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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第二学年・冬〈決断〉と〈親子〉の物語
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第78話 このままじゃ大人になれない 4


 突如現れたゆいの母親に気を取られていたせいで今まで気づかなかったのだが、見れば家の前の道路には、紫色のミニバンがエンジンをふかした状態でまっていた。


 運転席には30歳前後のサングラスをかけたいかにも成金っぽい男が座っていて、やはり肌は遠目でもわかるほどこんがり日に焼けていた。この男が母親のハワイ旅行に同伴した“カレシさん”であると考えてよさそうだった。男は運転席の窓を開けて気怠そうにタバコの煙を外に吐き出していた。


 あの、と俺は唯の母親に声をかけた。「エンジンを止めるよう、言ってください。近所迷惑になるんで」


「なによ、さっさと唯を戻してくれれば今すぐ帰るわよ。私だって忙しいの。この後すぐ仕事なんだから」


「そうはいかないの」と柏木は仁王立ちして言った。「いくら実の親だからってね、25日間も子どもを放ったらかしにして男と海外に行っていた人に『はいそうですか』ってすんなり唯を渡せるわけないでしょう? お母さん、唯を渡す前に、あなたには厳しいことを言って聞かせなきゃいけない。この冬休みのあいだ唯と過ごしてきたあたしたちには、その資格がある」

 

 母親はバケツ三杯分くらいのため息をつくと後ろを振り返り、右手で車のキーを回す仕草をした。男は窓からタバコを路上に放り投げると、かったるそうにエンジンを止めた。


「手短にね」と彼女はこちらを向き直って言った。

「手短に済むかどうかはあなた次第です」高瀬がそう先陣を切った。「あのですね、お母さん。そもそもどうして、唯ちゃんをひとり残してこんなに頻繁に旅行へ行かなきゃいけないんですか?」


「息抜きよ、息抜き」と彼女は答えた。「あなたたちみたいな世間知らずの学生さんにはわからないでしょけどね、仕事と育児を両立させるのは大変なことなの。お勉強とクラブ活動を両立させるのとはわけが違うの。こっちは毎日クタクタなの。学生さんでさえ休暇があるんだもの、親にだって休暇はあったっていいでしょ?」


「それにしても、ものには限度があるじゃないですか。今回みたいにほとんど一ヶ月も家を空けるなんて、常識的に考えてもう息抜きの域を超えてますよ」


「しかもただの一ヶ月じゃない」月島が援護射撃する。「子どもにとっては心躍る日が目白押しの一ヶ月。12月25日はクリスマス。1月1日はお正月。そして今日1月13日は――ああそうだ、お母さん。ちなみに、今日が何の日か、ご存じでした?」

「馬鹿にしないでよ。唯の誕生日でしょう? それくらい知ってるわよ」


「知ってるなら、なんでハワイに行っちゃうんですか」と高瀬は言った。「そしてなんで当日の夕方まで帰ってこないんですか」


「これから家で、ちゃんと祝ってあげるっての」

「嘘」と高瀬は言った。「さっきご自身でおっしゃっていたじゃないですか。この後すぐ仕事だって」


「今年はたまたま仕事で祝えないけどね、去年までは――」

「嘘」と高瀬は言った。「実は今ちょうど、誕生日パーティの最中だったんです。唯ちゃん、うれし泣きしていましたよ。『こんなに祝ってもらえたのは初めてだ』って」


「うるさいなぁ、もう!」母親はハワイの土産みやげが入っている紙袋を放り投げた。「誕生日だからなんだって言うのよ! そんなの見方を変えれば一年365日あるうちのただの1日じゃない。クリスマスも正月もそう! しょうがないでしょう? 長い休みをとれるのがちょうどこの時期だけだったんだから。私はどうしてもハワイに行ってみたかったの。旅行に行っている時だけが仕事と育児の緊張から解放されてほっと一息つけるの。それともなに? 子どもを持つ母親はいっときたりとも休むなとでも言うの?」

 

 本性を現したな、と月島は冷静につぶやいた。


「ものすごく素朴な疑問があるんですが」高瀬は間を置いてからそう言った。「お母さん、唯ちゃんのこと、かわいくないんですか?」


「かわいいわよ!」と母親はまるで自分に言い聞かせるように言った。「かわいいからこそ唯を養っていくために、着たくもないイヤらしい服を着て、飲みたくもないまずい酒を飲んで、話したくもない馬鹿な男どもと話をしているんじゃない。もし私一人で生活しているなら、水商売なんかとっくにやめて他の仕事に就いているわよ」


「かわいいと思うなら、唯ちゃんにもっと愛情を注いであげてください」と高瀬は言った。「唯ちゃんにはまだまだ親の愛情が必要なんです」

 

 それを聞くと母親は、眉をひそめて高瀬の顔をまじまじと見た。

「あなた、さっきからおそろしいほど正論しか言わないわね。つまんない子ね。さてはきれいな顔をしている割には、男の子にもてないでしょ?」


「今は私の話をしているんじゃないんです!」高瀬は顔を真っ赤にする。「“つまんない”はまだしも、“もてない”ってなんですか! 撤回してください!」


「まぁまぁ。ここでかっかしたら、相手の思う壺」月島は高瀬の肩に手を置いてなだめると、入れ替わるように前へ出た。そして咳払いをしてから、落ち着いて口を開いた。


「女手ひとつで子どもを育てるの、大変ですよね。きっと私たちにはわからない苦労があると思います。でも、もうちょっと唯ちゃんに関心を向けてあげられませんか? 仕事が休みの日くらいは晩ご飯を一緒に食べるとか、たまには学校の行事に参加してみるとか。今のままだと正直、『かわいいと思っている』ようには見えませんよ。それどころか――はっきり言わせてもらえば少なくとも私の目には――唯ちゃんを『足枷あしかせのように思っている』ように映っちゃいます」


「たしかにそう映っても仕方ないかもね」母親は自嘲する。「足枷か。なるほど。なかなかうまいこと言う。あなた、賢いのね」

 

 ひどい、と高瀬はつぶやいた。

 

 月島は少し考える素振りを見せてから言った。

「もしかしてお母さん、なにか()があったんじゃないですか? 本当はやりたいことがあったけど、唯ちゃんが生まれたことでやむなく諦めたとか。違います?」


「あなた、賢いうえに鋭いのね」と母親は感心したように言った。「そう。私は小さい頃から将来はキシャになるのを夢見ていたの。キシャってわかる? 新聞記者ね」

 

 俺は唯から聞いた話を思い出した。

「テレビのニュースでわからないことがあるとね、ママはわかりやすく説明してくれるの」と唯は先ほど言っていた。新聞記者。なるほど。肩を故障してプロ入りが叶わなかったピッチャーが散歩中に少年野球を見てふと足を止めてしまうのと同じように、この人は今でも世の中の動向がどうしても気になってしまうのだ。


「わりと本気で目指していたのよ」と彼女は言った。「こう見えても高校生の時は新聞社主催の弁論大会で優勝したこともある。手前味噌だけど、成績も飛び抜けて良くてね。誰しもが認める優等生だった。もちろんそのまま大学に進学して、卒業後は東京の大手新聞社に就職するつもりだった。でもいよいよこれから受験勉強本番ってときに妊娠がわかってね。気づいたときにはもう産むしかなかった。それで記者になる夢は諦めたわ。今でも未練がないと言えば嘘になる。そういう意味では……そうね、私は唯のことを足枷のように思っているのかもしれないわね」

 

 彼女はゆっくり時間をかけて息を吐き出し、そして新しい息を吸い込んだ。


「言っておくけどね、私にだって良い母親になろうと思っていた時期があるのよ。高校時代に誰しもが認める優等生だったように、誰しもが認める素敵なママになろうと一生懸命がんばっていたの。でもね、社会がそれを許さなかった。知ってる? 若い母親ってだけでね、世間の風当たりはものすごく強いの。それがシングルマザーとなればなおさら。


 公園で唯を遊ばせている時にちょっとスマホで天気を調べただけでゲートボール中の年寄りどもに小言を言われ、バスの中で泣き止ませることができなければサラリーマンに舌打ちをされ、保育園で他の悪ガキに作られたかすり傷を医者に見せれば虐待を疑われ。


 要するに私のことをみんな色眼鏡で見てるのよ。どうせろくな母親じゃないんだろうって。それでもそういう冷たい目に耐えながらなんとか踏ん張ってきたけどね、ある日、何かが私の中で音をたてて切れちゃったの。プツンって。それで思った。ああ、このままだと私、いつか壊れちゃうって。それからよ。唯とはちょっと距離を置いて、自分の時間をつくるようになったのは。


 最低の母親とでもなんとでも言いなさいよ。誰が何を言ったって唯の面倒をみるのは私しかいないの。そしてその私が壊れたら唯も終わりなの。これがこの社会における私の育児のやり方なの」

 

 何かを言うべきなのだろうけど、俺は何を言えばいいかわからなかった。そしてそれは他の三人も同じようだった。そんななか口を開いたのは――真打ち登場と言ってもいいかもしれないけれど――これまで沈黙を守っていた柏木だった。


「あたし、あなたのことを誤解してたみたい」そう彼女は切り出した。「てっきり根っからどうしようもない『最低の母親』だと思ってた。でも違ったんだね。唯のためにいろんなものと戦ってきたんだね。でもね、お母さん。ひとつ勘違いしていると思う。きっとさ、親って誰からも認められるような存在じゃなくていいんだよ。親は()()()()()()()()()()()()()の。誰も認めてくれなくたって、子どもはちゃんとわかってる。自分のためにがんばってくれてるんだなって。その証拠に唯は言ってたよ。『ママのことが大好き』だって。お母さん、変わらなきゃ。あなたなら、変われるよ」


「変わるって言ったって、何から始めたらいいか……」

 

 柏木は少し考え、閃いたように手を叩いた。

「そうだ。今からもう一度、新聞記者を目指せばいいじゃない」


「はぁ?」

「はぁ? じゃないよ。小さい頃からの夢だったんでしょう?」


「それはそうだけど」母親は頭を大きく振った。「そんなの無理よ。私のこと、いくつだと思ってるのよ。今年で26よ。そのうえ子どもまでいるっていうのに。26歳の子持ちが一から新聞記者を目指すなんて話、聞いたことがない」


「26歳のお母さんが新聞記者になっちゃいけないなんて誰が決めたの?」と柏木は言った。「夢を目指しちゃいけないなんて誰が決めたの?」

 

 とたんに母親は口ごもってしまった。柏木はしばらく反応を待っていたが、やがてしびれを切らしたように「なぁんだ」と言った。


「しょせん、その程度の夢だったんだ。言っておくけどね、かんたんに叶う夢なんてないんだよ。どんな夢だって叶えるためには壁を乗り越えなきゃいけないの。これから先もずっとそうやって夢が叶わなかったのを何かのせいにして生きていくんだ? 唯を足枷だと思いながら育児していくんだ? へぇ。なんだか残念な人生。本当に叶えたい夢なら、何があっても諦めちゃだめだよ。今ならまだ間に合う。ここで諦めたら、絶対にいつか後悔する!」

 

 俺が忘れちゃいけないのは、かく言う柏木自身が小さい頃からの夢を諦めたばかりだということだった。“未来の君”の秘密を知った彼女は、世界一幸せな家庭を築くという夢を諦めたのだった。


 柏木はいったい何を思ってこの台詞を口にしたのだろう? 

 

 唯の母親に対してというよりはむしろ、自分自身に対して厳しいことを言って聞かせたように思えるのは、果たして、俺の考えすぎなのだろうか?


 俺たちの言葉が果たしてどれだけ唯の母親の心に届いたかはわからないけれど、この寒空の中、いつまでも彼女を戸口にとどめておくわけにもいかなかった。なにしろこの女はハワイから帰ってきたばかりなのだ。風邪でもひかれちゃ困る。

 

 俺たちは唯の元へ行くと母親が迎えに来たことを伝えて、身支度するよう促した。唯は素直にリュックサックとキャリーケースに持ち物を詰め込み、コートを着てマフラーを巻いた。そうして出発の準備が整うと、別れを惜しむように俺たちの顔を見渡した。


「さらばだねぇ」と月島は言って唯の頭を撫でた。「いい、唯ちゃん? コンビニのお弁当や宅配ピザに飽きてどうしても手作りのご飯が食べたくなったら、いっそ自分で作っちゃえ。クリスマスにプレゼントした調理器セットと私が教えたレシピがあれば、意外とかんたんに作れるから。いっぱい食べて、大きくなるんだよ」

 

 いっぱい食べて大人になる! と唯は言った。「ありがとう、涼ママ」

 

 月島はひょうきんに肩をすくめて指を振った。「もう私たちのことをママって呼んじゃだめ。あなたのママ(・・は世界でひとりだけ。そうでしょ?」

 

 唯ははっとしてうなずいた。そして「ありがとう、涼ちゃん」と言い直した。

「うん、それでよし」

 

 柏木が続いた。「学校でもしイジワルなことを言ってくる男子がいたら、あたしが教えたプロレス技をかけて黙らせちゃいなさい。泣き寝入りだけはしちゃダメだよ。強くなりなさい」

 

 コブラツイスト! と唯は言った。「ありがとう、晴香ちゃん」

 

 次に日比野さんが口を開いた。「学校のお友達とうまくいかないことがあった時は、私が教えたおまじないを心で唱えるといいよ」

「おまじない?」と俺は聞き返した。


「ええ。人間関係で疲れた時によく私が思い出す外国の詩があるんです。この詩を口ずさむと、心がふわっと軽くなるんですよ。その詩を唯ちゃんでもわかるように、意訳して教えてあげたんです」


「わたしはわたしのことをするよ。あなたはあなたのことをするよ。わたしはあなたの期待にこたえるために生きているんじゃないよ。あなたもわたしの期待にこたえるために生きているんじゃないよ。わたしはわたし。あなたはあなた。わたしたちが出会えるなら素敵なことだね。でも出会えなくても素敵なことだね」

 唯はつっかえながらもきちんとそう言い終えて、日比野さんとハイタッチした。

「ちゃんと覚えた! ありがとう、まひるちゃん」

 

 おまじないの途中から急に焦りだしたのは、高瀬だ。

「私、みんなみたいに唯ちゃんの役にたつようなこと、何も教えてあげられていない」


 唯はこの25日間を思い出すように考えてから、手を叩いた。「今の唯にはちょっと難しくて何のことかよくわからないけれど、いつか役に立ちそうなこと、優里ちゃんからひとつ学んだよ」

「えっ、そうなの?」高瀬の目は輝いた。

 

 唯はまっすぐうなずいた。そして言った。

「将来をヤクソクした人に裏切られるようなことがあったら、ちょん切っちゃえばいいんだよね!」


「よりによって、それ!?」高瀬の目は濁った。「それ、全然役に立たないから! ていうか、そんなこと、覚えてちゃいけない。唯ちゃん、お願いだから、忘れて!」

「わかった、忘れる!」

 

 私も日比野さんみたいに外国の詩とか教えて格好良く終わりたい! と言って取り乱す翻訳家志望をなだめるのは三人に任せるとして、俺は唯と目線を合わせるべく、しゃがみこんだ。出会った頃に比べれば、心なしか少し背が伸びたようにも思えた。

「俺は唯のためになること、何か教えてやれたかな?」


「大丈夫」と唯は言った。「あんまりパッとしないパパみたいな人でも、がんばればこんなに素敵なお友達ができるってことを教わったよ。だから唯、がんばる」

 

 俺は感心した。「最後まで口が減らないやつだ」

 

 唯はいたずらっぽく笑った。「ねぇパパ、おんぶして」

「なんでこの流れでそうなるんだよ」

「おんぶしてったらおんぶして」

 

 仕方がないので俺は反転すると背中を唯に差し出した。するとワガママ娘は躊躇なく背中に飛び乗ってきた。いつまでこうしてりゃいい? と俺が立ち上がって尋ねると、唯がもういいって言うまでと返ってきた。唯はなかなか「もういい」とは言わなかった。


 そのうち俺は、唯に関する疑問がひとつ残っていることを思い出した。背中に重みをたしかに感じながら、それを口にした。

「そういえば、どうして誕生日が今日だってことを、ずっと黙っていたんだ?」


「何度も話そうと思ったよ」と唯は背中で言った。「でもそのことを話したら、唯が未来から来たんじゃないってことがバレちゃう気がして」


「それは、どういうことだ?」


「冬休みのあいだ、このおうちで過ごすよう唯に勧めたのは、20年後のパパだって言ったでしょう? でもジッサイにパパと暮らしてみて感じたの。この人は娘の誕生日がある冬休みに時間旅行を勧めたりしない、きっと一緒にいて、8歳の誕生日をとっても祝ってくれるはずだって。それで話せなくなっちゃったの。そして本当にパパはとっても祝ってくれた。最高の誕生日だった。唯、今日のことは忘れないよ」

 

 俺は何も言うことができなかった。やがて唯は「もういいよ」と言って背中から降りた。俺が振り返ると、そこには、他人行儀な目でこちらを見る一人の少女がいた。


「姫井先生から聞いて知っているかもしれないけど、本当のお父さんは唯が小さいときにいなくなっちゃって、ほとんど顔も覚えていないんだ。だから、一度でいいからお父さんに甘えてみたかった。運動会の昼休みとかでお父さんにワガママ言っておんぶしてもらっている子を見ると、羨ましくて仕方なかった。それでパパにはこれまでいっぱいワガママを言っちゃったんだ。困らせちゃってごめんね、パパ」そこで唯は首を横に振った。「もうパパって呼んじゃだめだよね。ごめんね、おにいちゃん・・・・・・

 

 おにいちゃん。


 それは本来しごくまっとうな呼び名であるはずなのに、俺の耳には、ちっとも馴染まない。


 ♯ ♯ ♯


 唯を連れて玄関まで戻ると、母親は“カレシさん”と何やら話し込んでいた。どうやらカレシさんは待ちくたびれて、車から降りてきたらしかった。彼は野球帽を後ろ前逆にかぶり、首から金のネックレスをさげていた。


「お母さん」と柏木が唯の手を引きながら言った。「いろいろ話したけどさ、いちばん伝えたかったのは、唯を大事にしてあげてってこと。『唯』って名前はお母さんがつけたそうじゃない。この名前には、ただひとりの大事な存在っていう意味を込めたんじゃないの? そんなつまんない男の代わりはいくらだっているけどね、唯の代わりはどこにもいないし、唯にとってもあなたの代わりはどこにもいないの。だから大事にしてあげて」


「今なんつった、コラ」とすごみを利かせるカレシさんを制したのは、唯の母親だった。彼女はカレシさんと二言三言言葉を交わすと、前の道に駐めてあったミニバンのトランクから荷物をおろし、またこちらに戻ってきた。


 カレシさんはぶつぶつ何かを吐き捨てながら一人で車に乗り込むと、ジャンボジェット機のエンジンでも積んでいるのかという気がするほどの轟音を残し、どこかへ走り去って行った。


「帰しちゃってよかったんですか」と高瀬が耳をおさえながら聞いた。

「通りまで出てタクシーでもつかまえるわよ」と母親はぶっきらぼうに言った。そして柏木に代わって、唯の手を引いた。「さぁ唯、帰るわよ」

 

 二人の姿を見届けるために、俺たちも靴を履いて外に出た。空にはいつしか細かい雪が舞い始めていた。二人は街灯が照らす冬の住宅街をゆっくり、しっかり進んでいった。手をつないで、歩幅を合わせて。



「あーあ、行っちゃったねぇ」柏木は大仕事を終えたように背伸びをした。

「あのお母さん、大丈夫かな?」高瀬は気を揉んだ。

「変わろうとはしてるんじゃないですか」と日比野さんは言った。「カレシさんを一人で帰して、こうしてさっそく唯ちゃんとふたりだけの時間を作ったわけですから」

 

 月島はうなずいた。「ママンとのやりとりを一から思い返してみれば、どうも、柏木の言葉がバッチリ効いたみたいね」


「そうそう」高瀬は手を叩く。「特にあれだよね、たしかええと『親はヒーローじゃなくたっていい』ってやつ。あのセリフは後ろで聞いている私も痺れたなぁ。あのあたりから風向きが変わったよね。()()()()()()()()()()()()()、か。なるほどな。晴香、よくそんな言葉が出てきたね?」


「ま、まぁね」柏木は得意げに鼻を鳴らす。「ほら、あのお母さん、『一人でがんばらなきゃ』って気負いすぎてた部分があったじゃない? それで『この人はどんな言葉をかけてもらいたいんだろう?』って考えていたら、自然と口をついて出てきたっていうか。あはは……」

 

 この女はさも自分の手柄のようにのたまっているけれど、その言葉は唯を診てくれた女医さんの完全なる受け売りだった。そのことを高瀬も月島も日比野さんも知らなかった。彼女はそのことを知っている俺とは目を合わせず、他の三人から賞賛を浴びて、悦に入っている。


 まぁ唯の母親の心に変化が生じたとしたら、柏木が最大の功労者であることは否めないわけで、今日のところはそれに免じて、種明かしはしないでおいてやろう。

 

 前方で夜道を着実に進んでいた二人が立ち止まったのは、あと何歩かで曲がり角にさしかかるというその時だった。何を思ったか唯は母親から手を離すと、こちらを振り返り、そのまま両手を拡声器のように広げた。そして叫んだ。


「やっぱり、おにいちゃんって感じ、ぜんぜんしないや! パパはパパだよ! あのねパパ! パパの背中、とってもあたたかかったよ! ありがとう! 元気でね!」


 またいつでも遊びに来いよ。本当はそう叫びたかったし、実際、喉元までその言葉が出かかっていた。でもあの子が俺に会いに来た背景を考えれば、唯のパパとして最後にかけてやるべき言葉は、それじゃなかった。


 俺は腹に力を込めて、思いっきり声を出した。

「唯! もううちには来ちゃだめだぞ! 元気でな!」

 

 唯は何度かその場で飛び跳ねて大きく手を振った。そして再び母親と手をつなぐと、二度と振り返ることなく曲がり角の向こうへと消えていった。

 

 唯の姿が完全に見えなくなると、とたんに目の奥が熱くなってきた。嘘だろ、と俺は思った。おいおい冗談だろ、と。でもそれは嘘でも冗談でもなかった。俺は本当に実際に感極まっていた。


 冷やかされるのは御免なので俺は平静を装って後ろを向いた。すると目ざとく月島がそれに気づいて、顔を覗き込んできた。

「あれれ? 神沢。ひょっとして、泣いてるの?」

「泣いてないよ」と俺は言った。

 

 月島は手を伸ばして俺の目尻を拭った。「それじゃあ、これはなに?」

「雪だよ。雪が溶けたんだ」


「へぇ。キミの上空だけ、大雪が降ってるんだ」


「うるさいなぁ、もう」俺は諦めて向き直った。「というかみんな、よく泣かないでいられるな」

 

 高瀬は苦笑した。「私たちは神沢君とは違ってあくまで『代理のママ』ってことで、一線を引いて接していたからね。もちろんお別れは寂しいけれど」

 

 柏木は呆れる。「しっかし悠介ってこういう時にホントよく泣くよね。普段は誰よりもすましているくせして、誰よりも涙もろいんだから」

 

 月島はうなずいた。「将来、娘の結婚式で感謝の手紙とか読まれておいおい男泣きするタイプだよ」

 

 娘のことをくれぐれも頼んだよ。わかってますお義父とうさん。そんな調子で柏木と月島がくだらん小芝居を繰り広げていると、日比野さんが無言でさりげなくハンカチを手渡してくれた。いい人というのは、こういう人のことを言うのだ。


「あーっ!」と柏木がすっ頓狂な声を発したのは、俺がちょうど落ち着きを取り戻した時だ。「あたし今、大変なことに気づいちゃったんだけど」

 

 月島は驚く。「どした、急に」


「唯の冬休みが今日で終わりってことは、あたしたちの冬休みも今日で終わりってことだよね?」


「そうですよ」と日比野さんは当然のように言った。「明日からは私たちも三学期ですよ」

 柏木は青ざめていた。「あたし、冬休みの宿題にまったく手をつけてない」


「なんでだよ」と俺は言った。


「だってしょうがないでしょう? この冬休みは“ママ業”で精一杯で、宿題のことまで気が回らなかったんだから。困ったなぁ。あたし一人じゃどうしようもないなぁ……」


 真っ先に危険を察知したのは、月島だ。「私たちも明日の準備があるし、そろそろ帰りますか」


 はっとして高瀬も続いた。「そうだね。新学期そうそう、遅刻しちゃいけないし」


「待ちなさい」と言って柏木は背後からふたりの首に腕をまわした。「今夜は長くなりそうだよ、先生(・・たち?」


 柏木の言う先生たちには、もちろん俺も含まれていた。


 小さい子どもの世話がようやく終わったと思ったら、どうやら今度は、大きい子どもの面倒をみなきゃいけないようだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] かつて柏木は女医の母親の話を聞いて、 「親は子どもを守るために、いろんなものとたたかい続けなきゃいけないんだ」 と言いました。 今回、唯の母親もたたかっていたことを知り、"母親"の実像をよ…
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