第82話 世界で二番目に素敵な恋をしよう 1
「辞退!?」俺は思わず声を荒らげた。「いったい何があったんだ?」
高瀬は頭痛をこらえるように額を押さえた。
「実は、私が新人賞をとったことが、一番知られてはいけない人に知られてしまって」
そう聞いて思い当たるのは、一人しかいなかった。「あいつか」
高瀬はうなずいた。「そうなの。勉強会に遅れたのは、まなとに呼び止められて、新人賞のことで今まで話をしていたからなの」
周防まなと。忌々しいその男のことを考えただけで、俺の頭は実際に痛み始めた。
「あいつ、高瀬のことをまだ諦めてないのか?」
「ぜんぜん」
顔に似合わずしぶとい男だ、と俺は思った。
「でもどうして、あの野郎にバレちまったんだろう? 誰にも気づかれないよう、『湯川うんざり』っていうちっとも高瀬っぽくないペンネームで応募したのに?」
高瀬は咳払いしてから口を開いた。
「まなとは私のまわりで何が起きているか常に調べているの。だから私が小説の新人賞を狙っていたことも、副賞の賞金を神沢君の大学進学資金に充てるつもりでいたことも、たぶんずっと前から把握していたんだと思う。それにほら、まなとも“未来の君”っていう言葉を知っているわけで……。いろんな意味で、私がうかつだった」
俺は痛む頭で周防の姿を想像した。
イメージの中で周防はあらゆる新人賞の選考スケジュールをカレンダーに書き込み、発表の日が来るたび逐一パソコンで受賞作のタイトルを確認していた。そして『未来の君に、さよなら』の字面が目に入るやいなやヒステリーを起こし、パソコンを木っ端微塵に破壊した。
俺にはそういう光景が簡単に想像できた。粉砕されたのが実際はタブレットだったというくらいの小さな違いはあっても、大方は当たっているはずだ。そう思わせてしまうのが残念ながら俺の恋敵であり、高瀬の“未来の君”だった。
「なるほどね」と俺は言った。「周防の坊ちゃんが受賞を祝福してくれるはずもなく、それどころかああだこうだ厄介なことを言ってきた。そんなところだな?」
高瀬は唇を噛んでうなずいた。
「でもよくわかんないな」と俺は正直に言った。「周防に何を言われたって、別に気にしなきゃいいじゃないか。無視すればいい。あいつには何も特別な権限はないんだから」
そこまで口にしたところで、俺ははっとした。周防は去年の秋から一歳違いの姉の後を引き継いで、生徒会長の座に就いていることをすっかり忘れていた。フハハ、バカめ、とスピーカーから聞こえた気がした。
「権限は、あるんだよね」と高瀬は言いにくそうに言った。
「権限があってもなくても同じだろ」と俺は考えた後で言った。「なにしろこの受賞は完全に学校の外での出来事だ。いくら周防が生徒会長だからってとやかく口出しされる筋合いはない。高瀬は堂々としていればいい。法律に触れるようなことをしたわけでもないんだから」
「法律には触れなくても、校則には触れるみたいなの」
「校則に触れる?」俺の声は裏返った。「どういうことだよ?」
「うちの高校は生徒がアルバイトやパートで収入を得ることを校則で厳しく禁じているでしょ? まなとによれば、新人賞の副賞として贈られる賞金も、校則の解釈次第ではその収入としてみなされるらしいの」
「なんだそりゃ!?」税務署みたいなことを言うな、という文句はさておき、俺は内ポケットから校則の書かれた生徒手帳を出して、課外活動に関する規定をあらためて読んでみた。そこには前時代的な厳めしいフォントで『学生の本分は学業である。よって報酬を伴うアルバイトなどの活動をいっさい禁止する』とあった。苦笑が漏れた。
「そういうことか。解釈次第では賞金は〈報酬〉で、小説執筆は〈などの活動〉にあたるって言いたいのか、あの腐れ生徒会長殿は」
「私が賞金のために勉強する時間を小説執筆の時間に充てていたのは、まぎれもない事実なわけで……。私がしかるべき対処を取らなければ、校則違反とみなし、生徒会長として学校側に通告するってまなとは言うの」
「でも学校サイドが周防のこんなこじつけじみた主張に耳を貸すだろうか? だって在校中の生徒が小説の新人賞をとったんだぞ? 学校としても名誉なことだろ。たとえ周防が告げ口をしたとしても、学校サイドは聞かなかったことにして、穏便に済ましてくれるんじゃないか?」
「それがそういうわけにもいきそうにないんだ」高瀬はがっくりうなだれた。「問題になってくるのは、やっぱり賞金なの。学校側は新人賞に限らずどういうかたちであれ、賞金を受け取る生徒が出てくることを快く思っていないの。アルバイトがしたくても校則を守って我慢している他の生徒に示しがつかないっていうのがその理由らしくて……。
現に四年前にテレビのクイズ番組に出て賞金を獲得した先輩がいるんだけど、その人は学校側にいろんな圧力をかけられて、結局はその賞金をユニセフかどこかに寄付したっていうの。本当は海外留学の費用にするつもりだったのにやむなく。私はその先輩より賞金の金額もはるかに多いし、おまけに隠していたわけだから、学校が黙って見逃してくれるとは到底思えないんだよね」
「校則を守って未来を諦めよう、か。すばらしいね、この高校は」
「仕方ないよ。そういう厳格な高校を選んで入ってきたのは、私たちだもの」
そう言われてしまうとそれまでだった。まだまだ皮肉を言ってやりたかったが、そんなことをしても何も始まらないので、俺はこれまでの情報を整理することにした。
「とにかく早い話が、このままだと、高瀬はまずい立場に立たされちまうってことだな」
高瀬は力なくうなずいた。それから指を三本立てた。
「まなとは私には三つの選択肢があるっていうの。学校からの処分を覚悟で新人賞も賞金ももらうのが一つめ。四年前の“前例”にならって、賞だけはもらって賞金は辞退なり寄付なりするのが二つめ。そして賞も賞金も辞退するのが三つめ――。はぁ、なんでこんなことになっちゃったんだろう。本当だったら今頃やる気いっぱいで受験勉強をしているはずなのに。ごめんね神沢君。勉強どころかなんだかものすごく面倒なことになっちゃって」
「高瀬が謝ることはないよ」と俺は言った。周防の狙いは考えるまでもなくわかっていた。こうして高瀬に厳しい選択を突きつけることで、俺と彼女の分断を目論んでいるのだ。俺は壁を殴りたくなる衝動をすんでのところで抑えた。
「それで高瀬は、どうするつもりでいるんだ?」
「三つめの選択肢にしようかなと思ってる」と彼女は少し悩んでから答えた。
「つまり、新人賞も賞金も辞退する気でいる」と俺はたしかめた。
高瀬はうなずいた。「今回の新人賞はなかったことにして、他の新人賞を狙ってみる。もちろん次は『未来の君に、さよなら』っていうタイトルも変えて、絶対にまなとにも学校にも気づかれないよう、細心の注意を払う。今回こうして実際に賞をとれたんだもの。きっと他の新人賞でも良い線いくと思うんだ」
あいにく俺の考えは違った。ここで反対意見を述べるのはなんだか周防の術中にはまったようで面白くないけれど、高瀬のためを思って口を開いた。
「俺はさ、こないだの土曜日に受賞の一報を聞いた時のあの喜びを忘れられないよ。モップが眠る桜の木の下で受賞を知って、まわりから白い目で見られるほどふたりで大喜びしたんだよな。この受賞はモップが運んでくれた幸運なんじゃないかって高瀬は言っていたけど、俺もわりと本気でそう思ってる。モップがとらせてくれたこの新人賞を辞退なんかしたら、あいつに悪いよ。怒って夢に出てくるかもしれない。
それに、受賞のチャンスはそうそう二度も三度も来ないって。こういうもんはもらえる時にもらっておいた方がいい。なぁ高瀬。俺は二つめの選択肢にするべきだと思う。新人賞はありがたく頂戴して、賞金の方は辞退しよう。そうすれば高瀬は不愉快な思いをせず、新人賞受賞作家の肩書きを手にすることができる」
「何言ってるの!」と彼女はすかさず言い返してきた。「それはいちばんありえない選択肢だよ。私は肩書きが欲しくてがんばってきたわけじゃないの。お金が欲しくてがんばってきたの。そのお金で神沢君の夢を叶えるために。賞はあくまでもおまけみたいなもの。それなのに賞金を辞退して賞を受け取るなんて、本末転倒! なんの意味もないよ!」
「そんなことはないよ」と俺は言った。「意味ならある。それも大きな意味が。たしかに俺の夢の実現は遠のくかもしれないけど、その代わり、高瀬の夢の実現は近づく」
「私の夢が? どういうこと?」
「俺もちょっと調べてみたんだけどさ、翻訳家の世界って、典型的な買い手市場らしいじゃないか。業界全体の仕事の量に対して、翻訳を職業にしたいって人が圧倒的に多いんだってな。つまり高瀬がこの先翻訳のスキルを十分に身につけたとしても、仕事にありつくためには、厳しい競争を勝ち抜かなきゃいけないってことだ。でもどうだ。小説の新人賞の受賞歴があれば、仕事を振る側にも『彼女に任せてみようかな』って思う人が出てくるんじゃないか? ましてや高瀬が目指すのは海外の小説を日本語に訳す文芸翻訳家だ。新人賞受賞作家の肩書きは、将来的に武器になる。必ず」
翻訳家としてスタートラインに立つことの難しさを高瀬もよくわかっていたらしく、その顔にはかすかに揺らぎのようなものが浮かんだ。でも彼女はすぐに表情を引き締めた。そして首を大きく振った。
「やっぱりそれはダメ! あのね神沢君。私が好きな俳優のドラマを見る時間を割いてまで――夜更かししておでこにニキビを作ってまで――小説のリライトを一年以上も続けてきたのは、もちろん神沢君との約束を果たすためっていうのもあるけど、それ以上に、将来立派な獣医さんになった神沢君を私がこの目で見たいっていう思いがあるからなんだよ。私はたくさんのワンちゃんやネコちゃんを救う“神沢先生”が見たくて毎日がんばってきたの。私にだって意地がある。こうなったら、なにがなんでも神沢君には獣医さんになってもらうから。いや、私がしてみせるから。そういうわけで二つめの選択肢は却下。やっぱり最初に言ったように、他の新人賞をまた一から目指すことにする」
頑固なお姫様だ、と俺は思った。もっとも、頑固さでは俺も負けちゃいなかった。
「俺は高瀬のその気持ちだけで嬉しいよ。わかった高瀬、誓うよ。俺はなにがなんでも獣医になる。雨が降ろうが槍が降ろうが冥王星が分裂しようがアトランティス大陸が浮上しようが俺は獣医になる。誓うよ。だから悪いことは言わないから、今回は自分の夢を優先して、受賞しておけって」
頑固だなぁ、あのね――と言って高瀬が髪をかき上げたところで、どこからか聞き慣れた甲高い声がした。
「そこまで!」
俺たちははっとして声のした方へ目をやった。そこには掃除用具を入れるロッカーがあった。その陰から出てきたのは柏木だった。
「ふたりとも、そこまで! あたしが止めないと、きっと明日の朝までやってるね、このやりとり」
俺は目を見張った。「おまえ、いつからそこにいたんだよ?」
「最初から」と柏木は当然のように答えた。「だから話は全部聞かせてもらったよ。それにしても黙って聞いてりゃ、ふたりともあれこれ考えすぎ。まったく、頭が良いんだか悪いんだかわかんないね。そんなんで大学受かるの? 三つの選択肢のうちどれを選べばいいかなんて、こんな簡単な問題ないじゃないの。答えは一つ。はっきりしてる」
「どうするのが正解だと晴香は思うの?」と高瀬はちょっとムキになって尋ねた。
「そんなの決まってるでしょ」と柏木は何の迷いもなく答えた。「選ぶのは一つめの選択肢。新人賞もバッチリもらって賞金もガッポリもらって二人とも夢を叶える。それ以外何があるっていうの?」




