第81話 なにかとても良いことが起きそうな気がする 2
週が明けて新人賞が正式に発表された。
校内のパソコンルームに行って高瀬から聞いた出版社のホームページを開いてみると、本当に実際に現実に『未来の君に、さよなら』が受賞していた。それだけでも俺を身震いさせるには十分だったが、さらに俺を奮い立たせたのは、副賞として受賞者に贈られる賞金の金額だ。
そこにはハイブリッドカーを新車で買っても釣りが来る金額が表示されていた。高瀬はその賞金をそっくりそのまま俺の大学進学資金に充てると言う。そこに俺が居酒屋のアルバイトでこつこつ蓄えてきた貯金を足せば、なんということだ、計算の上では国公立大学の獣医学部に六年間通えてしまうじゃないか。
厳密には授業料以外にも教科書代やら何やらこまごまとした雑費も必要になるが、そんなもんは奨学金やアルバイトでなんとでもなる。サークル活動や卒業旅行はいささか難しいかもしれないが、贅沢は言っていられない。それにそもそも俺はサークル活動や卒業旅行をするため大学に行くわけじゃないのだ。獣医になるため大学に行くのだ。
試験に合格さえすれば大学生になれる――。
そう思うとアドレナリンがとめどなく溢れ出てきた。俺は柄でもなくヒャッホー! と叫びそうになった。できれば今すぐ立ち上がってパソコンルーム中の生徒に高瀬の功績を知らせたかった。おいおまえらいいかよく聞け。新人賞をとったこの『未来の君に、さよなら』の著者は実は3年H組の高瀬優里なんだぞ、と。
でも間違ってもそんなことをするわけにはいかなかった。なぜなら受賞のことは学校には黙っておくというのが高瀬本人の意向だからだ。「知られると何かと面倒なことになるでしょ」と彼女は眉間を寄せて言った。まぁたしかに彼女の言う通りだった。
在校中の生徒が新人賞をとったとなると、面倒な奴がどこからともなく湧いてくるのは目に見えている。急に高瀬と親しくなろうとする俗物が出てくる。あのくらい誰でも書けるとやっかむ負けず嫌いが出てくる。たいして読みもしないで酷評する評論家気取りが出てくる。賞金に目をつけて金を無心する乞食が出てくる。
そういうくだらない連中にうんざりする高瀬の顔が俺には容易に想像できた。どう考えたって百害あって一利なしだった。
受賞のことを学校関係者に隠しておきたいという高瀬の思惑は、作品の著者名にも表れていた。彼女は本名ではなくペンネームで賞に応募していたわけだけど、『湯川うんざり』というのがそのペンネームだった。
たしかに『湯川うんざり』であれば、もしこのホームページを見た生徒がいたとしても、その著者名から高瀬を連想することは不可能に近いだろう。高瀬は湯川ではないし、日々うんざりして過ごしているわけでもない。
それにしてもどうして高瀬はよりにもよってこんなお世辞にもセンスが良いとは言えない妙ちきりんなペンネームを選んだのだろう? 受賞後に嫉妬されたり金をせびられたりしてうんざりする自分をイメージしてしまったのだろうか?
学校に秘密にしておきたいだけならば、もっと他に現役女子高生作家らしい可愛いペンネームはいくらでもあっただろうに。
たとえば『早乙女パンナコッタ』とか。たとえば『朝比奈カモミール』とか。たとえば『ミルキーウェイなぎさ』とか――。そこまで考えたところで、俺は自分のセンスのなさを思い知って愕然とした。とてもじゃないが高瀬のことを言えた義理じゃなかった。
まぁ高瀬のペンネームがなんであれ、新人賞を受賞したことに変わりはないのだ。そして俺の夢の実現が近づいたのもたしかなのだ。俺に今求められているのは名付けのセンスなんかじゃない。獣医学部の入試を突破するたしかな学力だ。
中庭の大時計の鐘が鳴り、午後四時を知らせた。俺は四時から大学受験組で勉強会をする約束をしていたことを思い出し、パソコンルームを後にした。
♯ ♯ ♯
我々の秘密基地である旧手芸部室に行ってみると、勉強会はもうすでに始まっていた。ただしそこに高瀬の姿はなかった。あったのは大学と聞けば真っ先にいもを思い浮かべる柏木の姿だった。彼女は真剣に勉強中の月島と太陽にちょっかいを出していた。
「ねぇねぇ、遊ぼうよ! そうだ、カラオケ行こうカラオケ。あたし、1時間無料クーポンを持ってるの!」
地理の問題を解いていた月島はそれを無視して、太陽に話しかけた。
「バルト三国の真ん中の国って、リトアニアだっけ?」
「いや違う」と太陽は手を止めて答えた。「あのな月島嬢、覚えておくといい。バルト三国は北からアイウエオ順になってるんだ。つまり北からエストニア、ラトビア、リトアニアってわけだな」
月島は、ふむふむ、とわざとらしくうなずいた。「答えはラトビア、っと」
これでめげたりしないのが柏木だった。
「カラオケがイヤならボーリングはどう? あたし、1ゲーム無料クーポンを持ってるの。ねぇねぇ、遊ぼうよ!」
「さっきからうるせぇよ!」太陽は立ち上がって抗議する。「オレたちは悠長に遊んでるヒマなんかないの! 250日後には泣いても笑っても入試本番なの! カラオケもボーリングも、行きたきゃ一人で行きやがれ!」
「なによ、受験生みたいなこと言っちゃって」
「受験生なんだよ!」
バカ葉山のくせに、と柏木はいつものクセでつい憎まれ口を叩くけれども、第三者的に見て太陽にはもう“バカ”という冠は似つかわしくなかった。二月に幼馴染みの日比野さんが植物状態になって以来、彼は文字通り死に物狂いで勉強に打ち込んでいた。
以前は命より大事だと言っていたプロ仕様のドラムセットは後輩の軽音部員にタダ同然の価格で売り払った。家に山ほどあったゲーム機とソフトはひとつ残らず叩き割った。休み時間には漫画本ではなく英単語帳を読み耽った。
すべては将来医者になって、日比野さんの意識を回復させるために。
幼少期につけられた“神童”の異名は伊達じゃなく、太陽はそれまでの勉強の遅れを驚異的なペースで取り戻していた。普段は口うるさい教師どもも舌を巻くほどだった。うかうかしていたら俺も追い抜かれそうだった。
いや、どうだろう?
もし今模試を受けたとしたら、四人の中で(学年でケツから数えた方が早い柏木は論外として)いちばん良い成績をとるのは、ややもすると太陽かもしれない。
そんなわけでうかうかしていられないので、俺はさっそく席についた。そして勉強の準備を始めた。すると柏木はスカートを翻してこちらにやってきた。
「ひどくない、悠介? 三年生になってからみんな『勉強勉強』で全然かまってくれないの。ねぇ悠介、たまにはあたしと遊んでよ」
俺はカバンから数学Ⅱの問題集を出して広げた。
「すまんな。あいにく俺も『勉強』だ」
柏木はあろうことか問題集を取り上げた。そしてこれ見よがしに脚を組んだ。
「あたし、ラブホテルの1時間無料クーポン持ってるの。たまには環境を変えてお勉強するっていうのはどう? あたしが先生になってあげる」
ラブホテルでいったい何のお勉強をするんですか先生、と喉元まで出かかったが、なんとか生唾と一緒にそのどうしようもないセリフを呑み込んだ。俺は小学三年生じゃない。高校三年生だ。
「カラオケやボーリングのクーポンはともかくとして、なんでそんな場所のクーポンまで持ってるんだよ?」
「あたし、常連だから」と言って柏木は唇の端を上げた。「というのはもちろん冗談で、うちの店に来たお客さんが忘れていったの。どうする、悠介。お勉強、する?」
そこで問題集を柏木から取り返して俺の前に戻したのは、太陽だ。
「柏木おまえ、ホントいい加減にしろよ? これ以上オレたちの邪魔をするなら、ここからつまみ出すぞ」
柏木は太陽の背中にあかんべえをすると椅子に座り、ふて腐れたように机に肘を突いた。
「あーあ、つまんないな。悠介と優里だけじゃなく、まさか月島とバカ葉山まで大学を受けるなんて。なんだかこれじゃあたし一人だけ仲間外れみたい。そうだ、あたしもいっそ、大学受けちゃおっかな」
「ほう」月島が顔を上げた。「大学に行って、何かやりたいことでもあるの?」
柏木は指折り数える。「合コンでしょ? 飲み会でしょ? バーベキューでしょ? スキー旅行でしょ? もしかして、四年間遊び放題!? 大学って、案外、いいかも」
「聞いた私が馬鹿でした」月島はまたひとつ賢くなる。
太陽は呆れたようにため息をついた。
「柏木おまえ、本当に将来どうするつもりなんだ? クラスでもおまえ一人だけじゃねぇか、進路がいまだに未定なのは。あのな、言われなくてもわかってると思うけど、オレたちは今高校三年生なんだぞ? 小学三年生じゃねぇんだぞ? いつまでもふざけたことばっかり抜かしてないで、そろそろてめぇの人生を真剣に考えろよ」
“悠介と一緒に居酒屋を切り盛りしながら宇宙一幸せな家庭を築く”
その夢を昨年末に諦めてからというもの、柏木は半年が経った今でも進むべき道を見つけられないでいた。高校三年生だというのに勉強をするでも資格を取るでもなく、部活動に精を出すでも慈善活動に勤しむでもなく、ただ学校に来て帰っていくだけの無目的な日々を過ごしていた。小学三年生の子の方がよほど未来のことを考えているんじゃないかと思うほどだった。
太陽の言葉がよほど耳に堪えたのか、彼女は聞こえないフリをして窓際へ行き、そこからぼんやり外を眺めた。不憫なので何か声をかけようかとも思ったが、その猫背気味の背中は〈そっとしておいて〉と語っていたので、俺は黙っていた。
「それはそうと、お嬢様、いくらなんでも遅くない?」
しばらくして月島が時計を見てそう言った。針はすでに四時半を指していた。
「英語が得意な高瀬さんに聞きたいことがあったんだけどな」太陽は困惑顔で腕を組む。「なぁ悠介。高瀬さんから、何か聞いてないか?」
「いや、特には何も」
俺はなんとなく胸騒ぎを覚えた。たしかに月島の言う通り、律儀な高瀬が三十分も遅刻するなんて珍しいことだった。
高瀬を探しに行こうと思い立って立ち上がったその時、部屋のドアが開き、本人が現れた。
ほっと安堵したのも束の間、彼女の浮かない表情を見て俺は少なからず緊張した。高瀬は部屋には入らずその場で口を開いた。
「神沢君、ちょっとお話があるんだけど」
言外に、みんなの前では話せないことなの、というニュアンスがあった。案の定高瀬は他の三人に悟られないよう小さく手招きしてきた。俺は部屋を出て高瀬の後をついていった。彼女はひとけのない空き教室の前で立ち止まると、がっくり肩を落とし、か細い声でこう言った。
「どうしよう神沢君。私、新人賞を辞退しなきゃいけないかもしれない」




