第84話 I Love Youは様々な訳し方があります 2
こうして俺は柏木の「カレシができたらやりたかったことその2」を叶えるため、彼女とともに授業を抜けて、街へ繰り出した。
よく晴れた午前11時の街は朝の用事を済ました人と昼の用事に向かう人とで賑わっていた。学校をサボって遊びに出てきた高校生なんて俺と柏木くらいだった。
「うん、良い気分!」隣で柏木は両手を広げて春の日差しを全身に浴びた。「平日の午前中に制服で街を歩くって最高だね。やっぱこんな晴れた日はさ、陰気くさい教室で暗い顔で勉強なんかしてないで、こうして外に出るべきだよ。そうだ悠介。学校がある日は、もう毎日、授業を抜け出しちゃおうよ!」
「できるか」と俺は呆れて言った。「今日はたまたま残りの授業が受験に関係のない科目だったから、おまえのワガママを聞いてやれたんだ。次はないぞ」
柏木は駄々っ子みたいにふくれっ面をした。しかしすぐに瞳を輝かせた。
「ねぇねぇ、そういえば、教室の外ではもっとカレシらしくふるまうっていう約束だったよね? さぁ、さっそく、ふるまってもらおうかしらん?」
そう言われても具体的にどうすればいいか、カレシ歴47時間の俺にはよくわからなかった。格好つけてもしょうがないので、俺は正直にそれを口にした。
「そうねぇ。それじゃ今日のデートを、ばっちりエスコートしてもらおうかな。あたしが満足できるよう誠心誠意尽くすのよ。いい?」
それは彼氏ではなく下僕なんじゃないかという気もしたが、触れないでおいた。
「わかりましたよ」と俺は言った。「それではさっそくですが、どこにお連れしましょうか?」
「お腹すいた」と柏木は言った。それに続く言葉はなかった。どうやら早くもカレシらしさを試しているらしい。
ちょうど道路を挟んだ向こう側に小洒落た洋風レストランが見えた。まだ正午前だというのに、客が続々入っていく。オープンカフェ風のつくりになっていて、いかにも若い女の子が好きそうな店だ。実際、道路に面したテラス席では、ファッショナブルなお姉様方が少し早めのランチを楽しんでいる。あそこはどうだ? と俺は聞いた。
だめだめ、と柏木は一秒と考えず手を振った。「あたし、ああいう気取ったお店キライなの。ちょっと大きな声で笑っただけで他の客に睨まれるし、水のおかわり頼んだだけで店員に嫌な顔されるし。それにシェフとバイトの女子大生ができてるし」
「最後のはただの偏見だよな」そう言いつつも俺は正直ほっとしていた。柏木以上に場違いな思いをするのは、間違いなく俺だ。「それじゃあ、どういう店ならいいんだよ?」
「あたしが一番好きなのはね、カウンターの端っこで競馬新聞でも読みながらメンマかザーサイをつまみにして一杯やってるおっちゃんがいるようなお店なの。それでいい感じに酔ったらシメにタンメンでも食べて小銭で勘定して帰っていくの。あたしの経験上、そういうおっちゃんがいるお店に外れはないね」
「要するに、うまいラーメン屋を探せってことね」
俺は庶民派の恋人を満足させるべく、うまいラーメン屋を目指していざエスコートを開始した。まさか一軒一軒中を覗いて競馬新聞を読んでいるおっさんがいるか確かめるわけにもいかないので、庶民としての勘だけを頼りにうまい店を探した。
十分ほど歩いたところで、いい具合に古臭い店に出くわした。意を決して年季の入ったのれんをくぐると、カウンターの端の席では職業不詳の禿げたおっさんが新聞片手にちびちびやっていた。紙面には◎や△の記号があった。やった、と俺は思った。しかしよく見てみれば、それは競馬新聞ではなく競艇新聞だった。それでも柏木は「いいね」とつぶやいた。俺は名も知らぬ禿げたおっさんに感謝した。
彼の隣の席がちょうど二つ続いて空いていたので、俺たちはそこに隣り合って腰掛け、ラーメンを注文した。あっさり派の俺は塩で、こってり派の柏木は味噌だった。それから瓶のコーラを追加で一本頼み、二人でグラスに分けて飲んだ。柏木は餃子も食べたそうだったが、口が臭くなっちゃうという理由で我慢した。口が臭くなると何がまずいのか俺は敢えて聞かなかった。
「きのうの話、ちょっとは考えたか?」と俺はふと尋ねてみた。
柏木はきょとんとした。「なんだっけ、きのうの話って?」
「進路の話だよ!」しつこいのを承知で、シ・ン・ロ、と繰り返す。「二週間後には絶対に進路調査票を提出しなきゃいけない。だから交際しているあいだにおまえが進む道を見つけよう。そういう話をきのうしたばっかりじゃないか」
「いっけない、忘れてた」
「忘れるな」
「まぁまぁ。まだ10日もあるんだし」
俺の頭には残り3日になっても同じやりとりをしている自分たちが思い浮かんだ。彼女が話を逸らす前に俺は、そういえば、と口を開いた。
「今はいずみさんが切り盛りしている『鉄板焼かしわ』を居酒屋に改装して、何年か後におまえに継がせるっていう計画は、あれからどうなったんだ?」
柏木は苦笑した。
「あれは悠介が調理場を担当するのが前提の話だもん。いずみ叔母さんは悠介以外の男は信用できないって言うの。それにあたしとしても接客から料理から何から何まで一人でこなす自信はないし。だから計画は白紙」
俺はなんだか申し訳なくなって彼女のグラスにコーラを注いだ。
柏木はグラスを手に取って、浮いては消えていく泡をぼうっと見つめた。
「みんな偉いよね。やりたいことを見つけてそこへ向かって努力してる。悠介は獣医さんになるため。優里は翻訳家になるため。葉山君はお医者さんになるため。月島は社会の仕組みを深く学ぶため。みんなそれぞれの目標に向かって受験勉強をこつこつがんばってる。
葉山君なんかバンドマンとしてデビュー目前だったのに、日比野さんが植物状態になったことでドラマーになる夢をきっぱり諦めて、幼馴染みを目覚めさせるため死に物狂いで勉強してる。遅れを取り戻して、今じゃすっかり成績上位だもんね。それにひきかえあたしときたら、居酒屋がだめとなったらそれっきり。新しくやりたいことを探すどころか、こうして学校をサボって遊び歩いてる始末。あぁやだやだ。自己嫌悪。ねぇ悠介、こんなダメなカノジョだけど、見捨てたりしないでね」
カレシらしくふるまうと約束した手前、ここは慰めるのが筋だった。俺は優しい言葉をひとしきり彼女にかけた。それから本題に戻った。
「なぁ、ちょっと考えてみよう。『これだったらあたしはがんばれる!』。そういう仕事、何か、思いつかないか?」
柏木は口を結んでそれについてじっくり考えた。テスト中でも見せないくらいの真剣な顔で思案した。やがて店内に立ちこめる湯気が釜からではなく柏木の頭から出ているんじゃないかと心配し始めたところで、彼女は思いも寄らぬ行動に出た。ねぇねぇ、と隣の禿げたおっさんに声をかけたのだ。
「ちょっと聞いてもいい? おっちゃんはさ、どんなことを仕事にするのが、いいと思う?」
それを平日の昼間から酒を飲んでいる人間に聞くか? と俺は呆れたが、これまた意外なことに、やけに説得力のある答えが返ってきた。
「お姉ちゃん、そいつはやっぱり、好きなものを仕事にするのが一番だよ」
「好きなもの?」
「ああそうだ」と彼は競艇新聞をたたんで言った。「おっちゃんも学生時代は何をやってもだめでなぁ。成績はいつもビリっケツ。親には縁を切られ、先生にはさじを投げられ、もう夢も希望もなかったよ。でもよ、そんなおっちゃんでもこれだけは譲れないってモンがあったんだ。おっちゃんは、大のボート好きだったんだ。ボートって聞くだけで血が騒いだ。ボートのためなら死んでもかまわんかった。それでボートを仕事にしようと思って、競艇の選手になったんだ」
嘘だろ、と俺は思った。「嘘でしょ!?」と柏木は言った。
「本当だよ」と、これは、空いたコーラの瓶を下げに来た店員のおばちゃんが証言した。「ただの飲んだくれだと思ったでしょう? 今の若い子は知らないだろうけど、この人、30年前はそこそこ名の通った競艇選手だったんだから」
彼は照れくさそうに薄くなった頭をごしごし掻いた。
「学校の勉強では万年ビリだったおっちゃんが水上のレースでは連戦連勝さ。死をも恐れず貪欲に勝利に食らいつくそのハンドルさばきから、ついたあだ名が『水上のハゲタカ』。今じゃあもうすっかり頭が禿げたか。なんつってなぁ!」
柏木は愛想よく笑った。それで今は笑うところだったんだと俺は気づいた。
「そういうわけでベッピンの姉ちゃん。まずは好きなものを見つけることだ。好きこそ物の上手なれ、とも言うだろ?」
「好きなものかぁ」柏木はカウンターに頬杖をついた。「だめだ。お腹が空きすぎて、今は食べることしか思いつかないや」
そこでちょうど注文したラーメンが運ばれてきて、俺たちは腹ごしらえをした。柏木の見立ては当たっていて、味は悪くなかった。いや、率直に言ってうまいラーメンだった。
おっさんは過去の栄光を若者に話せたことがよほど嬉しかったようで、餃子を一皿注文して俺たちにごちそうしてくれた。柏木は口の臭いを気にしつつも餃子を食べた。そしてなんとラーメンの替え玉まで頼み、スープも飲み干してしまった。かつてハゲタカの異名をとった男も、この貪欲な食いっぷりには舌を巻いた。
〈大食い選手 大いに適性アリ〉、と俺は密かに心のメモ帳に書き留めておく。




