第78話 このままじゃ大人になれない 5
高校生活が再開して一週間が経った。
毎日が戦いだった冬休み中とは打って変わって、この一週間はこともなく穏やかに過ぎていった。大学入試までちょうどあと一年というなかなか重要なこの時期にあって、俺がふと考えてしまうのは、模試のことでも偏差値のことでもなく、血のつながらない8歳の少女のことだった。
唯は家で母親とうまくやれているだろうか。あるいは学校で他の子に馴染めているだろうか。頭に浮かんでくるのは、そのようなことばかりだった。そんなんだから、授業中もどこか上の空だった。バイト中も心ここにあらずだった。どこからともなく「パパ!」という無邪気な声がして、唯が背中に飛び乗ってくるような気さえした。
本当に「パパ!」という声がして、本当に誰かが背中に飛び乗ってきたのは、窓から雪の降る市街地をぼんやり眺めていた昼休みのことだった。ただし体重は唯の1.8倍はあり、髪の匂いもお子ちゃまシャンプーのそれではなかった。けれども俺はつい反射的に、その体を受け止めていた。
「パパの背中、あったかぁい」とその誰かは唯の真似をして言った。忘れちゃいけないけれど、ここは校内だ。自宅じゃない。二人組の女子生徒が俺たちを好奇の目で見てくすくす笑いながら、足早に通り過ぎていった。
「月島」と俺は言った。「頼む。恥ずかしいから、降りてくれ」
「ちぇっ、しけてんなぁ」彼女はしなやかに背中から降りた。そしてめくれたスカートの裾を直した。「時に神沢。その様子からするとキミはどうやら、唯ちゃんが実の親の元に帰ったことで、喪失感に襲われているようだね?」
俺は否定しなかった。否定したところで茶化されるのは目に見えていた。
「ま、父性愛に目覚めたなら、遠慮なく私に言いなさい。今度こそ血のつながったベイビーちゃんを産んでやるから」
月島は頬を赤く染めて拳で俺の肩を殴ってきた。
「痛いって」さいわい、まわりには誰もいなかった。「それで、俺に何か用か?」
「まぁね」と彼女は真面目な声で言った。それから俺の隣に来た。「お正月明けに私、こんな話をしたでしょ? もし一年以内に跡継ぎが見つからなければ、『月島庵』は今年限りで店をたたむことになった。だから実家のせんべい屋を立て直すという未来とは別に、地に足のついた〈もうひとつの未来〉を考えなきゃいけない、って」
たしかに話していた。いつまでも夢物語みたいなことは言ってられない、と。
月島は隣で現実的な声で続けた。
「それでさ、実はちょっとやりたいことが見えてきたもんでね。それをキミにも聞いてもらおうと思って、こうして来たの」
「やりたいこと」俺は耳をそばだてた。「聞かせてくれ」
月島はうなずいた。「きっかけは、唯ちゃんなんだよね。いや、正確に言えば、唯ちゃんの母ちゃんか」
「母親の風上にもおけない、あの人が?」
月島は苦笑して、すぐに表情をあらためた。
「あのお母さんが自分の子に何をしてきたか――何をしてこなかったか――それを踏まえれば、キミじゃなくたって誰しも非難の言葉を向けると思う。私もはじめはそうだった。でもさ、よくよく考えてみると、そうやってあのお母さんだけを集中砲火して悪者扱いするのも、なんだか違うんじゃないかっていう気がしてきたの」
「というと?」
「もちろんあのお母さん個人にも少なからず問題はあった。でもそれ以上に、この社会にも問題があるんじゃないかってこと。つまり、あのお母さん自身もある意味では私たちと同じように、“社会の被害者”なんじゃないか。そう思うようになってきたわけ」
中学時代に暴行未遂に遭って今でもその後遺症に悩まされている月島はともかく、自分もそう呼ばれるのは、なんだかむず痒くもあった。
「俺は社会の被害者だったのか」
「ある意味では」
「便利な言葉だ」
話を戻す、と月島は言った。
「キミも面と向かって話してみて感じたと思うけどさ、あのお母さん、決して馬鹿な人じゃないよ。いやむしろ、優秀な人だよ。もしそのまま夢に向かってまっすぐ進んでいれば、今頃きっと立派な新聞記者になって、世の中の役にたっていたと思う。でも子どもができたことで、とたんにあの人は社会の中で居場所をなくしちゃった。若いってだけで、シングルマザーってだけで、冷たい仕打ちを受けてきた。べつになにか悪いことをしたってわけじゃないのに。そんな世の中って、やっぱりちょっとどこかおかしいと思うのね」
俺は聞いているしるしに小さくうなずいた。
「あのお母さんのことを寄ってたかって責めるのは簡単。でもそうするだけじゃ何の解決にもならない。世の中が少しでも変わらない限り、またどこかであの人みたいに生きづらさを抱える親が出てくる。そして唯ちゃんみたいに寂しい思いをする子が出てくる。私はそう思う」
「未来から来たという子どもがあちこちで現れる」と俺は冗談まじりに言ってみた。
「それはあまり良い世の中じゃない」月島はシニカルに笑った。「まぁとにかく私は、例の事件に見舞われたせいで元々この社会のあり方みたいなものに関心があったんだけど、今回のことでよくわかった。私、社会の仕組みをしっかりじっくり学んでみたいの。どうすれば社会の被害者を出さないようにできるか、どうすればみんながもうちょっと生きやすくなるのか、そういうようなことを専門的にね」
「それがやりたいことか」と俺は素直に感心して言った。そしてあることに気がついて、はっとした。「待てよ。専門的に学びたいっていうことは、もしかして、大学を受けるつもりなのか?」
月島は左目をつぶってピースサインをした。
「まだ入試までは一年あるからね。まぁ、実家の様子もうかがいつつ、並行して受験勉強にも励むでござるよ」
意外なことに――と言っては彼女に失礼だけど――月島の成績は決して悪くなかった。社会系の科目のテストでは、常に学年上位に入っていた。
「ちなみに、どこの大学を受けるかもう決めているのか?」
月島は大学名に加えて学部名まで教えてくれた。そこは東京のある私立大学の、政治経済学部だった。著名な政治家を多数輩出している名門であることくらいは、受けるつもりのない田舎者の俺でも知っていた。そういえば月島の小さい頃の夢は内閣総理大臣だったな、と俺は思い出した。
「大隈さんのところか」と俺は言った。「ここが第一志望ってわけだな」
「いや、ここは、第二志望」
「第二志望? それじゃあ、第一志望はどこなんだ?」
「第一志望は、キミのとなり」
月島はまた頬を赤く染めて、また拳で俺の肩を殴ってきた。
「痛いって」
♯ ♯ ♯
家に帰るとその直後に郵便配達員が来て、俺に大小二つの封筒を手渡した。大きい方は速達郵便で、小さい方は現金書留だった。
我ながらいやしいなと自覚しつつも、俺はまず現金書留の方を開封した。なかには「その節は唯がお世話になりました」というクセのある筆跡の手紙と、折り目のない真新しい一万円札が数十枚入っていた。俺は一万円札の枚数を数えた。それは25日のあいだ唯の面倒をみるのにかかった費用を補ってあまりある額だった。
やはりあの母親もまったく常識がない人間というわけではないのだ。中に入っていたのがもしマカデミアナッツなら熨斗をつけて送り返してやったところだが、現金ならば話が別だ。養育費として、ありがたく受け取っておくとしよう。
次にもう一つの大きい方の封筒を開けようとしたところで、見計らったかのように電話が鳴った。忙しいな、と独り言を言いながら俺は封筒を脇に抱えて受話器をとった。電話をかけてきたのは、俺の元副担任で、唯の現担任だった。
「そろそろ愛娘の様子が気になる頃だと思ってね」と姫井先生は言った。「お父様?」
「やめてくださいよ」と受け流しつつも、気になるのは事実だった。俺は受話器に意識を傾けた。
「唯さん、見違えるように変わったのよ」と先生は声を弾ませて言った。「なんといっても表情が豊かになった。自然にいろんな表情を出せるようになった。まだぎこちなさはあるけれど、笑顔も見せてくれるようになったし。それに、自分から他の子に話しかけられるようにもなったの。まだ友達と呼べるような子はいないんだけれど、それでも他の子たちもそんな唯さんを少しずつクラスの一員として受け入れ始めているわ。言ってもまだ二年生のクラスだものね。みんな柔軟なのよ」
俺は立ったまま気を失うほど安堵した。「それはよかった」
「きっと悠介君、あなたのおかげね」
俺は苦笑した。「べつにたいしたことはしてないですよ」
「そうかしら?」
「唯が勇気をもって変わろうしたから変われたんです。俺は――いや、俺たちは、その背中を押してやっただけですよ」
「良い仲間に囲まれているようね」と先生は言った。「とにかく、そんなわけで新学期が始まって一週間になるけれど、今のところは順調と言っていいでしょうね。これといった問題もなく、唯さんは毎日元気に過ごしています」
「学校の問題が片付いたとなれば、あとは家の問題ですね」と俺は言った。「あの母親、ちょっとは変われたんでしょうか?」
それを聞くと先生はどういうわけか電話の向こうで小さく笑った。そして言った。
「それは実際に目で見てたしかめてもらった方が早いんじゃないかしら」
「目で見て? どういうことですか?」
「実はね、唯さんはあなたの元に、あるものを速達で送ったそうなの。そろそろ届く頃じゃないかしら」
俺は脇に抱えていた大きい封筒をあらためて手にとった。先生に断ってから受話器を置いて封を切り、中のものを取り出した。それは唯が冬休みのあいだ一日も欠かさずつけていた、あの絵日記帳だった。
そういえば、何が書かれているのか確認していないページがある。唯と過ごした最後の日――1月13日の日記だ。
〈1月13日 雪〉
今日は唯の8さいのたんじょうびでした。
タイヨーがラジオで唯のために歌を歌ってくれたり、みんながクラッカーやくす玉でいわってくれたりしたことがうれしくて、思わずないてしまいました。
唯はもっとわらわなきゃいけないとずっと思っていました。
この冬休みもニコニコすることを心がけてすごしてきました。
でもわらうことだけがだいじなんじゃない、だいじなのは自分の気もちに正直になることだと、さいごの日にみんなに教わりました。さいこうのたんじょうびプレゼントでした! みんな、ありがとう!
〈保護者のかたより〉
寂しい思いをさせてごめんね、唯。来年の誕生日は一緒に過ごそうね。
ママより
* * *
俺は受話器を再度手にとった。そして〈保護者のかたから〉の欄のクセのある字を眺めながら、「そういうことですか」と言った。
姫井先生は電話の向こうで満足そうに喉を鳴らした。
「短い文ではあるけれど、今までは一言も書いてくれなかったことを考えると、それはとても大きな進歩でしょう?」
俺はうなずいた。「たしかに、変わろうとしている証ですね」
「唯さん、あなたが心配していると思って、その絵日記帳を送ったのよ。お母様とうまくやっているとどうしても伝えたかったのでしょうね」
「伝えたかった気持ちは受け取りましたが……」俺にはひとつ気になることがあった。「この絵日記って、たしか冬休みの課題ですよね? こうして俺の元に送っちゃってよかったんですか?」
「問題はそこなのよ」と先生は言った。「その絵日記帳、実はさっそく来週の授業で使うの。『冬休みにこんな思い出を作りました』っていう発表会をクラスでするのね。だから悠介君。悪いんだけど、学校にそれを送り返してくれない? 『発表会までは手元に置いておいてね』って釘を刺しておいたんだけどなぁ。……これは唯さんの失敗ね」
送り返す手間を考えるとため息もつきたくなったが、俺はすぐに、まぁいいか、と思い直した。俺もそうやって自分の失敗の尻拭いを誰かにさせてここまで生きてきたのだ。
失敗して失敗して失敗して、そこから学んで、それでもまた失敗して。そうやってきっとみんな、大人になっていく。




