第80話 真昼の空に輝くあの大きな太陽のように 3
日比野さんを乗せた救急車はサイレンを鳴らしながら市内でいちばん大きい病院へと、すなわち葉山病院へと、向かっていた。俺と高瀬と太陽も付添人として救急車に同乗していた。
日比野さんの意識はなかった。
注射を何本か打てばそのうち意識が戻るというような楽観的な状態でないことは、素人目にも明らかだった。原型をとどめないほど変形した眼鏡のフレームが、北向の殺意の強さと車にはねられた衝撃の強さを物語っていた。俺たちにできるのは、日比野さんの回復を祈ることただそれだけだった。
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葉山病院につくと、日比野さんの体はストレッチャーに乗せられたまま、救急外来から院内へと運ばれた。そこではすでに医師らしき人たちが何人も集まって治療法を協議していた。彼らの口ぶりから推測すると、どうやらこれから大がかりな手術が行われるらしかった。しきりに“葉山院長”という言葉も聞こえてくる。何の因果かはわからないが、皮肉なことに執刀するのは、太陽の父親のようだ。
手術室の前にはブルーの手術服を着た寡黙そうな医師がいた。太陽はその姿を見るなり彼に近づくと、ほとんど涙声で「親父!」と叫んだ。「頼む! まひるのこと、助けてやってくれ! どうか、どうか……」
太陽の父親は無言で息子の肩を二度三度叩くと、助手や看護師をともなって、ストレッチャーとともに手術室へ入っていった。ドアが閉まって〈手術中〉のランプが赤く灯ると、太陽はその場にへたりこんだ。ベテラン看護師が見かねたように彼に優しく声をかけた。「坊ちゃん、きっと大丈夫ですよ。お父さんはこの地域一の外科医なんですから。お父さんを信じて。ね?」
ほどなくして事故当時の状況を我々に聞くために、警察が病院の中まで入ってきた。
太陽は悄然としていてまともに話ができそうにないので、俺と高瀬が聴取に応じた。そうしている間にも看護師が何人も慌ただしく手術室に出入りしたり、いかにも物々しい医療器具が運び込まれたりして、俺たちは気が気じゃなかった。それでもなんとか頭を働かせて、起きたことをできるだけ忠実に伝えた。聴取が終わると、必ず北向を捕まえますと言って警察は帰っていった。
警察と入れ替わるように現れたのは、俺も高瀬も見覚えのある人物だった。つい一週間前、自慢のザッハトルテを振るまってくれた中年紳士。日比野さんの父親だ。
彼は血相を変えて手術室に駆け寄ると、娘の名前を何度も呼んでドアを叩きつけた。それを見ていた看護師たちが慌てて彼をなだめた。でもドアに八つ当たりしたくなる気持ちもわからなくはなかった。飲酒運転の車に轢かれて亡くなった奥さんに続いて、今度は一人娘までも失うことになるかもしれないのだ。短い間とはいえ俺も唯の父親を務めた。彼の心痛は察するにあまりあるものがあった。
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〈手術中〉の赤いランプが消えたのは、日付もとっくに変わった午前三時過ぎのことだった。長い手術だった。ドアが開き、執刀にあたった葉山院長が中から出てきた。俺たちはすぐさま彼の元に向かい、手術の結果を尋ねた。彼は汗がしみて色の変わった帽子とマスクをとると、日比野さんの父親に一礼し、言った。
「まひるちゃんの一命は取りとめました」
俺たちの表情がほんのわずか和らいだところで、しかしと彼は続けた。そして無念そうに奥歯を噛んだ。「しかしですね――」
俺たちに突きつけられたのは、あまりにも残酷な現実だった。太陽の父親の説明をかいつまむと、こういうことだった。
日比野さんはこの先、一生意識が戻ることはない。打ち所が悪く、そもそも生きていること自体が奇跡的なくらいだ。今の医学では彼女を治すことはできない。この分野の権威をもってしても意識を取り戻させることはできない。これからの生涯はいわゆる“植物状態”で過ごすことになる。
それが数多くの人命を救ってきたこの地域一の外科医の見解だった。
説明が終わると、日比野さんの父親は白目をむいて倒れた。高瀬は泣き出した。太陽は椅子を蹴り飛ばした。俺は高瀬の肩を抱いた。病院のスタッフが来て、北向の身柄が警察に確保されたようだと言い残していった。でもそんなことはもはやどうでもよかった。北向が逮捕されようが死刑になろうが地獄に落ちようが、それで日比野さんの意識が戻るわけではないのだ。彼女の未来が閉ざされたことに変わりはないのだ。
それから一時間が経過した。長く辛い一時間だった。太陽の父親は次の手術に備えて仮眠に入り、日比野さんの父親は担架で病室へ運ばれていた。
残った俺たちは三人で何をするでもなく、待合室の冷たい長椅子に腰掛けていた。そこへ一人の若い看護師がやってきた。彼女は最初に目が合った俺に近づくと、気まずそうに何かを手渡してきた。それは淡いピンクのかわいらしい洋封筒だった。中に何が入っているのか、俺はすぐにピンときた。看護師は言った。
「まひるちゃんの持ち物の中にあったの。あんな大きな事故に遭ったっていうのに、折り目一つついていないのよ。きっとあの子にとってはとても大切なものなのでしょう? お父様も倒れてしまったし、あなたに渡しておくわね」
俺は看護師さんから封筒を受け取った。そしてそのまま太陽の元に行くと、それを差し出した。
「太陽、日比野さんからの手紙だ」
「手紙?」と太陽はうつむいたまま言った。
「実は日比野さん、おまえに手紙を書いていたんだよ。自分の想いを陽ちゃんにしっかり伝えたいって。彼女、祭りの帰り道にこの手紙をおまえに渡すつもりだったんだ。読んでやれよ」
太陽は一向に顔を上げず、首を横に振った。「そいつは、悠介が持っていてくれ」
「何言ってんだ」と俺は言った。「この手紙は、日比野さんがおまえに宛てて書いた手紙だぞ。それなのに俺が持っていてどうするんだよ。せめて、受け取ってくれよ」
太陽はまた首を振った。「いやだ。読みたくない」
「どうして?」
「怖いんだ」と太陽は耳を塞ぐようにして言った。「まひるの気持ちを知るのが怖いんだよ。怖くて読めない。読みたくない」
太陽からその言葉を聞くのはこれで二度目だった。つい先日も太陽は怖いと言っていた。まひるの気持ちを受け止めるのが怖いんだと。
しかしあの時と今とでは状況はまったく違う。あの時はまだ日比野さんの時は動いていた。しかし今はもう動いていない。彼女との思い出がいくつも頭によみがえった。
俺は腹の奥底から何かが沸き上がってくるのを感じた。それは怒りだった。疲れも眠気も理性も何もかも吹っ飛ぶようなすさまじく強い怒りだ。初めてと言っていいだろう、俺は太陽に対し、強烈な怒りを覚えていた。
百歩譲って手紙を読まない理由がまだ『心の整理がつかない』とかであれば俺だって、ここまでの怒りに囚われることはなかったはずだ。ところが太陽は怖いと言う。まひるの気持ちを知るのが怖いから読まないと言う。
何を言っているんだこの男は、と俺は思った。この男をかばって北向の車の前に飛び出した日比野さんの怖さは、果たしてどれほどのものだっただろう?
俺は封筒を左手に持ち替えて右手の拳に力を込めた。そして心で日比野さんに謝った。
ごめんね日比野さん。こういうのはきっと日比野さんがいちばん嫌うやり方だよね。でも今の俺には、こうすることしか思いつかないよ。
俺は有無を言わせず太陽を椅子から立たせると、そのふぬけた顔めがけて思いっきり右の拳を振り抜いた。そして倒れた太陽の体に覆いかぶさった。
「読めよ! 読んでやれよ! 日比野さんはこの手紙をおまえに読んでもらうために何度も書き直したんだぞ! 指に真っ赤なペンだこができるほど何度も何度も! 太陽おまえ、いつまで逃げてるんだよ!? 何が『怖い』だよ!? 親父さんの話を聞いただろ? もう日比野さんはおまえに想いを伝えることができないんだぞ!? それでも読むのが怖いか? それでも彼女の気持ちを知るのが怖いか? この手紙を読まないと言うのなら、俺はもうおまえの友達をやめる!」
太陽はしばらく殴られたところに手をあて呆然としていたが、やがて悪い夢から覚めたように目に生気を取り戻し、封筒を手にとった。そして中の手紙を黙読し始めた。
俺はアドバイザーとして日比野さんの手紙書きにずっと付き合っていたから、内容は完璧に覚えていた。書き出しから句読点の位置に至るまで。
その手紙は、ある問いかけで始まっていた。
※ ※ ※
突然ですが、陽ちゃんにとって私はどんな女の子でしょう?
子ども好きの優しい女の子? それとも料理好きの家庭的な女の子?
勉強好きの真面目な女の子? それとも読書好きの淑やかな女の子?
うーん。残念だけどたぶんどれも違うよね。
きっと陽ちゃんにとって私は、小言好きの口うるさい女の子だよね。
でもね、私が勉強勉強って口うるさく言ってきたのには、
ちゃんとしたワケがあるのです。
私たちがまだ幼稚園児だった頃、私のお母さんが車にはねられたでしょう?
陽ちゃんのお父様が手術をしてくださったけど、助からなかった。
それで私は毎日しくしく泣いて、ふさぎこんでいた。
覚えているかな?
そんな私に陽ちゃんはこう言ってくれたの。
「ごめんな、まひる。未来のおれならお母さんを救えたのに。おれはまひるのように悲しむ人をなくすため、将来は医者になる。事故や病気で苦しむすべての人を救う、世界一の医者になる」って。
それを聞いて私、とても元気が出てきたんだ。もう泣かないって思えた。
そして陽ちゃんの夢を応援しようって心に決めたの。
陽ちゃんを世界一のお医者さんにしてみせるって。
きっと多くの人はこう思うよね。
事故や病気で苦しむ人をすべて救うなんてできっこないって。
たしかに現実的なことを考えると、それは難しいかもしれない。
でも陽ちゃんなら、世界をあっと驚かせるような大発見をして、今の医学では治せない患者さんをたくさん救う。そしてその家族も悲しみから救う。私はそんな気がするのです。
どう表現すればいいか難しいけれど、陽ちゃんの中には何かそういう、キラキラ輝くスペシャルなものがあります。
そのスペシャルなものを世の中のために活かさなきゃいけない。宝の持ち腐れにしてはいけない。そんな思いからついつい口うるさくなってしまったわけです。
高校生になってからは特に顔が合えば二言目には勉強勉強だったよね。陽ちゃんの気持ちや意志も考えず、うるさく言ってごめんね。本当、反省してます。
……そりゃあ時間が経てば夢だって変わるよね。
そうそう。夢といえば、私は一つ大きな勘違いをしていたみたいです。
ロックバンドというのは私のなかでは、喉を枯らすために強いお酒をがぶ飲みしたり、音楽性の違いで殴り合ったり、女の子の扱いが楽器よりひどかったり、とにかくそういうマイナスイメージしかありませんでした。
でも陽ちゃんのバンドは――陽ちゃんのバンドに限らないかもしれませんが――そんなことはないようですね。
唯ちゃんの誕生日の日、ラジオの生放送中に誕生日を祝う歌を歌ってあげたでしょう?
私、本当に感心したんだよ。音楽の力ってすごいんだなぁって思った。
だってその歌を聴いた唯ちゃん、ものすごく感激していたもの。
うれし泣きするあの子を見て、私、やっと陽ちゃんのやりたかったことがわかった気がするの。
音楽で人を救う。きっとそういうことだよね?
正直私、音楽の力を侮っていた。音楽は人を救えるんだね。
お医者さんだけが人を救う職業ではないんだね。
そして陽ちゃんはもうちょっとでプロのミュージシャンになろうとしている。
すごいことだよ。
やっぱり陽ちゃんの中には何かスペシャルなものがある。
それを音楽に活かすのなら、とても素敵なことだね。
というわけで私はこれまでずっと勉強勉強としつこく言ってきたわけですが、それも今日で終わりにします。これからは陽ちゃんがミュージシャンとして活躍できるよう応援したいと思います。
だから口うるさい女の子は今日で卒業。
次はどんな女の子になろうかな?
ちょっとすぐには思いつかないな。
そうだ。今夜だけはちょっと冒険して大胆な女の子になっちゃおうかな。
お祭りだし、とっても大胆な女の子になっちゃおう。
あのね、陽ちゃん。
私は陽ちゃんのことが好きです。これまでも、これからも、ずっと変わらずあなたのことが好きです。陽ちゃんがどんな未来に進んだとしても、ずっとそばにいたいです。
もしこの気持ちを受け止めてくれるのなら、キスをしてくれると、うれしいです。
まひる
※ ※ ※
手紙を読み終わらないうちに、太陽は嗚咽を漏らして泣きはじめていた。
長い付き合いだが、太陽の涙を見るのはこれが初めてだった。太陽の泣き姿はまるで5歳か6歳くらいの少年のようだった。俺はかける言葉が見当たらなかった。そのうち高瀬までまた泣きはじめた。もらい泣きしているのだ。もう二人とも泣きたいだけ泣かせてやることにした。そりゃあ泣きたくもなる。俺だって泣きたい。でも泣くわけにはいかない。ひとりくらいは気丈な人間がいなきゃいけない。
太陽が泣きやんだのは、それからしばらくしてからのことだった。長かった夜は明け、外は明るくなりだしていた。太陽は呼吸を整えて立ち上がると、俺と高瀬の方へやってきた。
「悪ぃけど高瀬さん。悠介と二人にさせてくれないかな? 大事な話があるんだ」
高瀬は心配そうに俺の顔を見た。あとのことは任せて、という風に俺は目で合図した。あとは男同士で、という風に高瀬も目で答えた。そして近くの自動販売機で缶コーヒーを二本買い、それを俺と太陽に無言で手渡すと、そのまま廊下を歩いていった。
太陽は俺の隣に腰を下ろした。そして高瀬の姿が見えなくなってから口を開いた。
「格好悪い姿を見せちまったな。でもただメソメソ泣いていたわけじゃねぇ。泣きながらいろんなことをじっくり考えていた。それでひとつ決めたことがある。オレは決めたよ。決断した」
「決断?」
「ああ」
太陽は新しい息を胸いっぱいに吸い込んで、こう言った。
「医者になるよ」
俺はびっくりしてすぐには言葉が出てこなかった。思い出すのは、父親の後を継いで医者になることをかたくなに拒み、ミュージシャンになると熱く語っていた太陽だ。
「northhorizonはどうするんだよ?」
「バンドは今日限りでやめる」と太陽は断言した。「メンバーには頭を下げて、脱退させてもらう」
「本当にいいのか? もうちょっとでメジャーデビューなのに。夢が叶うんだぞ?」
「いいんだ」と太陽はきっぱり答えた。「こいつは、オレ自身のけじめなんだ」
「けじめ?」
太陽はうなずいた。そして怒りをこらえるように拳を握りしめた。
「もちろん北向の野郎は許せねぇ。今あいつが目の前に現れたら死ぬまで殴り続ける自信がある。でもそれ以上にオレが許せねぇのは、自分自身なんだよ。すべてはオレの甘さが招いたことだ。オレは甘いんだよ。甘いから星菜に騙される。加藤さんにも騙される。北向から余計な恨みを買う。失敗から学ばず、何度も同じヘマをやらかす。まひるやおまえがさんざんたしなめてくれていたのにな。
馬鹿だよ、オレは。まひるがああなっちまったのは、オレのせいだ。でもオレは自分自身を殴り殺すことはできねぇ。だから男のけじめとして決断した。オレは医者になって、あいつを――まひるを救う」
俺は高瀬が残していった缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。手術を執刀した、太陽の父親の言葉が耳によみがえった。
「そうは言っても、日比野さんを救うのは簡単じゃないぞ。だって治療法がないんだろ?」
「治療法はオレが見つける」と太陽は言った。「何年かかるかわからんが、必ず見つけ出す。希望を捨てちゃいけない。まひるは死んだわけじゃねぇんだ。まひるは生きてる。あいつの命があるかぎり、オレも命懸けで治療法を探す」
俺はまた一口コーヒーを飲んだ。「それじゃあ、まずは医学部に入らなきゃな」
「ああ。それも正真正銘の合格者としてな。親父が金を積んでこしらえた裏口からこそこそ入るようじゃだめだ。そんなんじゃ立派な医者にはなれねぇ。まずは実力で競争を勝ち抜いて、正門から堂々と入るんだ」
太陽は持っていた缶をそこでようやく開け、中のコーヒーを一気に飲み干した。
「もちろん目指すは現役合格だ。それ以外はありえん。受験まであと一年。これまでろくに受験勉強してこなかった遅れを取り戻さなきゃいけない。なぁ悠介。おまえ理系が得意だったよな? 勉強を教えてくれるか?」
「かまわんが、その代わり、厳しくいくぞ?」
「望むところだ」と言って太陽は、思い出したように頬をさすった。「それにしても悠介、さっきの一発は効いたぞ。あれでバッチリ目が覚めたよ。礼と言っちゃなんだが、お返ししてもいいか?」
拳を構える太陽を見て思わず俺はのけぞった。「よ、よせよ」
「ははっ、冗談だよ。ま、この一発はいつかのためにとっておくさ。悠介が今日のオレくらいふがいない姿を見せた、その時のためにな」
俺は思わず苦笑した。太陽も笑った。ひとしきり俺たちは笑った。それでこの夜のあいだずっと続いていた緊張状態がようやく解けた。そのせいだろう、俺の両目は、たちまち潤みだした。
「なんだ悠介」と太陽は俺の顔を覗きこんで言った。「結局おまえさんも泣くのか」
「そりゃ泣くよ」と俺は鼻をすすって言った。「太陽ほどじゃないにしても、俺だって日比野さんとの思い出はある。たくさんある。よく相談をしたし、よく相談を受けた。それに恩だってある。俺の境遇を知っていたのに彼女、そんなことまったく問題にせず、ひとりの人間として接してくれた。俺にとってもそんな日比野さんは、とても大事な人だよ。なぁ太陽、俺からも頼む。どうか日比野さんを治してくれ。俺にできることがあれば協力するから」
太陽はしっかりうなずいて、こんなことを言った。
「なぁ悠介、今からまひるに会いに行こうか」
「え?」
太陽は空いた缶を捨て、日比野さんからの手紙を大事そうに持ち直した。
「こいつの返事を返さなきゃいけないだろ?」
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日比野さんの体は個室のベッドの上に寝かされていた。頭には包帯が巻かれ、腕には点滴の針が刺さっていた。彼女は仰向けの状態で目を閉じ、身じろぎひとつしなかった。
父親はショックで倒れてしまったので、看護師がひとりでせわしなく身の回りの世話をしていた。彼女はちょうどナースステーションから呼び出されたところらしく、坊ちゃん、ちょっと見ていてくださいねと太陽に言い残し、病室から出て行った。
看護師の足音が遠くなると太陽はベッドに近づき、日比野さんの手を握った。そして語りはじめた。
「まひる、なぁ、聞こえてるか? おまえがこんな状態になっちまってまだ何時間かしか経ってないけど、もうわかったことがあるよ。オレはさ、おまえがいなきゃだめなんだよ。世の中のことなんかなんもわかっちゃいないオレが今までたいしたケガもなく突っ走ってこられたのは、おまえがそばにいてくれたおかげなんだよ。
手紙にたしかこう書いてたな? オレのなかには何かキラキラ輝くスペシャルなものがあるって。そいつはちょっと違うぞ。オレのなかの何かを輝かせてくれたのは、他でもなくおまえなんだよ。オレにとってはおまえこそがスペシャルな存在なんだよ。まったく、気づくのが遅いっていう話だよな。本当にオレは馬鹿だよ」
俺は病室の入り口で立ったまま黙って二人を見守っていた。太陽は深呼吸して話し続けた。
「よく聞けよ、まひる。オレは医者になる。医者になって、おまえを必ず治す。心配すんな。嫌々言っているわけじゃねぇ。オレは今、心から医者になりたいと思ってるんだ。思い出したよ。ガキの頃の強い気持ちを。おまえの母さんをうちの親父が救えなくて、その時オレは決意したんだ。いつか親父を越える医者になるって。今のオレもあの時とまったく同じ気持ちだ。
きっと驚くぞ。なんせ次おまえが目を開けた時、最初に映るのは、白衣を着たオレなんだからな。待たせてばかりいてごめんな。でも待たせるのはもうこれが最後だからな。オレは立派な医者になって、おまえを迎えに来るからな」
太陽はそこで初詣の時に日比野さんから贈られた学業成就のお守りを左手に握りしめた。そして右手で日比野さんの頬をやさしく撫でると、顔をゆっくり近づけ、口づけをした。
俺は静かに体を反転させて二人に背を向けた。何もすることがないので時計の秒針を眺めていた。針がちょうど一周したところで太陽が隣に来た。
「さぁ悠介。今日は日曜だよな。さっそくこれから勉強に付き合ってもらおうか」
俺は耳を疑った。
「ちょっと待てよ。俺たちは一睡もしてないんだぞ? いくらなんでも今日は……」
「何言ってんだ。思い立ったが吉日ともいうだろ。明日からじゃ遅いんだよ」
「せめて仮眠を取ろう、仮眠を」
「一時間だ」と太陽は言った。
「三時間だ」と俺は言った。
「二時間だ」と太陽は言った。
「わかったよ」と俺は妥協した。そして太陽の意志をたしかめるべく、あらためてこう尋ねた。「本当に、もう迷いはないんだな? おまえは医者になるんだな?」
「世界一の医者だ」と言い直した友の顔には、さっきまでの弱さや脆さはもうなかった。そこにあるのは眩いばかりの決意の光だった。
彼は戻ってきた看護師さんに深く一礼すると、背筋をぴんと伸ばして新しい夢へと歩きだした。まるで真昼の空に輝くあの大きな太陽のように、ふてぶてしいくらい力強く。そして誇らしく。




