第79話 照れ屋さんのラブレター 3
演劇部の控え室を後にした俺と日比野さんの足取りは、えらく重かった。
その理由はもちろん、嫌がらせ事件の捜査が振り出しに戻ってしまったからというのもあるけれど、それ以上に、加藤さんの救いようのない家庭環境を知ってしまったからというのが大きかった。月島の言葉を借りれば彼女もまた、ある意味では“社会の被害者”と言えるかもしれない。
「なんだかやるせないですね」と隣で日比野さんはため息まじりに言った。「もちろん加藤さん自身も悪いですよ。でもなんといっても一番悪いのは彼女の父親です。我が子に詐欺の片棒を担がせるようなことをして、許せませんよ。ねぇ、神沢さん?」
「まったくだよ」と俺は強く同意して言った。そして立ち止まった。「それにしてもさ、親子って、いったいなんなんだろうね?」
日比野さんも立ち止まった。「親子とは、ですか。どうしてまたそんな疑問を?」
「いやほら、俺は短い間だけど唯の面倒をみてきたでしょ? 血のつながりがないってことは途中からわかっていたけど、それでもこの子をなんとしても守らなきゃいけないって思いで育児にあたったよ。ところが実際の母親ときたらそんな唯を『足枷』のように思っていた。そして加藤さんの父親は娘を『金づる』のように思っていた。どっちも血のつながった、自分の子であるはずなのに。なんでそうなっちまうんだろうね? なんで大事にしてやらないんだろうね? たかだか一ヶ月親代わりをしただけで偉そうに言うなって言われりゃそれまでだけど、俺にはちっとも理解できないよ」
「そういえば」と日比野さんは言いにくそうに言った。「神沢さんも、ご両親のことで苦労されてきたんですもんね」
たしかに、と思って俺は苦笑いした。「親子って、なんなんだろうね?」
「それは」と言って日比野さんは優しく微笑んだ。「その答えは、神沢さんご自身が実際に親になった時に、わかるんじゃないですか?」
「親になった時か。そもそも俺は親になれるんだろうか?」
「なれますよ。それも、とっても良いパパになれます」
俺は思わずにやついた。「そう?」
「はい。学童や保育園のボランティアでいろんな父親を見てきた私が太鼓判をおすんです。保証できます。もっと自信を持ってください」
「ねぇ日比野さん、もっと俺のことを褒めてくれないかな? このところ、褒められることに飢えてるんだ」
「えぇ? 高瀬さんたちは、褒めてくれないんですか?」
「あの三人、ここ最近、褒めるどころか欠点ばかり突いてくるんだよ」
日比野さんはくすくす笑った。
「私でよければかまいませんよ。付き合っていただいたお礼に、今からいっぱい褒めてあげます。神沢さんの良いところ、100個言ってみせます」
♯ ♯ ♯
「悠介ちゃん、ちょっと待って」
翌日の昼休み、廊下を一人で歩いていると、背後から誰かに呼び止められた。その憑き物が落ちたような軽快な声はさては太陽だな。そう思って無視して進んでいると、やはり血色の良いハンサム面が横からぬっと出てきた。
「ちょっと待ってったら、もう。いけずな人ねぇ」
やむなく俺が立ち止まると、太陽は再び俺の背後に回り、両肩に手を置いた。
「悠介ちゃん、モミモミしましょうねぇ。凝ってるところないですかぁ?」
「付き合いきれん!」俺は早くもたまらず振り返った。太陽がいつになく上機嫌なわけは、ひとつしかなかった。「その様子だとどうやら、加藤さんから本当のことを聞いたようだな?」
「ああ」と言って太陽は、自分を戒めるように頭を数度軽く叩いた。「彼女としっかり話し合ってきたよ」
他の生徒に聞かれるといけないので、俺たちは廊下の端にこっそり移動した。
「それで、始末はどうつけるつもりなんだ? 学校に報告するのか? それとも警察に突き出すのか?」
まさか、という風に太陽は手を振った。「彼女は反省しているし、もう二度と男を罠にはめるような真似はしないと言っている。それにオレにも落ち度はある。デビューが見えてきたことですっかり浮かれちまって、脇が甘くなっていたのは事実だ。一番悪いのは娘の青春を台無しにして自堕落な生活を送る親失格のオヤジさんだしよ、彼女一人に罪をかぶせるようなことはしねぇよ」
俺個人としてはいろいろ思うところはあったが、これは二人の問題なので、余計な口出しはしないことにした。
なんとなしに窓から実習棟を眺めると、加藤さんの姿が目にとまった。彼女はちょうど演劇部の部室から出てきたところだった。
「妊娠詐欺から手を洗うとなると、あの子、これからどうやって生活していくんだろう?」
「高校生活もあと1年だし、卒業まではなんとかなるようだ」太陽も窓の向こうに目をやった。「そんでもって卒業後は進学せずに、劇団員になるらしい」
「劇団員?」
「なんでもうちの演劇部のOBが主宰する劇団が札幌にあって、入らないかって今から誘われてるんだってよ。クソ親の元からは離れられるし、役者になるっていう夢にも近づけるし、ま、彼女にとっちゃ願ったり叶ったりってわけだな」
「役者か。たしかにおまえをコロッと騙した演技力があるんだから、彼女には向いているのかもな」
「思い出させんなって、悲しくなるから!」
実習棟の加藤さんは、前を歩いていた生徒が落としたハンカチを拾うと、小走りでそれを送り届けた。そして何事もなかったように廊下を進んだ。やがて彼女の姿が見えなくなると、太陽は何かを吹っ切るように一度うなずいた。
「とにかく、あの子との関係は今日でおしまいだ。一時期はどうなることかと思ったが、これにて一件落着。夢の実現を邪魔するもんは何もなくなった。メジャーデビューへ向け視界良好だぜ。それもこれもおまえさんのおかげだな。悠介、ありがとうよ」
「俺には感謝しなくていいから、日比野さんに感謝しろよ」と俺は言った。「おまえが芸能人気取りでサイン書きに明け暮れているあいだ、日比野さんは『陽ちゃんの潔白を証明する!』って意気込んで、ひとりでこの寒いなか奔走してたんだぞ。彼女のがんばりがなければ、おまえは今でも、恋人の妊娠を金で無かったことにしようとしたダメ男だった」
それを聞くと太陽はばつが悪そうに頭をかいた。
「本当だよなぁ。今回ばかりは、あいつに助けられたよ」
「今回だけじゃないだろ、いつもだろ」
太陽は戯けて舌を出す。俺はこの馬鹿を恋い慕う才媛の顔を思い出さずにはいられなかった。
「なぁ太陽。いい加減、彼女の気持ちを受け止めてやったらどうだ? 今回のことで身にしみてわかっただろ? おまえに本当に必要な女の子は日比野さんなんだよ。『まひるは将来オレのお嫁さんになるんだからな』っていう小さい頃の約束を彼女は今でも固く信じて、恋人も作らず、おまえのことだけを一途に想い続けているんだ。そろそろ寄り道するのはやめて、元の道に戻って、その気持ちに応えてやれって」
「あいつの気持ちはわかっちゃいるんだけどよ……」
「それじゃあなんで踏ん切りがつかない?」
太陽はしばしそれについて考え、言った。「なんだか、怖いんだよな」
「怖い?」
「おまえさんも知っての通り、オレとまひるはガキの頃からずっと幼馴染みっていう関係でやってきた。友達でもなく兄妹でもなく彼氏彼女でもなく付かず離れず、ビミョーな距離感をもう10年近く保ち続けてきた。たしかに中途半端な関係ではある。よくわからん仲ではある。でもそれが心地良いっちゃ心地良いんだ。くだらん話をして笑い合って、くだらんことで喧嘩して、でも次の日はわだかまりなくまた笑い合って。おっぱい揉ませろと言ったら怒られて、スカートめくったらビンタされて、でもノートはいつでも気前よく見せてくれて。そういうのがオレは楽なんだよ。でもあいつの気持ちを受け止めるとなると、きっと今までみたいにはいかなくなる。一度男と女の仲になっちまったら、もう幼馴染みには戻れない。それがなんだか怖いんだよな」
意気地がないな、と思ったが俺は黙っていた。俺だって人のことは言えた義理じゃない。
「そうだ悠介。ちなみにここだけの話、ぶっちゃけまひるのこと、どう思ってる?」
「どうって、なにがだよ?」
「決まってんだろ。一人の女として、アリかナシかってことだよ」
俺は太陽を少しは焦らせてやろうと思いついた。なかなか煮え切らない小早川の陣に大筒を撃ちこむ家康に倣って、こう言ってやった。
「アリもアリだよ。あんな良い子、そうそういないぞ。あんまりグズグズしてると、日比野さんのこと、盗っちまうぞ」




