第8話 みんな私の本当の顔を知らないだけ 3
「私ってほら、完璧に近いじゃない?」
嵐の中の航海を予感させるには充分な一言で、高瀬の述懐は船出を迎えた。
「小さい時から勉強はできたし、楽器も弾けたし、習い事だっていくつもこなしてきた。運動神経だって悪くはないんだよ? 高校に入ってからは体育でしか体を動かさないから少しなまってきちゃったけれど。おまけに生まれまで良い。誰もが知る、あのタカセヤのお嬢様」
“とびきり可愛い”というのをそこに含まないあたり、まだ俺の知る高瀬である。髪を艶やかに触る仕草を見るに、もしかすると喉元までは出かかったのかもしれない。少なくともその自負はあるんだろうとは思う。
「賞だって総なめだった」高瀬は胸を張った。「神沢君も記憶にあると思うけど、子どもの頃はさ、両親の似顔絵とか、交通安全の標語とか、環境問題の俳句とか、いろいろとコンクールみたいなのあったでしょ?」
俺はうなずいた。
「それで私はいつでも上位入賞。特別時間をかけたり、努力したりしたわけじゃない。なんとなくわかるの。どういうものが求められていて、どういうものが評価されるか。どうしたら審査員の人の心を掴めるか。上手なだけじゃ、だめ。子どもだからと言って青臭過ぎても、だめ。もちろん本格的になりすぎても、だめ。ちょうど良い塩加減ってものがある。テクニックとでも言えばいいのかな。私はそれを、きっと生まれながらにして心得ていたの」
小学二年の時に厭世観と皮肉に満ちた読書感想文で佳作を取ったのが最大の勲章である俺などからすれば、是非ともそのテクニックとやらをご教授願いたいところだが、あいにく今はそれどころじゃない。
「そして私はそんな自分が大好きだったんだ」と高瀬は続けた。「さほど努力しなくても成績が良くて、多くの表彰状に囲まれて、自宅でピアノのレッスンをさせてもらえて、学校でも多くの先生に頼られ褒められる自分が。実家がタカセヤの創業家っていうのだって誇らしかった。小さい時の私は『あれ? 私が中心で世界が回ってる?』くらいに思ってたところもあるんだ。地方の街だからさ、井の中の蛙で、勘違いするには充分だったんだよね」
実際に小学校の教室という狭い世界では、高瀬優里という非の打ち所の無い存在を中心にして、全てが動いていたという。
高瀬をヒエラルキーの頂点とし、彼女といかに近い距離に自分を置くか、親しい仲であるか、それがそのまま他の子どもたちのステータスになった。
「お神輿に乗せられているみたいだった」と、高瀬は苦笑して喩える。
小学五年時のクラス替えでも活発な女子が数人、さっそく高瀬に近付いて彼女を神輿に乗せて、わっしょい、と担ぎ始めた。
担ぎ手の定員が埋まってしまうと、次は周りで神輿の進行を囃す役、その次は遠くから神輿を眺めている観客、というように児童の立場は決定づけられていく。最下層は、祭りにすら参加しない子たちだった。
「黒川さんはいつも一人だった」と高瀬は言った。祭りには不参加の子、と俺は脳内で添えておく。「悪い人ではなかったの。暗くはあったけれど、頭は良かったし、大人っぽい話し方をする子だった。いや、実際、大人だったな。何かの機会で黒川さんと話すようになって、私は彼女に興味を持つようになった。遠慮なく『アンタ』って私のことを呼ぶ黒川さんとの会話はとても新鮮で、他の子とのコミュニケーションでは得られない刺激があった」
神輿の上からの眺めは悪くなかった、と高瀬は正直に打ち明けた。しかしずっと担がれているのも、疲れるものだった。神輿とは全く関係ないところにいた黒川さんとの交流は、高瀬の心に新しい風を送り込んだ。高瀬はたびたび神輿から降りて、黒川さんと親しくなっていく。
高瀬の人生でターニングポイントとなる出来事が発生したのは、秋の学芸会のことだった。全ては高瀬の意のままだったし、彼女なくしてクラスは動かなかった。しかし初めてその秩序が崩れてしまう。他でもなく、黒川さんの手によって。
「合唱のピアノ奏者はそれまでいつだって私だった。対抗馬なんていないから、先生や他の子もわかってて『やっぱり高瀬さんだね』っていう雰囲気があって、私もそれを受け入れていた。ピアノはね、女の子にとって花形なんだよ」
担任は候補者を募った。「ピアノやりたい人、いませんか」と。しかしそれはあくまで形式的なものに過ぎない。お決まりの『やっぱり高瀬さんだね』的なムードが流れる。高瀬は悦に入る。決して自ら挙手はしない。黙して、担がれるのを待っていればいい。
「思いもしなかった。黒川さんがあそこで立候補するなんて」と高瀬は言った。「教室はどよめいた。担任も驚いていた。私も慌てて、手を挙げた」
担任は昼休みに高瀬と黒川さんを音楽室に連れて行き、二人にピアノを弾かせた。結果は歴然としたものだった。
「私の負け。もう完敗。プロと音大生くらいレベルが違っちゃってた」彼女は自嘲する。「結局ピアノ奏者は黒川さんが務めることになった」
小さい時から厳しいピアノのレッスンを受けていたという黒川さんの演奏は、聴く者を虜にした。そこには上手とか下手とか、そういった概念を超越した魂の訴えがあった。
高瀬のクラスの合唱は、その年の学芸会のハイライトシーンとなった。
観客の拍手喝采が壇上にいる自分たちにではなく、ピアノ奏者に向けられていると、高瀬は感じ取った。そんな彼女には一つの気持ちが沸々と込み上げてくる。
それは獲物に巻き付く蛇のように彼女の心を緊縛して離さない。生まれて初めて感じた黒く、偏狭で、退廃的なその感情の芽生えに幼き日の彼女は抗うすべを持たなかった。
「私は」高瀬の唇は震えていた。「私は、拍手が沸き起こる中、この口で言ってしまったの。周囲に聞こえる声で『腹が立つ』って」
それは驚くほどすぐに始まった。黒川さんに対する悪口や無視に始まり、掃除を全て押しつける、物を隠す(捨てる)、靴や机に虫を入れる、という風に攻撃はエスカレートしていった。いわゆる、いじめだ。
実行したのはもちろん神輿を担いでいた連中だ。高瀬自身は一切自分の手を汚すことがなかった。
黒川さんは最初のうちこそどこ吹く風で受け流していたけれど、階段の踊り場から背中を押され転落し、指の骨を折ったことでついに学校に来なくなってしまった。
彼女の転校が担任に発表されたのは、年が明けた大雪の日のことだった。
高瀬は気丈に努めて話を続けた。
「黒川さんは母子家庭で決して裕福とは言えない中で、ピアノだけを頑張っていたんだよ。そしてあの子には、間違いなくピアノを弾く才能があった。私の見せかけの能力とは違う、圧倒的な、本物の才能が。私はピアノ以外にもいろいろ得意な分野があったのに、黒川さんの放つ輝きに、嫉妬してしまった」
それからしばらくして、高瀬は黒川さんが指の骨折がきっかけでピアノをやめてしまったことを風の便りで聞いた。
「私は黒川さんを殺したも同然だよ」高瀬は俺の隣で頭を抱える。「学芸会の日、ステージで私がつぶやいた一言が、黒川さんの人生を壊してしまった。私の醜い心が彼女の才能を潰してしまった。一人の名ピアニストの誕生を阻んでしまった。これは一人の人間を殺したのと同じくらい、罪なことなんだよ」
苛酷になっていく黒川さんへの攻撃を見て、高瀬の心に罪悪感が芽生えなかったわけではなかった。彼女は何度も担ぎ手に「そこまでしなくても」と声を掛けたが、一度発生した負のうねりは、もう誰にも止めることができなかった。
高瀬は神輿の上にいるのが苦痛でしかなくなった。彼女は神輿から降りることを決めた。
黒川さんへと向かっていたエネルギーが行き場をなくし、噛みつく相手を探していた時、とある事件が立ち位置の危うい高瀬に降りかかった。
「神沢君。昔の話だけど、タカセヤ大通り店でパンに針が入っていた事件、覚えてる?」
小学生の頃そういえばそんなこともあったな、と思い出して俺はうなずいた。
最初は客を疑ってたのに、結局犯人は身内、会社に恨みを持った社員だったということで、各方面からごうごうと非難を浴びたはずだ。その事件のせいで多くの客がトカイを中心とするライバル店へ流れて、童心ながらに、消費者ってのは現金なものだと刻みつけられたものだ。
「毎日のようにテレビや新聞で報道されていたから、私に対する風当たりも強くなっちゃって、嫌がらせとか陰口とか、いじめみたくなったんだ。参ったなと思った私は、本当に心を入れ替えなきゃ、って決意したの。黒川さんのこともあったしね」
目を丸くする俺を見て、いじめと言ってもそんなに激しいものじゃなかったよ、と高瀬は付け加えた。なんだかんだ言っても、タカセヤの令嬢という強力な看板が、盾になったという。
結果から言えば、その事件は高瀬にとって心機一転する良い機会になった。彼女はどんな時も笑顔を心がけ、他者に対するいたわりを忘れず、何をするにも自分を押し殺すようになった。面倒なことほど率先して引き受けていった。
俺たちのよく知る「良い子ちゃん精神に溢れた優等生・高瀬優里」ここに誕生、である。
効果はすぐに現れる。彼女はもう攻撃する側にもされる側にも立つことはなくなった。神輿に乗ることも担ぐこともなかった。だからといって孤独でもなかった。多くのクラスメイトと良好な関係を築くことができた。
王女の地位と引き替えにして、彼女は穏やかな日々を手に入れたのだった。
「人間と人間の関係って、本当に難しくて、不思議だよね。そんな些細なことで驚くほどガラッと変わっちゃうんだから。それで今では、すっかりその処世術が身に染みついちゃって『良い子過ぎる』なんて言われる始末。鳴桜高校にもね、小学校の頃の私を知っている子が何人かいるけど、みんな私の変化に驚いていると思うよ」
俺と彼女は案外似たような過去を歩んできたのかもしれないな、と思った。努力をしてまで深い人間関係の構築を望まなかった幼少時代。自分には直接非の無い、身内の起こした事件、それによる掌返し、逆風の発生。
ただ、そこから先が俺と高瀬とでは違っている。
「ひとつ聞いてもいいかな」と俺は言った。「タカセヤの事件があって、それまでは味方だった連中が離れていった時、高瀬はそれを受けて、人を嫌いにはならなかったのか?」
「え?」と真顔で返ってきたので、補足を入れる。
「いや、高瀬も知ってると思うけど、俺も親父が事件を起こしたことでいろいろあって人間不信になったからさ」
高瀬はすぐに「そこまで言わせてごめん」という申し訳なさそうな顔をした。それから答えた。
「私は、嫌いにはならなかったかな。なんて言えばいいんだろう、そういう理不尽さも含めて人間みたいなところ、あるのかなって」
気取っているわけでも、誰かの顔色を窺っているわけでもない、語り口だった。
「そういう理不尽さも含めて人間」
その言葉を頭で繰り返す。だが俺は彼女ほど考え方に柔軟性がないようだ。悪いところだ。ちっともそれに、共感することができない。
自分もそんな風に思えたら、少しは違ったんだろうか? そんな思いが気を滅入らせる。
俺が自己嫌悪に陥っていると、高瀬が覗き込むようにこちらの顔を見て口を開いた。
「私はね、人生で起こることには全て、何かしらの意味があると思っているんだ。そう考えでもしないと、楽なことばかりじゃない人生だもん、前に進めないじゃない? 黒川さんの件は、私、本当に反省している。でも、あれがなければ、私はもっと天狗になって、思い上がって、だめになっていたと思う。だからね、神沢君もお父さんの事件があってつらい思いをしてきたと思うけれども、それがあったおかげでプラスになっている部分もあると思うから、これからはもう少し顔を上げて、ポジティブに生きてみてもいいんじゃないかな」
彼女の目には俺が俯いて毎日を過ごしているように映っているのかと思うと複雑な気持ちになるが、これまでの自分を省みるに、それは仕方のないことだった。
「ごめん、神沢君はじゅうぶん前向きか。大学に行くため頑張ってるんだもんね。これ、お節介だったね」
高瀬が発言を悔やむように早口で言ったので、俺はすかさず口を開く。
「いや、お節介だなんて、とんでもない。そんな風に誰かに言ってもらったのは初めてだ。うれしいよ。高瀬が言うのなら、生きてみようかな。顔を上げて、ポジティブに」
♯ ♯ ♯
外では依然として雨が降り続いていた。
「なんだかわかんなくなっちゃったな」と高瀬が言ったのは、俺が十度目の見回りを終えて洞窟の奥に戻った時だった。「もうどれが本当の自分なのか、わかんないや。なんでも完璧にこなしてみんなにもてはやされる自分。そんな自分が大好きだった自分。黒川さんに『腹が立つ』と言ってしまった自分。自己犠牲に徹するあまり、ついには結婚話まで受け入れてしまった自分。テストの結果で親と大喧嘩して内緒で大学を受ける気でいる自分」
高瀬はそこで言葉を切り、もう一度「わかんないや」と言った。雪原の中から一粒の塩を探すような、途方に暮れた声色だった。
それを聞いて俺は、太陽と柏木の姿が脳裏に思い浮かんでいた。あの明るい二人にも他の誰も知らない、俺だけが知る一面がある。
「誰だって本当の自分なんてわからないよ」と俺は言った。「わからないまま進むしかないんだよ。でもそれでいいんじゃないかな。人間にはいろんな顔がある。太陽や柏木だって、ああは見えても、いろんな自分に驚きながら、そして恐れながら、時にそれを使い分けたりして毎日を生きている」
「神沢君も?」と高瀬が尋ねてきたので、俺は就寝前にベッドで高瀬や柏木のあまり道徳的とはいえない姿を想像してしまう自分を思い出し、「ああ」と首を縦に振った。少し顔が火照る。
高瀬はまだ自分だけが原因不明の奇病に蝕まれているような顔をしていた。俺は彼女のため言葉を継ぐ。
「一つはっきりしているのは、崖で柏木を優先して助けるよう訴えた高瀬は、まぎれもなく本当の高瀬だということだよ。あの場面は誰への贖罪も、猫を被る必要もなかったはずだ。純粋に友達を思いやる心があの行動を生んだんだ。やっぱり高瀬は良い子だよ」
彼女はすぐに否定しようとする。俺はそれを手で制する。
「子どもの頃の過ちなんて誰にだってある。でも高瀬はそこで改心した。実際にいじめに加担したのはまわりの人間だからと開き直ったっていいのに、そうはしなかった。楽な道を選ばなかった。それは簡単なことじゃないよ」
「でも黒川さんはピアノをやめてしまった」
「こうは考えられないかな」と俺は両手を広げて言った。「ピアノはやめたかもしれないけれど、転校した先で、人間関係には恵まれたって」
どういうこと? と言いたげな彼女に解説をする。
「いつも一人だった黒川さんは、高瀬が話し相手になったことが、とても嬉しかったと思うんだ。いくら大人っぽかったとはいえ、小学五年生だろ? 人並みに友人の一人や二人、欲しかっただろうさ。高瀬と交流したその経験が、喜びが、転校先で活きて、黒川さんは孤独を貫くのをやめることになった。もちろん、推測の域は出ないけど」
孤独の時代が長かった俺だから、黒川さんの気持ちはなんとなくわかるのだ。
「学芸会の日の壇上での一言を“罪”とするならば、償いはもう充分済んだと思う。だって心を入れ替えた高瀬のおかげで、俺を含め多くの人が助けられてきたんだから。そんなわけで高瀬は『本当の自分は世界で一番良い子だ』くらいに思っていいんだって」
「さすがにそれは、言い過ぎでしょ」
「それじゃあ俺たちの街で一番、に訂正しようか」
「どうしたの」高瀬は不思議そうに首を傾けた。「こう言っちゃ悪いけどさ、なんだかさっきから、神沢君っぽくないよね」
「さっそく、顔を上げてポジティブに生きてみたつもりなんだが」
「似合わないね」
くすっと笑ってそう言う彼女の今の表情には、光だけではなく影もあった。
高瀬がもし黒川さんの件で魔女裁判にかけられるのなら、俺は黒騎士となってでも彼女を守ってやる。そう誓う。俺は決して善人じゃない。どうせこの地域にあっては、ヒールとしての役割を担わされているのだ。たとえ罪を抱えていたとしても、俺にとって高瀬優里は高瀬優里だ。
高瀬の闇を知った。
高瀬の毒を知った。
高瀬の罪を知った。
その心に、少しだけ触れた気がした。
彼女により惹かれているのは、否めない事実だ。




