第82話 世界で二番目に素敵な恋をしよう 3
「神沢君と晴香が恋人同士になる!?」
生徒会室を後にした俺はひとりで高瀬の元へ向かい、周防が提示した条件をなるべく私情を挟まず簡潔に伝えた。それを聞くと高瀬はしばらく無表情で固まり、それから無意味に歩き回った。
「ちょ、ちょっと待って! 理解がぜんぜん追いつかない。えっ? 神沢君と晴香が恋人同士になる? それって、どういうこと?」
「俺と柏木が恋人同士になるってことだ」と俺は心を無にして答えた。他に言い換えようがなかった。
「恋人」と高瀬はあらためてつぶやいた。そこで脳がようやく情報を処理したらしく、彼女はうろつくのをやめて、大きく息を吐き出した。「その条件を飲めば、私が新人賞と賞金を受け取っても学校に告げ口しない。まなとはたしかにそう約束したんだね?」
俺はうなずいた。そして周防のその後の話を思い出した。「高瀬は知ってるか? この高校に古くから伝わるっていう“大時計の伝説”」
「もちろん。中庭の大時計の下で成立したカップルには、文字盤の数と同じ〈12〉日のあいだ、何か特別なことが起こるっていう伝説だよね。こんな有名なお話、うちの生徒で知らない人なんているの?」
つい30分前まで知らなかった男が今まさに彼女の目の前にいるわけだが、それについては話が逸れるので黙っていた。
「周防によればなんでも、この伝説についてくわしく調べるよう、学校側から生徒会に内々に指示があったそうだ。こんな昔話を鵜呑みにして交際を始める生徒が増えている現状を、教師連中は案じているらしい。ところが調査は思いの他はかどらない。『起きたことを口外すると二人は別れる』という言い伝えのせいで誰に聞いても何も返ってこないし、まさか周防みずから好きでもない女子と付き合って検証するわけにもいかない。
そこで俺に『協力しろ』と周防は言うんだ。俺と柏木が実際に大時計の下で交際を開始して、12日間のあいだ恋人となって過ごし、何が起きたか報告しろと。それが新人賞を黙認するただひとつの条件だと」
悪知恵が働くなぁ、と高瀬の口が動いたように見えた。本当に彼女がそう言ったとしたら、俺もまったくの同感だった。
リアリストの周防がこんな言わば“迷信”の謎を解き明かそうなんて、真剣に考えるはずがなかった。いくら学校からの指示とはいえ、あいつなら「くだらん」とか言って適当なレポートを書きあげて提出するはずだった。
いや、そもそも、学校から調査の指示など本当にあったのだろうか? 放っときゃ高校生なんてそのうち勝手に飽きて、一ヶ月もすりゃ別の話題で盛り上がってる。
いずれにせよ、周防の狙いははっきりしていた。俺と高瀬の分断だ。奴は俺たちのあいだに亀裂を生じさせようとしている。その目論見を果たすために“大時計の伝説”を利用しない手はなかった。
条件を飲めば俺と高瀬の関係が危うくなる。条件を飲まなければ俺と高瀬の夢が危うくなる。どちらをとっても痛し痒し。周防にとっては痛くも痒くもない。奴は俺と高瀬と柏木の関係性を熟知しているのだ。どこまでも抜け目がない、悪知恵の働く男だ。
「私たちはまた選択しなきゃいけないってことだね」と高瀬は観念したように言った。「条件を受け入れるのか、それとも拒むのか。神沢君と晴香が恋人同士になる。12日間限定の恋人関係――。ちなみに晴香は、それについてなんて言ってるの?」
「ありえないよね、って言って笑ってた」柏木は本当に笑ってそう言った。「ただ、なんとしても周防を黙らせるって言いきった以上、俺がもしその気なら、考えないこともないとも言ってた」
「それじゃあ神沢君は、どうするつもりでいるの?」
俺はじっくり考えてからそれに答えた。
「断ろうと思ってる。恋人同士になるまでにはさ、それなりに順序ってもんがあるだろ。それを全部すっ飛ばしていきなり明日からなんて、いくらなんでも急すぎる。それにだいいち、交際なんて誰かに『しろ』って言われてするもんじゃない。自分の意思で決めるもんだ。やっぱりこの条件は飲めない」
そうだよね、と返ってくるかと思いきや、高瀬は意外なことを口にした。
「神沢君。私はね、この条件を、飲んだ方がいい思う」
「え?」
「考えてもみなよ。何も12日間断食しろ、徹夜しろっていうんじゃないんだよ? 12日間晴香と恋人の関係になれば、新人賞も賞金も辞退しなくて済むんだよ? 新人賞は私の夢を、そして賞金は神沢君の夢を、ぐっと引き寄せる。神沢君の気持ちもわかるけど、夢のためって割り切って、この条件で手を打つべきだよ」
またしても俺と高瀬の意見はきれいに割れてしまった。周防のほくそ笑む顔が目に浮かんだ。
「でもこっちが条件を飲んだところで、果たしてあの野郎が約束を守るだろうか?」
「そこは心配しなくて大丈夫」と高瀬は断言した。「まなとは何かと人格に問題はあるけれど、約束だけは守るから。どうしてかというと、慕っているお姉さんの口癖が『約束をやぶる男は大嫌い』だから」
シスコンも悪いことばかりじゃないな、と呑気に学びを得ている場合じゃなかった。高瀬はやけにあっさり“選択”できたようだけど、俺と柏木が恋人同士になることに抵抗がないのだろうか? わずか12日間とはいえ夢のためだと割り切って平然としていられるのだろうか?
そんな風に考えて少し複雑な気持ちになったところで、俺の心中を察したように高瀬は口を開いた。
「私がこの条件を飲むべきだと思うのには、実はもう一つ他の理由があるの」
「他の理由?」
「大きな理由」と高瀬は言った。「神沢君、唯ちゃんの書き置き、今持ってる?」
俺はよくわからないままポケットから書き置きを取り出し、それを彼女に手渡した。
「ミライのキミのうらないは、でたらめ、うそっぱちだよ。ミライのキミは、しあわせもふこうもよばない――」
高瀬は唯の残したメッセージを読み上げると、これまでの二年一ヶ月を振り返るように目を閉じ、そして開いた。
「“未来の君”は幸せを呼ぶのか、不幸を呼ぶのか。それとも唯ちゃんが書き残したように占い自体がデタラメで何も呼ばないのか。私たちは二転三転する情報にずっと振り回され続けてきたわけだけど、いったいどれが本当なのか確かめる方法が一つだけある。とても簡単なこと。でも信頼できる方法。実際に、“未来の君”と一緒になってみればいい」
高瀬の言わんとすることがようやくわかって、俺ははっとした。どうやら彼女の方が俺より大人だった。
「なるほど。“大時計の伝説”の検証をするってことは、同時に“未来の君”の占いの検証にもなるってわけだ」
高瀬はうなずいた。
「だから私は条件を飲んで、神沢君は晴香と交際してみるべきだと思う。それも真剣に。占い師の行方がつかめない以上、そうでもしないと、いつまで経っても本当のことはわからないよ。卒業までもう一年もないっていうのに、これ以上“未来の君”に翻弄されるのはまっぴら。それとも私が私の“未来の君”と――まなとと付き合って、検証してみる?」
俺は大きく首を振った。それは最も唾棄すべき選択だった。
「もちろん無理強いをするつもりはないよ」と高瀬は続けた。「だってもし“未来の君”が不幸を呼ぶのなら、何かしら良くないことに神沢君が見舞われる可能性も十分にあるわけで。だから最終的にどうするかは、やっぱり私じゃなくて、神沢君が判断することになる。……どうする?」
俺の腹はすでに決まっていたが、即答するのもなんだか気がとがめるので、そこは礼儀的に腕を組んで迷うふりをした。やがて頃合いをみて腕組みを解いた。
「条件を飲もう。たしかに災難が降りかかるかもしれないけど、リスクを負わなきゃ何も得られない。大丈夫。言ってもたかだか12日間だ。さすがに命までとられるようなことにはならないだろ。“未来の君”とはいったいなんなのか。俺が身をもって確かめてやる」
それを聞くと高瀬はうなずいたものの、刺すような目つきで俺の顔を隅々まで見た。そしてまるでこれから亭主を仕事に送り出すみたいに俺のネクタイの乱れを直した。
「神沢君。忘れちゃだめだよ。晴香と交際するのは、あくまでも神沢君と私の夢のため。そして“未来の君”の謎を解き明かすため。それを忘れて、恋に夢中になったりなんかしたら、まなとの思う壺だからね?」
「はい」と俺は背筋を伸ばして言った。
「それから」と高瀬は言いにくそうに言った。「高校生らしく、健全なお付き合いをしてよね。節度は守らなきゃだめだよ。隠れて何かをしようとしたって、案外誰かが見ていたりするものだからね。わかった?」
「はい」と俺は言った。
「それから最後に」と言って高瀬は全然高校生らしくないエルメスの手帳を取り出し、五月のスケジュールを指で追った。「晴香との交際が終わる日――つまり明日から12日後は、ちょうど鳴大のオープンキャンパスの日でもあるの。私たちの志望校のオープンキャンパス。ふたりで一緒に行くって約束してくれる?」
「もちろん」と俺は言った。「約束するよ」
信じてるからね、という風に彼女は一度深くうなずいた。
「それじゃ神沢君は、明日までに告白の言葉を考えておかなきゃね」
「え?」俺はまじろいだ。
「やっぱり知らなかったんだ」高瀬は呆れたように苦笑する。「あのね、大時計の伝説にはね、男の子から告白するっていう決まりがあるんだよ」
♯ ♯ ♯
「柏木。俺はおまえのことが好きだ。付き合ってくれ」
それを聞くと柏木は、初々しく微笑んで俺の手を握った。
「これで今日からあたしたちは晴れて恋人同士だね」
俺はその手を握り返した。「ああ、そうだな」
「フツツカ者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
こうして俺は柏木の彼氏になり、柏木は俺の彼女になった。そんな二人を祝福するかのように、頭上の大時計の鐘が鳴った。針はちょうど正午を指していた。五月の心地よい風が俺たちのあいだを吹き抜けていった。
鐘が十二回鳴り終わると、柏木は手を離し、がっかりしたように肩を落とした。
「それにしてもさ、もうちょっと気の利いた告白の言葉、他になかったわけ? さっぱり胸がときめかないんですけど」
俺は視線を逸らした。「これでも一晩中考えたんだぞ」
「一晩中考えて、出てきたのが、あれ?」
「言うほど悪くないだろ。シンプル・イズ・ベストだ」
「まぁ細かいことはどうでもいいや」と言って彼女は笑った。「悠介が付き合ってくれって言うんじゃ、しょうがない。付き合ってあげる」
「そりゃどうも」
柏木は大時計に手を触れ、そして頭上を見上げた。
「適当に遊び半分で付き合ってもきっと、神様は特別なことを起こしてはくれないよね。だから真剣に交際しなきゃ。真剣に恋しなきゃ。せっかくなら素敵な恋にしたいな。そうだ悠介、あたしたち、世界で二番目に素敵な恋をしよう」
「二番目?」と俺は言った。「一番は?」
「そんなの決まってるでしょ。誰が聞いたって無謀だって言って笑うような夢を、交わした約束の力だけで本当に叶えようとしている、生真面目で不器用で馬鹿正直などっかの二人の恋だよ」
柏木はそう言うと、出し抜けに俺の手をとって駆け出した。
俺は石につまずきそうになったり木にぶつかりそうになったりで、彼女についていくのがやっとだった。靴が脱げそうにもなった。でも彼女はお構いなしで走り続けた。先が思いやられた。
とにかくそのようにして、俺の17年の人生史上、最も濃密な12日間は始まった。




