第80話 真昼の空に輝くあの大きな太陽のように 1
何事もなく迎えた氷祭り当日の夕方、俺は祭り会場近くの路上でどう時間を潰そうかひとりで考えていた。
というのもたった今高瀬から電話があって、待ち合わせ時間に遅れると伝えられたのだ。車で送ってくれるはずのお姉さんがカレシの家から帰ってこないのと彼女はその理由を説明した。
そういうことであればまぁ仕方がなかった。まさかひとりで自宅から歩いて来いとも言えない。〈ユルサナイ〉の件もある。用心するに越したことはない。
そんなわけで急に手持ち無沙汰になってしまった俺は、高瀬のお姉さんの情事があまり長引かないことを祈りつつ、会場に向かう人波をぼんやり眺めていた。
氷祭りは大きな公園をまるごと貸しきって催される、この街最大の冬のイベントだ。氷祭りというその名は伊達じゃなく、会場には例年数多くの氷像や氷の彫刻が展示される。氷の迷路や氷のすべり台まである。もちろん屋台もある。カーリングが体験できる。昔ちょっと売れた歌手が来る。フィナーレには花火が打ち上がる。寒すぎて昼間でも氷がとけない、北国ならでは祭典だった。
会場に向かう祭り客は、心なしか若いカップルが多かった。今日がちょうどバレンタインデーというせいもあるだろう。フィナーレの花火を見た後でもっと大きな花火を二人で打ち上げる気なのだろう。
俺がはっとして思わず息を呑んだのは、道行く祭り客の一人とふいに目が合ったからだった。女だった。俺は彼女の顔に見覚えがあった。そして彼女も俺の顔に見覚えがあるはずだった。
俺は反射的に彼女から視線を外し、何も見ていないふりをした。なぜならこの女と関わるとろくなことにならないからだ。それは以前に太陽が身をもって証明していた。俺は彼女が素通りしてくれることをひたすら願った。関わると俺のためにもならないしあんたのためにもならないと思った。でもだめだった。彼女は人の波を横切るようにしてこちらに来ると、得意の、鼻にかかった甘ったるい声で話しかけてきた。
「ねぇキミ、たしか、太陽のトモダチだよね?」
「人違いだと思うぞ」と俺は彼女と目を合わせないで言った。
「絶対そうだよ!」と彼女は人目をはばからず声を張り上げた。「私が今まで会った男でそんなしかめっ面して『人違いだと思うぞ』なんて答える無愛想な変わり者、一人しかいないもん。名前はたしか、そう、ユウスケだ。私のこと覚えてるでしょ、悠介? セイナよ、羽田星菜」
うるせいな、と思ったがもちろん口には出さなかった。
「一年の秋以来か」と俺は観念して言った。
羽田星菜はさっそく品定めする目で俺の全身を見てきた。「キミ、あの頃と変わってないねぇ」
あんたもな、と俺は心で言い返した。真冬だというのに彼女は胸元のざっくり開いた服を着て、丈の短いスカートをはいていた。女の子はどんな時もオシャレがいちばん大事なの、とでも言わんばかりに。目のやり場に困った。
「そうだ」と羽田星菜は不吉な声で言った。「キミさ、今、時間ある?」
「ない」と俺は答えた。
「私、キミと話したいことがあるの」
「俺にはない」
「まぁそう言わないで、すぐに済むから。どうせ退屈なんでしょ? だってキミさっき、いかにも『これからどうやって時間を潰そうか』って顔してたよ?」
♯ ♯ ♯
気乗りはしなかったが、時間を持て余していたのは事実なので、俺はやむなく羽田星菜と一緒に近くの喫茶店へ移動した。
俺たちには共通点があった。どっちも氷祭りに行こうと誘われた側だった。そして誘った側が遅刻していた。もっとも、俺を誘ったのは進学校の優等生で、羽田星菜を誘ったのは中堅校の劣等生だが。
「今の彼氏、時間にルーズなのよ」と彼女は脚を組んでストローを弄びながら言った。「こないだなんか映画館デートに二時間半も遅れてきたんだから。信じられる? 二時間半よ、二時間半。映画の上映時間より待ってる方が長いってどういうことよ。時間にだらしない男ってダメだね。顔は超タイプなのになぁ。私って、ホント男を見る目がない」
俺は黙ってカップに口をつけた。熱いココアが冷えた体に染み渡った。寒い日はホットココアに限る。
「それはそうと、すごいじゃない、太陽!」星菜は身を乗り出してきた。「太陽のバンド、メジャーデビューが決まったんでしょ? うちの学校でもその話題で持ちきり。もし太陽と付き合い続けていたら、私、もうちょっとで『ミュージシャンのカノジョ』だったんだ。惜しいことしたなぁ。まさかあのひ弱で頼りなかった太陽がここまでビッグになるなんてねぇ。私って、ホント男を見る目がない」
俺は以前に太陽から聞いた話を思い出した。
「そういえば、あいつが中学時代にドラムを始めたきっかけって、あんたなんだよな」
「ちょっとは見直した?」星菜はしたり顔をする。「そうなの。太陽は私の気を引きたくてドラムを始めたの。私が当時あるバンドのドラマーのファンだったから。太陽がこの先売れて有名になってテレビとかに出るようになったら、私のこと話してくれるかな? きっかけを与えてくれた初恋の人ってことで、私もテレビに呼ばれたりして! そしてまた付き合っちゃったりして!?」
そうはさせるか、と俺は思った。日比野さんと約束したのだ。太陽が道を誤りそうになった時は俺が正すと。俺はココアをまた一口飲んだ。
「なぁ、そろそろ本題に入ってくれないかな?」
「せっかちな男ねぇ。聞き上手にならないと、女の子にもてないよ?」
「余計なお世話だ」と俺は言った。本当に余計なお世話だ。
「まぁいいや」と言って星菜は、飲みかけのグラスをテーブルの端によけた。そしてこちらにぐっと顔を近づけてきた。その顔は真剣だった。「キミさ、覚えてる? カイトのこと」
「カイト?」
「ああ、キミにとっては名字の方が馴染みがあるか。キタムキ。北向海斗のこと」
ヒトの体というのはすごいもので、その四文字を聞いた途端、全身にすさまじい悪寒が走った。「北向のことか!」
その男のことは覚えているに決まっていた。
一年生の秋に俺たちの高校に教育実習で来た胡散臭い男。
教室に入ってきたその瞬間から俺がいけ好かなかった男。
バックパックひとつでユーラシア大陸を東西に旅した男。
それだけで世界の全てを知った気になったおめでたい男。
そのエピソード一つで女を抱けると思っていた愚かな男。
柏木のことが気に入ってストーカー行為を働いていた男。
月島のことも気に入ってストーカー行為を働いていた男。
それらが高校にばれて教師になる夢が絶たれた惨めな男。
懲りずに犯罪行為を続けてついに警察の御用になった男。
こんな人が教師になっちゃだめだとみんなに思わせた男。
こんな大人にはなっちゃだめだと反面教師にはなった男。
それが北向海斗という男だった。そんな男のことは覚えているに決まっていた。
「あの変態教育実習生がどうしたんだ?」と俺は言った。
星菜は言った。「彼、刑務所から出てきたの」
「もうかよ」思わず俺は眉をひそめた。「いつのことだ?」
「秋の終わり頃かな。だから刑期は一年くらいだったってこと?」
願わくば一年と言わず一生臭い飯を食っていてほしかったが、まぁたしかに連続殺人を犯したわけでも国家転覆を謀ったわけでもない。その刑期は妥当といえば妥当だ。
「ずいぶん詳しいんだな?」
「彼、出所してすぐ私に会いに来たから」と星菜は言った。「会いに来て、復縁を迫ってきたの。『星菜、もう一度やり直そう』って。当然断ったよ。その時はもう新しいカレシがいたし、それにいくらなんでもストーカー気質の前科持ちとは付き合えないからね。ま、そんな話はどうでもよくて、ここからが本当にキミに聞かせたかった話になるんだけど、彼、太陽のことを相当恨んでいるみたいなの」
俺はココアを飲みかけてやめた。「なんでまた」
「一年で刑務所から出てくることはできたけど、でもこの一年のあいだに、カイトはいろんなものを失ったわけ。親からは勘当されたっていうし、大学からは退学処分を受けたっていうし、カノジョだった私は他の人と付き合い始めたし、友達もひとり残らずみんな離れていったし。そして何よりも、教師になるっていう夢が完全に絶たれちゃった。小さい頃からの夢だったのに。そうなったのは何もかもすべて、自分のしていたことを暴いて刑務所に入るきっかけを作った、キミたちのせいだとカイトは思ってるの」
「なんだそりゃ!?」俺は声を荒らげた。「そんな馬鹿な話があるか! 逆恨みもいいところだ。悪いのは法に背くようなことをしていろんな人を困らせた北向自身じゃないか。あいつが何もかもを失ったのは誰のせいでもない。自業自得だ!」
「私に言われたって困るわよ。とにかく、カイトはそう思ってるの」
俺はココアではなく水を飲んで頭を冷やした。するとすぐに、ひとつの疑問が湧いてきた。
「待てよ。でも、どうして北向の恨みの矛先は、太陽ひとりに向いているんだ? あいつの悪事を暴いたのは、太陽だけじゃないぞ」
星菜はばつが悪そうに髪をさわった。
「私が二股をかけるようなことをしていたせいもあって、元々カイトは太陽に強い対抗意識を持っていたから。『あの苦労知らずの坊ちゃんにだけは何があっても負けない』ってよく言ってた。それにこれが理由としてはいちばん大きいと思うけど、カイトはこの一年で教師になる夢が絶たれたでしょう? でも逆に太陽はプロのミュージシャンになるっていう夢にどんどん近づいていった。カイト、びっくりしたはずだよ。社会から隔離された塀の中で一年過ごして、外に出てみたら、太陽のバンドの曲が町中あちこちで流れているんだもん。要するにおそらくカイトは、太陽に嫉妬してるのよ。同じ男として」
北向の屈折した性格ならば、そんな独りよがりな理由で復讐心を燃やしたとしても不思議はなかった。
星菜は続けた。「あの人、私に会いに来た時、最後にこんな言葉を吐き捨てていったの。『あのクソガキにも大切なものを失うことのつらさを思い知らせてやる』って。どこまで本気かはわからないけど、太陽のトモダチのキミには一応伝えておいた方がいいと思って、さっきは声をかけたの。……それにしてもカイトって、ここまでヤバい男だとは思わなかったな。なんであんな男に私、夢中になっていたんだろう? 私って、ホント男を見る目がない」
後半の星菜の自虐はほとんど俺の耳には入らなかった。
「確認するけど、出所した北向があんたに会いに来たのは、秋の終わり頃だよな?」
星菜はうなずいた。高瀬に対する嫌がらせが始まったのは、たしか冬の始まりのことだった。
俺は例の高瀬と太陽が写った寿司屋の写真と、それから〈ユルサナイ〉と書かれた紙を取り出した。そして双方をあらためて交互にじっくり見た。星菜の話を聞いた後だと、見え方がまるで違って、自然とため息が出た。
どうやら俺は今まで、大きな思い違いをしていたようだ。
太陽が、危ない。




