第83話 人魚はなぜ陸を目指したと思う? 1
「12日間」と聞いて長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだろうけれど、それが男女の交際期間となれば、おそらくたいていの人は短いと感じるはずだ。
12日間。
一週間よりは長く、一ヶ月よりは短い。一年365日に占める割合は約3.3%で、時間に換算すれば288時間。よほどの速読家なら『失われた時を求めて』を読破できるかもしれないが、ほとんどの人は『戦争と平和』を読み終えることさえ難しい。
12日間というのはそういう時間だった。長いにせよ短いにせよ、とにかくそれがあらかじめ決まっている、俺と柏木の交際期間だった。
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【交際1日目】
「ねぇ、腕組もうよ腕!」と言って柏木はじゃれついてきた。放課後になり、俺たちは恋人同士らしく一緒に下校していた。行き交う人々の視線が痛かった。
俺はがっちり脇を締めた。「制服姿でベタベタするのはまずいって。学校にタレコミされたら何かと厄介なことになる。そうだろ、柏木?」
「それ、禁止! どこに恋人を名字で呼び捨てにする男がいるの。今日からあたしのことは名前で呼ぶこと。いい?」
残り285時間、と俺はため息をつきながら思った。「わかったよ」
「わかったよ、晴香。でしょ?」
「わかったよ、晴香」
「好きだよ、晴香。でしょ?」
言うべきかどうか迷っていると、ふいに柏木は俺の脇を強引にこじ開け、そのまま腕を強く引いた。その直後のことだった。すぐ近くの曲がり角から自転車がブレーキもかけず飛び出してきて、俺の体をかすめるように通り過ぎていった。
自転車には棺桶に片足を突っ込んだような爺さんが乗っていた。爺さんは悪びれる様子もなく歩道を走り続け、やがて人混みに消えていった。彼はどこから来てどこへ行くのだろうという根源的な疑問はさておき、柏木がもし腕を引いてくれなければ、俺は間違いなく暴走老人の自転車と正面衝突していた。
「おじいちゃん、危ないっての」と柏木は言った。
「ボケてんじゃねぇのか、あの爺さん」と俺は言った。
「でもよかった」と柏木は言った。「もう少しで事故になるところだった」
ケガをするところだった、と俺は思った。いや、一歩間違えばケガだけでは済まなかったかもしれない。何はともあれ、これが付き合いだしてから起きた、初めての出来事らしい出来事だった。
「まさか」と俺はネガティブに言った。「“大時計の伝説”のせいじゃないだろうな」
「まさか」と柏木はポジティブに言った。「だって大時計に宿っているのは縁結びの神様だよ? どちらかといえば、良いことが起こるはずだよ。こんな悪いことは――」
そこである可能性が頭をよぎって、俺ははっとした。見れば柏木は口をつぐんで、うつむいている。どうやら彼女も俺と同じことを思ったらしい。今の一件が“伝説”によるものではないとすれば――。
「本当にあたしが恋人になっていいの?」と柏木は腕から手を離して言った。「“未来の君”は不幸を呼ぶんでしょ? あたしと一緒にいると、今みたいに悪いことが次々起こるかもしれないんだよ?」
まさにそれを確かめるための交際でもあるわけだが、そのことは彼女には黙っておくことにした。唯の書き置きを見せるのはまだ早い。ぬか喜びだけはさせたくない。
俺は努めて明るくふるまった。
「大丈夫だろ。たったの12日間だ。今のはたまたまだよ。それにもし何か悪いことが起きても、今みたいにおまえが助けてくれる。腕を引いてくれてありがとな、柏木」
彼女は無表情で何度かうなずき、そして笑顔を取り戻した。
「それ、禁止って言ったでしょう? ありがとな、晴香。でしょう?」
ありがとな、晴香。と俺は言い直した。
「そっか。それならあたしは面倒なことは何も考えないで、とにかく全力でこの恋に打ち込んでいいんだね。よし、あたし、カレシができたらやってみたかったこといっぱいあったんだ。それをこの12日間に全部詰め込むから!」
「なんだよ、やってみたかったことって?」
「ありすぎて全部は言えない」柏木は俺の手を引き、再び歩き出した。「実はもう、一つ目のやりたかったことを実行するために、ある場所に向かっているんだよ」
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“家族にカレシを紹介する”というのがやりたかったことリストの第一項だった。意外なことに――と言うと柏木に悪いけど――彼女が指向しているのは背徳的な恋ではなく模範的な恋であるらしい。そんなわけで俺たちは彼女のただひとりの家族である、叔母のいずみさんに会うため、『鉄板焼かしわ』にやってきた。
昼の三時を過ぎているということもあって、店先には〈準備中〉の札がかかっていた。いずみさんは厨房で何やら探し物をしている最中だったが、「今日からあたしのカレシ」と姪から聞くや、それを中断して俺の元へ駆け寄ってきた。
「ようやく腹を決めたかい、悠介! 当然結婚を前提とした付き合いなんだろうね? 体目当てじゃないだろうね? 晴香のこと、幸せにしてやっておくれよ!」
どうしてこう、柏木家の人間は揃いも揃って熱しやすいのだろうか? 熱しやすく、冷めにくい。
「落ち着いてください。あのですね――」
俺は言葉足らずのカノジョに成り代わり、事情を説明した。
「なぁんだ」いずみさんは照れくさそうに苦笑した。「そういうことだったのかい。というか、“大時計の伝説”って、20年経った今でも健在なんだねぇ。なつかしいねぇ」
「叔母さんもうちの高校の卒業生だったね」と柏木は言った。
「実はこう見えて私も昔、大時計の下で告白されて、交際を始めたことがあるんだよ。相手はそこまで好きな男の子じゃなかったけど、どんなことが起こるのか興味があってね。まぁなんだ、若気の至りってやつだね」
「実際に何か起きたんですか?」と俺は先輩に聞いてみた。
「それがさ悠介、どうせ迷信だろうって侮っちゃいけないよ。あれにはびっくりしたねぇ。今でも忘れられないよ。青春時代の良い思い出だよ。12日間のあいだ何が起こったかって言うとさ――」
そこで咄嗟にいずみさんの口を塞いだのは、柏木だ。
「ダメーッ! 叔母さん、それ以上は絶対言っちゃダメ! 何が起こるかはあたしたちで確かめるから!」
わかってるよ、というようにいずみさんは悪戯っぽく微笑んだ。そして俺の肩を叩いた。
「悠介。このとおり晴香は今日からの12日間をとても楽しみにしているからさ、ひとつ、よろしく頼むよ」
はい、としか俺は答えようがない。
それを聞くといずみさんはエプロンを翻し、今度は客席で探し物を再開した。
「さっきから何を探してるんですか?」と俺はふと気になって尋ねた。
「イヤリングなの。アメジストのついた小さなイヤリング。私としたことがいつどこでなくしたのか、わからないのよ。母さんの形見で、ゆくゆくは晴香に渡そうと思っていたものだから、どうにかして見つけたいんだけれど……。あんたたちも探すの手伝ってくれない?」
いいですよ、と俺が言うより先に柏木が口を開いた。
「ごめん叔母さん。あたしたち、これから行かなきゃいけない場所があるの。夜になったら、探すの手伝うから」
「なんだい、デートかい」いずみさんは冷やかすように言う。
「まぁ、そんなところ」柏木は俺の手をとって言う。「さぁ悠介、行こう」
「行こうって、どこに行くんだよ?」
「言ってるでしょ? 家族にカレシを紹介するって」
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いずみさん以外に家族はいないじゃないか、と思った俺は想像力が足りていなかった。
柏木に連れられてついた場所は、近くにある墓地だった。そこでは同じ墓の下で母・夏子さんと父・恭一が静かに眠っていた。彼女にとっては文字通り、家族のいる場所だった。
「あのバカ親父が死んでからまだ一度も墓参りに来てなくてね」柏木は、ひしゃくで墓石にやさしく水をかける。「叔母さんには何度か誘われてたんだけど、いつか悠介と一緒に来たいと思ってたの。ごめんね、墓参りなんかに付き合わせちゃって」
初めてできた恋人との初めてのデートが墓場かと思うと感動のあまり泣けてきそうだったが、俺にもちょうど、柏木恭一に報告すべきことがあった。俺は姿勢を正すと目をつぶって手を合わせ、心で死者に語りかけた。
「おい聞いてるか、クソ野郎。あんたが原作の『未来の君に、さよなら』で高瀬が新人賞をとったぞ。あんたと俺の母親が高校時代に挑戦して届かなかったところに、俺と高瀬は届いたんだ。すごいだろ。まぁでも俺も偉そうなことは言えないな。なんせ賞がとれたのは、あんたの命懸けのアドバイスのおかげだからな。あんたのことは今でも気に食わんが、それだけは感謝する。その、なんだ、ありがとな。安らかに眠ってくれ」
報告が終わって目を開けると、閉じる前よりちょっとだけ心が軽くなったような気がした。隣を見れば柏木も合掌を終えたところだった。彼女もどことなくすっきりした顔をしていた。墓場デートも悪くないかもな、と言いかけた、その時だった。
俺は誰かの視線を背後に感じた。それは背中を突き抜けて胸の中まで覗き見るような強烈な視線だった。すぐに振り返ってあたりを見回したが、人はおろかお供え物を狙うカラス一羽いなかった。それで俺は首をかしげた。
柏木はもっと首をかしげていた。「どうしたの悠介、突然?」
「いや、誰かに見られていたような気がして……」
柏木は身震いする。「ちょっとやめてよ、こんな場所で」
すまん、と俺は言った。
「もしかして」と柏木は言った。「優里があたしたちをつけて見張っていたりして?」
〈隠れて何かをしようとしたって、案外誰かが見ていたりするものだからね〉
高瀬のその警告が耳によみがえったが、彼女の今日の予定を思い出し、俺は首を振った。
「それはないよ。ありえない。今日は歯医者で親知らずを抜くって、高瀬言ってたぞ」
「それじゃあ優里の生き霊が見張っていたりして?」
俺は身震いした。「やめろよ、こんな場所で」
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やはり誰かに監視されているような気配を感じつつ墓周りの掃除をしていると、駐車場に古い年式のセダンが駐まって、そこから一人の老婆が降りてきた。小綺麗な格好をした、品のある婆さんだった。足があまり良くないのか、時折ひきずるような歩き方をしている。
彼女は花やら缶ビールやらタバコやらを両手いっぱいに抱えていた。先立った夫の墓参りに来たのだろう。そしてどうやら彼女の亡き夫は、柏木家の墓の隣に眠っているらしかった。老婦人はお供え物をひとまず墓前に置くと、一呼吸置き、それから俺たちに声をかけてきた。
「もし違ったらごめんなさいね、あなたたち、そちらの仏様のご家族?」
もちろん柏木だけがうなずいた。「娘です」
「それはよかった」と老婦人は肩の荷が下りたように言った。そして実際に肩にかけていたポーチから何かを丁重に取り出した。それは紫の宝石のついた、イヤリングだった。「娘さん。あなたに、お渡しするわね」
「叔母さんが探していたイヤリング!」柏木は両手を添えてそれを受け取った。「ねぇおばあちゃん。これ、どこにあったの!?」
「そちらのお墓の前に落ちてたのよ」と老婦人は目を細めて言った。「そのアメジストは本物でしょう? それもそう簡単にはお目にかかれない一級品よ。きっと持ち主の方にとってはとても大切なものだと思って、余計なお世話を承知で拾っておいたの。アメジストはね、日光に弱くて長い時間外に置きっぱなしにしておくと色褪せてしまうのよ。それに高価なものだから、誰かが持っていってしまうかもしれないし」
柏木はいずみさんに代わって礼を述べた。どういたしましてと老婦人は答えた。
「見たところあなたたちは高校生みたいだけれど、こうしてよくお墓参りに来るの?」
「いえ」と柏木は後ろめたそうに答えた。「父が去年の秋に亡くなってからは、今日が初めてなんです」
「まぁ、こんなこともあるのね」なぜか老婦人は目を丸くした。「私がそのイヤリングを拾ったのも昨年の秋くらいなのよ。それまでは毎週欠かさず主人のお墓参りに来ていたのだけど、あいにく足を悪くしてしまって、今日は半年ぶりにこうしてここに来たの」
「すごい偶然ですね」と柏木は口に手を当てて言った。
「本当よね。とにかく、イヤリングをお返しできてよかったわ。ひょっとするとあなたたちには、良い神様がついているのかもしれないわね」
老婦人は冗談めかしてくすくす笑うけれども、あながち笑い話でもないんですよ、とつい言いたくなってくる。




