第79話 照れ屋さんのラブレター 1
二月に入り、太陽の所属するバンド『North horizon』のメジャーデビューが正式に決まった。驚くべきことにその決め手となったのは、唯の誕生日を祝うべくラジオで太陽がオリジナル曲を披露した例のパフォーマンスだというのだから、世界は愛と希望に満ちあふれていた。
在校生がミュージシャンとしてプロデビューするというそのニュースは、当然ながら校内をたちまち席巻した。猫も杓子も口を開けば“ノーホラ”だった。来週に迫ったバレンタインデーの話題がかすむほどだった。
太陽の元には色紙やCDやタオルや果てにはブリーフまでも持参してサインを求める生徒が連日押し寄せていたが、おそらく連中はサインをねだっている相手が恋人の妊娠騒動を金で揉み消そうとしているなんて、誰一人知らないはずだった。もし知ったら掌を返して太陽をいっせいに責め立てるのは目に見えていた。
そんな転がり方次第ではデビュー自体も吹き飛ばしかねない言わば“爆弾”の解体処理にあたっていたのは、当の本人ではなく彼を慕う幼馴染みだというのだから、世界は不条理と理不尽に満ちあふれていた。
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「ようやく解決の糸口が見えてきました!」と日比野さんはレンズの向こうで目を見開いて言った。
太陽を除く俺たちは、毎度おなじみ、秘密基地として利用している旧手芸部室で机を囲んでいる。棚には新たに唯の絵日記帳が飾られていた(結局姫井先生がまた俺の元に送り返してきたのだ)。まぁ言うなれば、この季節の“冒険の証”ということだ。
「しっかし、よくやるよねぇ」と柏木はカイロを手で揉みながら言った。「なんでもひとりで地道に足を使って、加藤さんの周辺を調べまわっていたそうじゃない? 今が一年でいちばん寒い時期だっていうのに」
「寒いなんて言ってられません!」日比野さんは熱く語る。「女の子を無責任に妊娠させたなんていう濡れ衣をいつまでも陽ちゃんに着せておくわけにはいかないんです。陽ちゃんの潔白を証明するためなら、たとえ火の中水の中でも、私は飛び込みますよ!」
「すげー」と月島は興味なさそうにつぶやいた。
高瀬だけは真剣に聞き入っていた。「さっき解決の糸口が見えてきたって言っていたけど、加藤さんが嘘をついているっていう決定的な証拠でもつかんだの?」
「残念ながらそこまでは」日比野さんは眼鏡をかけ直す。「というのも彼女、なかなか隙を見せなくて。そこで思いきって、ターゲットを変えてみたんです。みなさん、覚えてます? 彼女の父親のことを」
俺たちは深くうなずいた。目で耳で鼻でよく覚えていた。落伍者と呼ぶにふさわしいその退廃的な風貌。口汚く怒鳴りつけてきたその声。くらくらするほどの酒の匂い。忘れたくたって忘れられるわけがなかった。
日比野さんは言った。「あの父親からならば、何か手がかりが得られるんじゃないか。そう思って私は、彼のことを尾行調査しました。やはりお仕事らしいお仕事は何もしていませんでした。では昼間は何をしているのかというと、この前みたいにお酒を飲んだり、同じく無職の人たちと麻雀をして過ごしていました。そしてきのうのことです。彼は麻雀仲間のひとりと居酒屋に行きました。そこでとうとう、お酒の力も手伝ってか、重要なことを口にしたんです」
「居酒屋の中まで日比野さんも入ったの!?」と居酒屋勤務の俺はびっくりして聞いた。
「こんなこともあろうかと、変装用衣装も用意していたんです」彼女は人差し指を立てる。「きのうはしっかりレディーススーツを着てですね、『上司のセクハラがひどくて飲まなきゃやってられないOL感』を出していざ入店しました。そうは言ってももちろんお酒は飲みませんよ。飲むのは烏龍茶です。お腹がすいていたので串カツの盛り合わせも注文すると、私はターゲットのすぐ近くの席に陣取りました」
火の中水の中でも飛び込むのは厭わないのだから、たしかに居酒屋に飛び込むことくらい屁の河童かもしれない。
「二人の会話を録音してきました」と言って、日比野さんは机の真ん中に小型のボイスレコーダーを置いた。「みなさんも実際に聞いてみてください。『カトさん』と呼ばれている方が彼女の父親で、『ゲンさん』と呼ばれている方が麻雀仲間です」
俺たちは息をひそめ、耳をすました。居酒屋特有のがやがやとした喧噪のなか、ほどなく中年男特有の野太い声が聞こえてきた。
「ゲンさん、遠慮しないで好きなもんを頼みなよ。今日はオレのおごりだからさ」
「カトさん、最近やけに羽振りがいいけど、ひょっとしてまた釣れたのかい?」
「今度のは大物だぞ」とカトさんは声量を落として言った。「聞いて驚くな。釣れたのは、葉山家の坊っちゃんだ」
「葉山っつーと、あれかい、まさか、葉山病院の葉山かい?」
「そのまさかだよ、ゲンさん」下がったボリュームが、また上がった。「父親は天下の葉山病院の院長だ。金ならいくらでもある。逃した魚は大きいなんてことにならないように、坊っちゃんの口に針がついている今のうちに、搾り取れるだけ搾り取っておかないとな!」
「カトさん、アンタ、良い死に方しないぜ」
「大丈夫さ、何かあったら、葉山病院で治してもらう」
そこで二人はひとしきり笑った。その後でゲンさんが口を開いた。
「あのなカトさん。金を稼がなきゃいけないのはわかるけど、あんまり娘さんを困らせちゃいけないよ。あの子、よくできた娘じゃないの。トンビが鷹を生むとはまさにこのことだって、みんな言ってるよ」
「そうだよなぁ」とカトさんは言って、何か飲み物を――おそらくは酒を――あおった。「本当、オレにはもったいない子だよ……」
日比野さんはレコーダーの停止ボタンを押した。誰からともなく俺たちは顔を見合わせた。
「話を整理するね」と高瀬は言った。「加藤さんのお父さんは、娘を餌にして裕福な家の男の子を釣り出すと、妊娠したと因縁をつけて相手の家からお金を巻き上げていた。そういうこと?」
「そうとしか思えません」日比野さんは拳を握った。「親子ぐるみの狂言、です」
月島はうなずく。「口ぶりからすると、常習犯だね」
「ちょっと待って」柏木が口を挟んだ。「でもさ、妊娠検査薬はバッチリ陽性だったわけでしょう? それはどう説明するの?」
「そういうことか」いち早く合点したらしいのは、高瀬だ。「つい先週ね、お姉ちゃんの大学の友達がうちに遊びに来たの。前から顔なじみだから私も少しお話ししたんだけど、そのお友達が言うには『ちょっとした手違い』があって、去年、できちゃったんだって。就職活動にも差し支えるから結局産むことはなかったそうなんだけど、手術を受けるまでにね、妊娠検査薬を大量に買い込んで、その全部を検査済みに――つまり陽性に――したっていうの」
男の俺はすこぶる理解に苦しんだ。「何のために、そんなことを?」
「小遣い稼ぎ」と高瀬は冷ややかな声で言った。「私もびっくりしたんだけど、陽性反応の出た妊娠検査薬って、売れるんだって。そのお姉ちゃんの友達もインターネットで売りに出したら、けっこうな額に売値を設定したにもかかわらず、ひとつ残らず売れて儲かったって話していた。それを聞いた時は、いったいどこの誰が何の目的で陽性の妊娠検査薬なんかわざわざお金を出してまで欲しがるんだろうって思ったけど、これでやっとわかった。使い方次第では、簡単に元が取れるってことね」
「そういえばあいつ、検査薬が陽性になる瞬間は見てないんだよな」
俺は太陽の話を思い出す。彼女が検査薬を持ってトイレにこもっているあいだ、自分は部屋で待っていたと言っていた。
「わかってみれば簡単なトリックでしたとさ」月島が苦笑する。「どこからか陽性の検査薬をゲットした加藤さんは、それと同じ製品の検査薬を新品で買って、葉山家を訪れる。そして葉山君を部屋に一人残すと、トイレで検査するふりをして、新品はふところかどこかに隠して代わりに陽性の検査薬を取り出す。あとは深刻な顔をして、その検査薬を葉山君に渡せば、はい一丁上がり」
柏木が続く。「あの馬鹿、『やることやったのか』って聞いてみても、『酔っていてはっきり覚えてない』って言ってた。こうなると、おそらくお酒を勧めたのも、加藤さんってことだよね」
加藤さんと親しくしていた高瀬はうなだれた。「一ヶ月以上も妊娠したふりをするのって大変そうだけど、考えてみれば加藤さんって、演劇部員なんだもんね。お芝居はお手のものだ」
「要するにあいつは、またいいカモにされたってことだな」
俺は無意識に、呆れとも哀れみともつかないため息をついていた。太陽が女の子に騙されるのはこれが初めてじゃなかった。羽田星菜という中学時代の同級生に過去二度にわたって痛い目に遭わされていた。
柏木は俺の顔を見て、いたずらっぽく微笑んだ。
「もし悠介がお金持ちだったら、加藤さんに狙われたのは、悠介だったのかもねぇ?」
「人間不信が再発しそう」と俺は言った。
“いい人”と評判の加藤さんのもう一つの顔が明らかになっていくなか、高瀬は眉をひそめてバッグから何かを取り出した。それは例の高瀬と太陽が談笑している寿司屋の写真と、そして〈ユルサナイ〉と書かれた紙だった。どちらも以前、高瀬の家の郵便受けに入れられていたものだ。
「私にこういう嫌がらせをしていたのも、やっぱり加藤さんなのかな?」
「絶対そうだよ」柏木は頭から決めつける。「葉山君の本命が優里だと勝手に勘違いして、勝手に恨んでるんだよ。葉山家からお金をむしり取るために、ここまで手の込んだことをするような人だもん。これくらいのことは平気でやるでしょ」
「でも、なんのために?」当然の疑問を月島が口にした。「妊娠したと嘘をついて葉山家から大金をふんだくるのが目的なら、葉山君の本命が誰だろうが、たいして関係なくない?」
しばらく沈黙が続いた。やがて日比野さんが椅子から立ち上がった。
「そのあたりのことを確かめるためにも、今から私、加藤さん本人に直接会ってきます! 会って、しっかり話をしてきます! そこでみなさんにひとつお願いがあるのですが、神沢さんを貸していただけないでしょうか?」
「悠介を?」柏木が目をまたたく。「なんでまた?」
「私一人じゃ何かと心細くて。だってほら、相手はなにしろ、神社の石段で無防備な高瀬さんを後ろから突き飛ばすような人かもしれないわけで。やはり男の人が一緒だと安心です」
「たしかに」高瀬はうなずいた。「そういうことなら、遠慮なく神沢君を連れて行って」
柏木も首を振る。「男にしちゃ頼りないと思うけど、盾くらいにはなるから」
月島は俺を椅子から立たせた。「レンタル料は今だけ無料!」
日比野さんは三人に礼を言った。「そういうわけで神沢さん、準備をお願いします!」
「俺の意思は無視なのね」
とはいえ、日比野さんには唯のことで世話になった恩もあるし、無下にはできなかった。俺は高瀬から寿司屋の写真と〈ユルサナイ〉の紙を受け取ると、日比野さんとともに演劇部の控え室へ向かった。




