってたのに」
「しょうがないでしょ、気分が変わったんだから」
「それならもっと早くに連絡を寄越せよ」
「外に出たところで気分が変わったの」と柏木は悪びれず言って、ゲームを中断した。「それに、電話をかけたけど通話中だったじゃない。誰と話してたのかは知らないですけど」
悲しいかな、ああ言えばこう言うのが、俺のカノジョだった。このままだと喧嘩になりそうなので、俺は深呼吸して部屋の中を見渡した。脱ぎっぱなしの服や飲みかけのペットボトルが嫌でも目につく。
「しっかし、いつ来てもこの部屋は散らかってるな」
「すごいでしょ」
「褒めてない」
「いっそ悠介がお片付けしてよ」
「はぁ?」
「カノジョの部屋をきれいにする。それもカレシの務めでしょう?」
俺はきびすを返した。「帰る」
「あたしと一緒にいないと、“大時計の伝説”の検証はできないよ?」柏木は駆け寄ってきて、俺の肩に後ろから手を置いた。「答えはまだ見つかってないんでしょ?」
今日の俺は家臣どころか召使いみたいだ、と俺は心で嘆いた。そして向き直った。
「しょうがねぇな。掃除機もってこい」
俺は目についたスカーフを頭巾代わりに頭に巻いて掃除に取りかかった。窓を開けて新しい空気を取り込み、床に散乱している衣類を洗濯かごに放り込んだ。教科書や化粧品を元の場所に戻し、市の厳格なルールに従ってゴミを分別した。柏木だって人の子なんだからちょっとくらい手伝うだろうと期待していたが、あろうことか彼女はベッドに座って高みの見物を決め込んでいた。集めたゴミをベッドにぶちまけてやろうかと思ったところで、彼女は口を開いた。
「そうだ悠介、お願いがあるんだ」
「今度はなんだ?」
「あのね、あたしを旅行に連れてってほしいの」
「旅行!?」
柏木は無垢にうなずいた。「カレシができたらやりたかったこと第三弾。お泊まりで旅行に行く! 絶対楽しいよ。温泉に入って湯上がりに卓球なんかしたりしてさ。ねぇ、いいでしょ?」
「ムリだ」と俺は即答した。「明日からは学校だし、それに金だってかかる。ただでさえ毎日のデートで出費がかさんでるのに、旅行に連れていく余裕なんてないよ」
「いいじゃない、悠介はバイトしてるんだから」
「おまえもよくわかってるだろ。俺が居酒屋で夜遅くまでバイトしてるのは遊びたいからじゃない。大学進学の夢に少しでも近づきたいからだ。未来のために今を犠牲にしていると言い換えても良い。それなのにそのバイトで稼いだ金を温泉旅行なんかに使ってられるか。馬鹿も休み休み言え」
なによムキになっちゃって、と柏木はつぶやいた。そりゃムキにもなる、と俺は思った。
「だいたい、進路も決まってないのに、旅行に行ってる場合じゃないだろ。何が温泉だ。何が卓球だ。おまえもちょっとは未来のことを真剣に考えろよ」
「未来ねぇ」彼女はわざとらしく肩をすくめる。「はいはい、偉いですねぇ」
「なんだよ、その含みのある言い方は?」
柏木はベッドの上で枕を抱きかかえた。そして鼻を膨らませた。
「前々から思っていたことがあるの。この際だからはっきり言うけど、悠介って、未来のことばっかり考えてるよね。口を開けば『未来未来』。全然今を生きてない! まるでいつも望遠鏡で遠くを見ていて足下で何が起きてるのかわからない人みたい。たしかに未来は大事かもしれないけど、それより大事なのは今だよ。今この時だよ! もっと今を大事にして生きなよ!」
「はぁ!?」ここで言い返せば喧嘩になるが、今度ばかりは我慢ならなかった。「未来のことを考えて何が悪いんだよ? 俺たちは高校生だぞ? 人生はこの先まだまだ長いんだぞ? 嫌でも未来は来るんだ。少しでも良い未来にしようとあれこれ考えるのは当然だろ。おまえこそ、今さえ良ければいい的な考えはあらためろ」
「いやだ」と柏木は頑なに言った。「あたしは今を大事にする。これだけは譲れない」
「好きにしろ」と俺は言った。「この際俺もはっきり言わせてもらうけどな、本当だったら今日は家で勉強してなきゃいけないんだ。受験生なんだから。でもおまえの希望を聞いて動物園まで来てみたら、『気分が変わった、家に来い』だ。それを聞いたら聞いたで今度は部屋の片付けをしろ。しまいには旅行に連れていけ? いくらなんでも身勝手すぎる。付き合ってられるか!」
俺は頭巾代わりにしていたスカーフを脱ぎ捨てると、部屋から出てそのまま階段を駆け下りた。一階の厨房ではいずみさんが一人で開店前の仕込みをしていた。俺が外に出ようとすると、彼女が声をかけてきた。
「なんだい、喧嘩かい?」
「まぁ、そんなところです」
「どうせ晴香がワガママ言ったんだろう?」
「そんなところです」
「晴香のカレシは楽じゃないね」
「楽じゃないですね」と俺は言った。本当に楽じゃない。
「あの子、負けず嫌いだから絶対に先に謝ったりなんかしないよ。叔母として私が代わりに謝っとく。ごめんよ悠介。何があったか知らないけれど、許してやっておくれよ」
仕事中の大人にそこまで言われて外に出て行くほど、俺も子供じゃなかった。
「なんだか、すみません」
「喧嘩するほど仲が良いってね」笑顔でそう言うといずみさんは厨房から出てきた。しかしどういうわけかその表情は一転、硬く強ばっていた。「それはそうと悠介。あの子の体調はどうだった? 発作は起きてない?」
「発作?」予期せぬ言葉に、つい声が裏返る。「いったい何の話ですか?」
「もしかして悠介あんた、晴香からあのこと、聞いてないのかい?」
俺はさっぱりわけがわからず、首をかしげた。
いずみさんは何かを察したよう二階をちらっと見やった。それから前髪をかき上げた。「なんでもないよ。今のは聞かなかったことにしておくれ」
「ちょっと待ってください」俺は厨房に戻りかけた彼女の背中に声をかけた。「なんですか、発作って? なんですか、あのことって? 柏木は――晴香は、俺に何か隠してるんですか?」
彼女は無言のまましばらく立ち止まった。そして思い直したようにこちらを振り返った。
「もしもの時のことを考えたら、悠介も知っておかなきゃいけないだろうね」
いずみさんは俺をボックス席に座らせると、その向かいの席に腰掛けた。油の染みた鉄板を挟んで俺たちは向かい合った。毎日死ぬほどつまんねぇなとぼやく高校生が店の外を通り過ぎていった。
やがて彼女は言った。
「晴香はね、父親の命を奪ったのと同じ、心臓の病気を発症してしまったんだよ」




