第79話 照れ屋さんのラブレター 4
俺が日比野さんの家を訪れたのは、すっきり晴れた土曜の午後だった。
なにも太陽から彼女を寝取ってやろうと目論んでいるわけではもちろんなくて、日比野さん直々の招待を受けたのだ。
呼ばれたのは俺一人ではなかった。高瀬も一緒だった。教わった住所を頼りにまるでモデルハウスみたいな小洒落た一軒家の前までたどり着いたはいいものの、どういった理由で日比野さんが我々を父親と二人で暮らすこの自宅に招いたのか、俺にはまるでわからなかった。高瀬にもわからなかった。
わかっているのはただひとつ、日比野さんが休日に俺たちを敢えて自宅まで呼ぶからには、それなりに重要な要件があるということだった。
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「実はどうしてもお二人の力をお借りしたくて、こうしてわざわざご足労いただいたんです」
日比野さんは俺たちを自分の部屋に上げてそう言った。
部屋は彼女の愚直なまでに真面目な性格を表すように整理整頓が徹底され、隅々まで掃除が行き届いていた。ちりひとつ落ちていなかった。柏木の部屋とは大違いだった。机の上のアロマポットからはシトラスか何かのさわやかな匂いが立ちのぼり、本棚には子どもとの接し方や遊び方を解説した書籍が何冊も並んでいた。女子高生の部屋と言うよりかは、保育士志望の短大生の部屋という気がしないでもなかった。
「私たちが力になれること?」高瀬は首をかしげた。「なんだろう?」
「実はですね、私、陽ちゃんに手紙を書こうと思い立ちまして」
「思い立ちましたか」と俺は言った。
日比野さんは深くうなずいた。「ここ最近、陽ちゃんの周辺が何かと騒がしかったじゃないですか。加藤さんの一件だったり、メジャーデビューが決まったり。そこでこのあたりであらためて、自分の気持ちを彼にしっかり伝えておきたいんです。私、あがり症ですから、面と向かって話をするとどうしてもしどろもどろになってしまいます。でも手紙ならそんな心配はいりませんからね」
「なるほど」高瀬はいたずらっぽく笑った。「早い話が、ラブレターってことだね」
「照れ屋さんのラブレター」と俺も言ってみた。
「そんな大それたものじゃありませんよ!」日比野さんは慌てふためく。「と、とにかくですね、なにぶんこういう手紙を書くのは私、初めてなものでして、何をどう書いていけばいいのかまったくわからないんですよ。そこでお二人に助言をいただきながら、書き進めていこうと思ったわけなんです」
ここに招かれた理由がようやくわかって俺は納得した。
「ちなみに、その手紙はいつ太陽に渡すつもりなの?」
日比野さんは壁のカレンダーに目をやった。ちょうど今日から一週間後、2月14日のところに赤いペンで丸が書かれている。彼女の頬にも赤みが差した。
「えっと、バレンタインデーに」
バレンタインデーに手紙! と思って俺も気づけばいたずらっぽく笑っていた。「やっぱりラブレターじゃないか」
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呼称の問題はさておくとして、もちろん俺と高瀬は日比野さんの依頼を快く引き受けた。断る理由がなかった。
高瀬は日比野さんの親友として女として、俺は太陽の親友として男として、それぞれの立場でそれぞれの目線でアドバイスを送った。
日比野さんとしてもこの一通の手紙にかける思いは相当のものがあるようで、彼女はちょっとでも納得いかない部分があるとすぐに便箋を破いて丸めてくずかごへ捨てた。そして新しい便箋を手にとってまた一から書き始めた。おかげで一時間も経つ頃には、くずかごは純情な乙女の純情な想いが滲んだ紙で溢れかえっていた。
このぶんだといつになったら帰れるかわからないぞ。俺が本気でそう案じ始めたところで、ドアがゆっくり開き、眼鏡をかけた中年の紳士が部屋に入ってきた。彼は手にトレイを持ち、腰にエプロンを巻いていた。
「お父さん!」日比野さんは慌てて便箋を隠した。
「お父さん!?」俺たちも慌てて姿勢を正し、あいさつした。
「まひるがいつもお世話になってます」と彼は愛想よく言って、手際よく三人分のケーキと紅茶を机に置いた。「おかわりならいくらでもあるから、遠慮なく言ってよ」
「今日は部屋に来ないでって言ったでしょう?」
日比野さんは眉をひそめて立ち上がると、俺たちと話がしたくてしょうがない様子の父親の背中を押して、部屋から追い出した。そしてドアに寄りかかってため息をついた。
「すみません、驚かせて。私のお父さん、うちに来たお友達に、こうして手作りの洋菓子を振る舞うのが趣味なんです」
俺はチョコレートが塗られたそのケーキをじっくり観察した。どこをどう見ても洋菓子店のショーケースに並んでいるケーキと遜色なかった。「手作りなの?」
「手作りなんです」日比野さんは肩をすぼめる。「はじめはクッキーのような簡単なものだったんですが、だんだん凝っていって。今ではこの通り、本格的なザッハトルテまで作れるようになっちゃったんです」
「すごくいい匂い」と高瀬は酔いしれるように言った。「せっかくだし、食べようよ。根を詰めすぎてもよくないし、休憩も兼ねてティータイムにしよう」
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「こんなうまいザッハトルテ、食べたことがないよ」と俺は、ザッハトルテなんぞそもそも食べたことがないくせに見栄を張って言った。
高瀬はうなずいた。
「お世辞じゃないけど、本当においしい! この味なら、お店出せるって!」
日比野さんは自分の子を褒められたように、照れる。「後でお父さんに伝えておきます」
「いいなぁ」高瀬は優雅に紅茶をすすった。「休日の午後にこんなおいしいケーキを焼いてくれるパティシエみたいなお父さん。うちのお父さんの休日なんか、ゴルフに行くかゴルフ中継を見るかゴルフゲームをやるかだもの。オーブンなんか触ったこともないよ。何がそんなに楽しいんだろう、ゴルフって?」
「まぁまぁ」日比野さんは苦笑する。「私の父も実は元々はゴルフが趣味で、家庭を顧みない人だったんですよ。でも母が交通事故で亡くなって、それ以来、私が寂しい思いをしないようにって、こうして休日は家でケーキを焼いたりするようになったんです。正直、最近は張り切りすぎて、空回りしているような気もしますが」
「良い父ちゃんじゃないの」と俺は言った。素直に感心していた。なんだか久々に、まともな親の話を聞いた気がする。
日比野さんが何かを言いたそうにもじもじし始めたのは、ザッハトルテをほとんど食べ終え、休憩も終わりに差しかかった時だった。言いたいことがあるなら言うよう俺がそれとなく促すと、彼女は伏し目がちに口を開いた。
「お二人にどうしてもうかがいたいことがあったんです。あのですね、そのですね、キスって、どんな感じのするものなんですか?」
俺は紅茶を吹き出しそうになった。「なんでそれを俺たちに聞くの?」
「だって神沢さんと高瀬さん、キスしたことがあるんですよね?」
「なんでそれを日比野さんが知ってるの?」
「だって高瀬さん、このあいだ仰ってましたよ? 修学旅行の時、京都の五条大橋の上で神沢さんとキスをしたって」
「なんでそういうことをぺらぺら喋っちゃうかなぁ……」俺はちくりと言って、横目で高瀬の方を見た。しかし彼女はどういうわけか、とろんとした目で何もない空間をぼんやり見ていた。いったいどうしたというのだろう?
しょうがないので俺は日比野さん相手に話を続けた。
「太陽とはしたことないの、キス?」
「陽ちゃんに限らず、誰ともないですよ!」
「でも興味はある」
彼女は否定しなかった。「ほら、キスの感じ方って、いろんな言い回しがあるじゃないですか。甘酸っぱいとかほろ苦いとか、レモンの味とかコーヒーの味とか。でも実際のところはどうなのかなって、経験者のお二人にいつか聞こうって思っていたんです」
高瀬とのキスをどう表現したらいいのか。
趣のある答えをなかなか俺が思いつけないでいると、やがてどこからか「ぐふふふ」という場違いな笑い声が聞こえてきた。笑っていたのは、あにはからんや、高瀬だった。
「そういうことならこの私に任せなさい!」と彼女は舌をもつれさせて言った。その目はあさっての方を見ていた。「日比野さん、あなたに、キスの魅力を教えてしんぜよう」
俺ははっとして少し残っていたザッハトルテの匂いを注意深く嗅いだ。
「日比野さん、もしかしてこのケーキ、酒が入ってる?」
「はい、なにしろ本格的なザッハトルテなので。スポンジにラム酒が塗られているはずです」
それを聞いた俺はテーブルに肘を突いて頭を抱えた。
「どおりでさっきから高瀬の様子がおかしいわけだ……」
「でも、お酒って言っても、ちょっとですよ。ほんのちょっと」
「その“ほんのちょっと”がまずいんだよ。高瀬は体質的に極度に酔いやすいんだ。前に間違ってアルコール度数が1%にも満たない飲み物を飲んで、べろんべろんに酔っ払ったことがある」
「高瀬さん、酔うとどうなっちゃうんですか?」
「別の人格が顔を出す」と俺は言った。「日比野さん、覚悟して。これからちょっと、面倒なことになるよ」




