第81話 なにかとても良いことが起きそうな気がする 1
「柏木。俺はおまえのことが好きだ。付き合ってくれ」
それを聞くと柏木は、初々しく微笑んで俺の手を握った。
「これで今日からあたしたちは晴れて恋人同士だね」
俺はその手を握り返した。「ああ、そうだな」
「フツツカ者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
こうして俺は柏木の彼氏になり、柏木は俺の彼女になった。そんな二人を祝福するかのように、頭上の大時計の鐘が鳴った。針はちょうど正午を指していた。五月の心地よい風が俺たちのあいだを吹き抜けていった。
三年生になってまだ間もないこの時期にいったい何がどうなって俺と柏木が交際するに至ったのか。すべての始まりは数日前のある出来事だった。あれはたしかそう、東京から一ヶ月遅れで市内の桜が満開を迎えた、土曜日の午後のことだった。
その日俺は高瀬と二人で、モップが眠る桜の木を一年ぶりに訪れていた。
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「あれからもう一年経つんだね」と高瀬は感慨深そうにつぶやいて、満開の桜を見上げた。よく晴れた土曜昼の公園は多くの花見客で賑わっていて、あちこちで酒宴が催されていた。炭をおこしてバーベキューを楽しむカップルもいた。元気に駆け回る子どもたちの姿もあった。犬の墓参りをしているのなんて俺たちくらいのものだった。
俺は桜の木の下でしゃがみこみ、去年の春に土を掘り返してモップの亡骸を埋めたあたりを手で触れてみた。そこにはみずみずしい草が隙間なく生えていて、時の流れというものを嫌でも感じさせた。
高瀬は俺の隣に来るとゆっくり腰を下ろし、目をつむって無言で両手を合わせた。合掌は果たして犬を弔う場合にも有効なのかとふと思いもしたが、何もしないわけにもいかないので俺は彼女に倣った。
合掌を終えると俺たちは立ち上がって、すぐ近くにある無人のベンチに腰掛けた。ほどなくして高瀬が口を開いた。
「神沢君は手を合わせている時、なにか心でモップに語りかけた?」
「月並みだけど、どうか安らかに眠ってくれ、って。高瀬は?」
「高校三年生になったよっていう報告と、それから、私たちを見守っていてねっていうお願い」高瀬はそこでくすくす笑う。「これじゃ犬のお墓参りっていうより、おじいちゃんのお墓参りみたいだね」
俺も小さく笑った。「まぁ実際モップは、俺たちと会った時はすでに老犬だったからな。あながち間違いでもない」
高瀬はふたたび桜の木を見上げた。「それにしても、なんだか不思議だな。ここにいると、温かい気持ちになる。そして前向きになる。それになにかとても良いことが起きそうな気がする」
「モップが見守ってくれているからじゃないか?」
鼻先に舞い降りた花びらをつまんで、高瀬はうなずいた。
「そういえば、ずっと未定だった“大学のその先”について私たちが初めて話し合ったのも、この場所だったよね」
俺は去年の春を思い出してうなずいた。
「高瀬は翻訳家になるため文学部を目指す。俺は獣医になるため獣医学部を目指す。それまではただ漠然と『大学に行きたい』と言っていた俺たちが、将来やりたいことをようやく見つけて、大学に行く理由が明確になったんだ。たしかこのベンチで決意を新たにしたんだよな」
「神沢君は今でもその時の気持ちは変わってない?」
「もちろん」と俺は真面目に答えた。「高瀬は?」
「オフコース」と翻訳家志望はちょっと戯けて答えた。そして遠い目をして空の一点をぼんやり見つめた。「来年の今頃は私たち、どうなっているんだろう」
俺の頭には、偏屈で横柄な教授の悪口でも言い合いながら大学構内を一緒に歩く二人の姿が思い浮かんだ。
「キャンパスライフにも慣れはじめてきて、忙しいなりに充実した日々を送っているさ」
「そうだといいんだけどね」
その声色には、期待と不安が入り混じっていた。いや、正確に言えば6対4で不安の方が勝っていた。あるいはこのベンチに腰掛けていなければ、それは8対2くらいになっていたかもしれない。
いずれにせよ、高瀬を不安にさせている罪作りな人間は一人しかいなかった。俺はおそるおそる隣に目をやった。案の定彼女は試すような目つきでこちらを見ていた。
「神沢君。念のため確認しておきたいんだけど、忘れてないよね? 私たちは普通の受験生とは違ってこと。仮に試験に合格したとしても、そのまま大学生にはなれないってこと。私には政略結婚の壁があって、神沢君には経済的な壁があるってこと。その壁を取り払わないかぎり、いくら受験勉強をがんばっても無駄に終わるってこと」
「忘れるわけないだろ」俺はベンチの上で襟を正す。「約束したじゃないか。俺は高瀬の壁を壊す。高瀬は俺の壁を壊す。そして二人で一緒に大学に行くって。高校卒業までに必ず俺は、高瀬の未来を邪魔する馬鹿げた政略結婚を阻止してみせる」
高瀬はしばらく押し黙って俺の目をじっと見ていた。やがて静かに口を開いた。
「私、神沢君のこと信じてるんだからね? 信じているからこそお父さんやまなとに何を言われたって聞き流してきたし、信じているからこそ『未来の君に、さよなら』の書き直しを勉強の時間を割いてまでがんばってきたんだから」
高瀬は小説の新人賞をとって、その賞金で俺の壁を壊すつもりでいるのだ。わかってる、という風に俺は深くうなずいた。
「『未来の君に、さよなら』といえば」高瀬は思い出したようにそう言った。「“未来の君”のことで、このところ何か進展はあった?」
進展と呼べるかどうかはわからないけれど、思いも寄らぬ情報が思いも寄らぬかたちで舞い込んできたのは事実だった。あれは雪解けもだいぶ進んだ三月のことだった。俺は冬休みのあいだ娘として面倒を見ていた唯がうちに残していった、“未来の君”に関する書き置きを見つけたのだった。それ以来俺は、その書き置きを肌身離さず持ち歩くようになっていた。
「実は――」と言って俺はポケットから書き置きを取り出し、それを高瀬に手渡した。彼女もまた“未来の君”の占いを受けた一人だ。無関係というわけではない。
「あのねパパ。ミライのキミのうらないは、でたらめ、うそっぱちだよ。ミライのキミは、しあわせもふこうもよばない。だからパパは、すきなようにいきていいんだよ――」
高瀬は唯のメッセージを声に出して読み上げると、目をこらして筆跡を調べた。
「たしかにこれは唯ちゃんの字だね。信じられない。あの子がこんなことを書き残していくなんて……」
「唯の母親のこと、覚えてるか?」と俺は尋ねた。
「もちろん」高瀬はうなずいた。「私たちの高校の卒業生で、唯ちゃんを養うために夜のお仕事をしていたけど、本当は新聞記者になりたかったんだよね」
「なんでもあの母ちゃんも、以前に“未来の君”の占いを受けていたらしい。つまり唯は、適当な思いつきや当てずっぽうでこの書き置きを残したわけじゃないってことだ。唯がここまではっきり言い切るからには、おそらくそれなりの根拠があいつにはあるんだろう。その根拠がいったいどういうものかまではわからないけど」
「“未来の君”の占いはでたらめ、嘘っぱち――」高瀬はもう一度メッセージを復唱して、髪をかき上げた。「まあ普通に考えれば、たしかにそうなんだよね。だってあくまでもただの占いのはずなんだもの。でもそんな簡単な話じゃないから、私たちはこうしてずっと悩んでいるわけで……」
「まったくその通りだ」と俺はため息混じりに言った。「なにしろ占い師の言いつけを守って“未来の君”と一緒になった人の多くは、幸せになるどころか不幸になっているんだからな。俺の母親と柏木の親父がいい例だ。一生添い遂げる覚悟ですべてを捨てて駆け落ちしたのに、結局はたった5年そこらで死に別れちまった。そんなのを見させられたら、いくら唯がこんな書き置きを残していったからといって、占い師の言ったことは忘れようなんて気分にはなれないよ」
「“未来の君”は幸せも不幸も呼ばない――」高瀬は書き置きの続きを読んでうつむいた。しかしすぐに何かを閃いたように顔を上げた。「ねぇ神沢君。唯ちゃんに会いに行って、詳しい話を聞いてみるっていうのはどう?」
俺は唯の担任だった姫井先生から聞いた話を思い出し、首を振った。
「あいにく、唯に会うのは簡単なことじゃないんだ」
「え? だって、唯ちゃんは隣町に住んでるんだよ? バスで片道20分じゃない。お買い物ついでに会いに行ける」
「唯はもう隣町にはいない。母親と一緒に四月に引っ越して、今は川崎に住んでいる」
「川崎? 川崎って、関東にあるあの川崎?」
俺はうなずいた。「東京と横浜のあいだにあるあの川崎だ。唯は今年は俺たちより一ヶ月早く桜を見たんだな」
「どうしてそんな遠くへ?」
「俺たち後輩の青臭い言葉に触発されたのか、唯の母ちゃん、長年の夢だった新聞記者になるためまずは大学を目指すことに決めたんだってよ。川崎には受験生になる自分に代わって唯の面倒をみてくれる親戚がいるみたいだし、それに受験するならこんな田舎より関東に住んでいた方が何かと都合がいい。新聞社も多いしな。向こうに引っ越したのは、当然といえば当然の判断だ」
「川崎にいるんじゃ、たしかにお買い物ついでに会いには行けないね」
高瀬は唯の書き置きを記憶するようにもう一度じっくり黙読すると、それを俺に返した。そしてベンチの上で天を仰いだ。
「結局、“未来の君”の謎はより一層深まったってことだね。私にとってはまなと。神沢君にとっては晴香。“未来の君”っていったい、なんなんだろう?」
なんなんだろう? と俺も思った。
それからは俺も高瀬も何も言葉を発しない重い時間が流れた。
ふたりは何をするでもなくただ黙ってベンチに腰掛けていた。散歩中のパグが飼い主のおっちゃんと顔が瓜二つでも何も喋らなかった。魚をくわえたドラ猫をどこぞのおばちゃんが追っかけていっても何も喋らなかった。もはやどんな光景が目の前に広がろうとも話題にならないような気がした。きっと犬と猿と雉を従えた少年が通り過ぎても何も喋らなかっただろう。
そんな俺たちに話題を提供することになったのは、出し抜けにかかってきた一本の電話だった。その電話は高瀬にかかってきた。彼女はスマートフォンを取り出すと、俺に断って電話に出た。応答の口ぶりからすると、どうやら相手は、面識のない大人であるらしかった。
はじめは座ったまま社交辞令的な当たり障りのないやりとりをしていた高瀬だったが、ほどなくして目をかっと見開き、そしてすっとベンチから立ち上がった。
彼女はそのまま直立不動で立ち尽くして、ほとんど何も喋れなくなってしまった。時折「はぁ」とか「えぇ」とか気のない相づちを打つので精一杯だった。通話は四分ほどで終わった。高瀬はスマートフォンを耳から離すと、その場でよろめいて倒れそうになった。俺は慌てて立ち上がり、彼女の体を抱くように支えた。
「おい高瀬、大丈夫か!? いったいどうしたっていうんだ?」
「神沢君」と彼女はうつろな目で言った。「私を、叩いて」
「はぁ!?」
「お願いだから、私の頬を叩いて」
「何言ってんだ。そんなこと、できるわけないだろ」
「軽く、でいいから。怒らないから。私を叩いて」
このままでは埒があかないので、やむなく俺は愛する人の左頬を軽く叩いた。その柔らかく張りのある頬は、ぺちっ、という乾いた音を立てた。叩いたというよりも触れたという方が表現としては近かったが、それでも高瀬は満足したようだった。「夢じゃないんだ」とつぶやいて彼女は自力で立ち上がった。
「電話の要件は、なんだったんだ?」と俺はあらためて尋ねた。
「あのね神沢君。たぶんとってもびっくりすると思うけど、落ち着いて聞いてね」高瀬は一度大きく深呼吸すると、俺の目をまっすぐに見た。「『未来の君に、さよなら』が、新人賞を受賞したって」
「シンジンショー!」と俺は叫んだ。そりゃ叫びたくもなる。今度はこっちがよろめいて倒れそうだった。そりゃよろめきもする。「それは本当か!?」
高瀬はうなずいた。「今の電話は出版社から。来週中には正式に発表されるみたい」
「夢じゃ、ないんだよな?」
「ためしに頬を叩いてあげようか?」
「遠慮しておくよ」と俺は、腕まくりする高瀬に怖じ気づいて言った。今の彼女はきっと手加減というものを知らない。なにはともあれ、これは、この受賞は、快挙と言ってよかった。「ごめん高瀬、落ち着いてなんかいられない! 現役の高校生で小説の新人賞をとっちまうなんて、これはすごいことだよ!」
「私もやっぱり落ち着いてなんかいられない! そうだよね! どう考えてもすごいことだよね!」
気づけば俺たちはどちらが言いだすでもなく両手を握り合い、そして文字通り跳んだり跳ねたりして、喜びをわかちあっていた。途中で女子中学生と思しき三人組が俺たちを白い目で見て通り過ぎていった。「暖かくなるとこういうアブない人たちが出るよね」という目をしていた。
しかし誰にどんな目で見られようと別にかまわなかった。今喜ばないでいつ喜べというのか。高瀬はとんでもないことをやってのけたのだ。こんな時くらいハメを外して喜んだってバチはあたらない。
そうは言っても永遠にはしゃいでいるわけにもいかないので、ひとしきり喜ぶと俺たちは手を離し、そして再びベンチに腰掛けた。
「ありがとう神沢君」と高瀬は興奮の残る声で言った。「私が一から作品を書き直すたび、飽きずに読んで誤字や脱字や改善点を指摘してくれて。新人賞をとれたのも、編集者として手伝ってくれた神沢君のおかげだよ」
「とんでもない。俺の力なんかたいしたことないよ。それより――」俺はそこで、半年前まで心の底から憎んでいた男のことを思い出した。「それより、柏木の親父のおかげだろ。あいつのアドバイスがあってから小説の質はぐっと上がった」
高瀬は姿勢を整えた。「柏木恭一さん、いつ死んでもおかしくないっていうのに、『未来の君に、さよなら』の原作者として、貴重なお話をいくつも聞かせてくれたんだよね。この受賞でその時の恩は返せたかな」
最大の功労者の名がなかなか出てこないが、考えてみれば、彼女を称えてやれるのは俺だけだった。
「というか高瀬。なんだかんだ言っても一番大きいのはやっぱり高瀬のがんばりだよ。どんなに良いアドバイスをもらったって、それを活かせなきゃ話にならないんだから。おつかれさん。本当によくがんばった」
高瀬は天狗になるでもなく面映ゆそうに髪をすいた。そして思い出したように桜を見上げた。
「一年前に夢を語り合ったこの場所で受賞の知らせを聞くことになるなんて、思いもしなかったな。なんだか運命的。ここにいると何かとても良いことが起きそうな気がするってさっき言ったけど、まさか本当に起こるとはね。それもこんなとっても良いことが。ひょっとすると、なかなか夢に近づけない私たちを見かねて、モップが賞をとらせてくれたのかもね」
俺は否定しなかった。「松阪牛でもお供えしないといけないかもな」
「イベリコ豚もつけよう」と冗談めかして言って、高瀬は微笑んだ。つられて俺も笑った。そこで突然、季節外れの突風が吹きつけてきて、俺たちは思わず身をすくめた。木々がざわめき、花びらが舞い上がった。
風が吹きやむと、さっきまでとは打って変わって、彼女は物憂げな表情を浮かべていた。「このまま何事もなく賞と賞金がもらえるといいんだけど……」
「どうしたんだよ、急に?」
「だってほら、思い返せば私たちって、これまですんなり事が運んだ試しがないでしょう? それでなんだか妙に不安になっちゃって」
「考えすぎだって。今回ばかりはさすがに大丈夫だろ。モップが見守ってくれている」
すっかり浮かれて根拠もなくそう言った俺は甘かった。結論から言えば今回もそう簡単に事は運ばなかった。モップの神通力もやはりこの桜の木の下でしか通用しないようだった。
この数日後、高瀬の不安は的中して、俺と彼女は苦しい選択を迫られることになる。




