第84話 I Love Youは様々な訳し方があります 1
【交際3日目】
交際が柏木主導で進んでいくなかで、俺の神経がおそろしくすり減る場所があった。それは他でもなく、我らが3年H組の教室だ。
なんせ彼女は人目をはばかるということを知らないから、ひとたびスイッチが入ると所かまわずじゃれついてくる。そしてそうなると当然のことながら、周囲からはあまり好ましくない視線が俺たちに注がれることになる。
まだ街の中やバスの中であれば「これが柏木のカノジョになるということだ」と自分に言い聞かせてその視線をやりすごすこともできる。しかし30人もの多感な少年少女が毎日顔を合わせる教室という狭いこの空間では、そうもいかない。
柏木のスイッチが入って非難とも羨望ともつかない眼差しが教室中から向けられるたび、俺は表情やジェスチャーでいちいち彼らに弁明しなきゃいけなかった。「これには深い事情があるんだ」と。
いや、それだけならまだよかった。最大の問題は高瀬の存在だった。
高瀬は俺の左斜め後ろの席に座っていた。そして柏木は俺の前の席にいる。つまり柏木のやることなすことすべてが高瀬には丸見えなのだ。
周防の提示した条件を飲んで、柏木と交際すべきだとはじめに主張したのは高瀬だった。
それもあってか彼女は、表立ってとがめてくることこそなかった。しかし柏木が俺の体に触れたり甘えた声を出したりするたび、俺は左斜め後ろから制服を焼くような強烈な視線を感じる羽目になった。虫めがねか何かで日光を集めてピンポイントで照射しているんじゃないかという気がしたくらいだ。
その都度俺はみぞおちのあたりになんとも言えない痛みを覚えた。それでついに堪えきれなくなって柏木に直談判した。このぶんだと12日目を迎える前にストレスで俺の12指腸が限界を迎えてしまう。だから頼むから教室内ではあまり目立つようなことはしないでくれ、と。
すると彼女はひとしきり文句をこぼしたあとで、「その代わり?」と抜け目なく言った。「その代わり」と俺は仕方なく言った。「教室の外では――高瀬のいない場所では――今よりもっとカレシらしくふるまうから」
それを聞くと柏木はある程度納得したらしく、おおっぴらな言動は差し控えるようになった。しかしこのお転婆娘がそのままじっとおとなしくしているかというと、答えはもちろんノーだった。
♯ ♯ ♯
それは三限目の現代文の授業中に起きた。
柏木は教師が板書している隙にすばやく振り向いてきて、何やら小さな紙を一枚俺の机に置いていった。それは英語の単語や熟語を覚えるときなんかに重宝するカードだった。そこには〈I Love You〉と書いてあった。
唐突にそんなものを寄越してきて、いったい俺にどうしろというのか。裏に〈I Need You〉とでも書いて返せというのか。それとも本来の用途に従って裏に〈愛してる〉と書き復唱しろというのか。俺がすっかり困惑していると、ほどなく柏木が再び振り向いて、新しいカードを置いていった。
〈ねぇ、こうやって、おしゃべりしようよ〉
俺は思わず眉をひそめて、そのカードの裏に〈授業中だぞ?〉と書いた。そして柏木の背中を指先で軽く突き、それを返した。
30秒もしないうちに次のカードが届いた。
〈これなら目立たず恋人気分を味わえるでしょ?〉
密かな文通、と俺は思った。しかし今は――。
〈授業中だぞ?〉
次のカードは教師が配ったプリントとともにやってきた。
〈カレシができたらやってみたかったこと「その2」を、今からしたいの〉
三度も続けて同じ文面を書きたくなかったが、やむなく俺は〈授業中だぞ?〉と記して彼女に返した。
〈授業中にしかできないことなの〉
〈何をする気だ?〉
〈授業を抜け出して、遊びに行く!〉
たしかにそれは授業中にしかできないことだ、と納得している場合じゃなかった。
〈本気かよ?〉
〈本気だよ! 高校生カップルはみんなしてる!〉
〈嘘つけ。もう三年も高校生やってるが、一組も見たことないぞ〉
〈くぅぅぅ、バレたか。でもさ……〉
〈でもさ?〉
〈でもさ、教室にいたら、デンセツの検証できないよ? 誰かさんが誰かさんの視線を気にしてるせいで〉
それを言われたら俺は、返す言葉がなかった。
〈(._.)〉
〈(^o^)〉と返ってきた。
そして俺の拒否権はないとでも言わんばかりに、柏木は裏面まで使っていた。
〈とにかく、今日のあたしは、イケナイことがしたい気分なの。学校をサボってデート。最高にイケナイことでしょう?〉
俺は非の打ち所のない柏木の後ろ姿を見て、ついイケナイ想像を膨らませた。目を凝らせばブラウス越しにブラジャーがうっすら透けているのがわかる。白だ。想像の中でブラウスを脱がしホックに手をかけた、その時だった。
例のじりじりとした強烈な視線を俺は感じた。その視線はやはり左斜め後ろから向けられていた。密かな文通をしていることに高瀬は気づいていたのだ。
想像の中のブラジャーが鎖に変わって俺の両手を縛りつけた。そして実際に俺の全身は固く強ばった。体の動かし方がよくわからなくなった。鉛筆を持つというかんたんな動作すらままならなかった。
それでも俺はなんとか授業に集中しようとした。遅れていたぶんの板書を無理をしてノートに写そうと試みた。それがまずかった。ぎこちなく雑にノートをめくったせいで予期せず風が起こり、机の上のカードを吹き飛ばしたのだ。
よりによってそれは、柏木が最初に置いた〈I Love You〉のカードだった。そしてこともあろうにカードは左斜め後ろへ落ちた。生きた心地がしなかった。俺の心境たるや、看守の前で土がごっそりついたスプーンを落とした脱獄犯のそれだった。
俺はゆっくり首を左に回し、目の端でおそるおそる斜め後ろを見た。高瀬はちょうど腕を伸ばしてカードを拾い上げているところだった。彼女はそこに書かれている言葉をしっかり目視すると、次に何を思ったかカードを裏返し、ペンで何かを書き込んだ。そしてそっとこちらに差し出した。高瀬は律儀にも〈I Love You〉の面を表にして返してきた。俺はそれを受け取って机の上に置いた。
そのまま柏木との交際が終わるまで裏面を伏せておくという選択肢もあったが、怖い物見たさが俺の指を動かした。カードをめくるとそこには丁寧な字でこうあった。
〈オープンキャンパス、楽しみにしているからね〉
それを見て俺ははっとした。柏木との交際が終わる10日後、高瀬と鳴大のオープンキャンパスに一緒に行く約束をしていることをすっかり忘れていた。今日はまだ交際開始3日目だというのに、頭の片隅にもなかった。みぞおちが痛み出した。
いつしか授業は脱線して、明治期に入ってきた英語を先人たちは日本語に訳すのに苦労したという話になっていた。
「かの夏目漱石は『I Love You』を『愛してる』ではなく『月が綺麗ですね』と訳したという説もあります』と教師はうんちくを披露していた。「『I Love You』は様々な訳し方があります」と彼は調子に乗って言った。
そんな話を聞いていると、俺のみぞおちはますます痛んだ。とてもじゃないが授業どころじゃなさそうだ。この教室からいち早く出る必要がある。
今の俺の顔色ならば、早退届は問題なく受理されるだろう。




