第78話 このままじゃ大人になれない 3
三人のママと日比野さんが買い物から帰ってきて、お別れパーティを装った誕生日パーティが始まった。
誰かがうっかり口を滑らせて誕生日のことを言ったりしないか。
天井に密かに設置したくす玉が何かの拍子で割れたりしないか。
ろうそくが8本刺さったケーキの存在に唯が気づきやしないか。
心配事は尽きず俺は気が気ではなかったが、さいわい何事もなく午後の三時を迎えることができた。この午後三時こそが“サプライズ”の始まる時間だった。
いつかみたいに唯の目覚まし時計が鳴った。いつかみたいに「どうしたこんな時間に」と俺は言った。「昼寝でもするつもりだったのか?」
いつかみたいに唯は首を横に振って、アラームを止めた。
「お別れパーティの最中にごめんね。あのね、タイヨーにお願いされてたの。今日もラジオに出るから聴いてくれよなって」
「そうだったのかぁ」俺はしらじらしく相づちを打つと、やはりいつかみたいに年季の入ったポータブルラジオを持ってきて、居間のテーブルに置いた。そして“何も知らない”という顔をして周波数を合わせた。
「タイヨーは唯のダチだからな。ダチのお願いは聞いてあげないとな」と言って唯は耳をすました。
太陽はもちろん今回も、所属する四人組バンド『north horizon』の一員としてその地元FM番組に出演していた。前回同様、DJとのトークを軸に番組は進行していく。ファンでなければ明日には忘れているような当たり障りのない会話がしばらくなされた。ファンでなければあくびが出そうな頃になってDJはあらたまった声色で「さて」と言い、すべてのリスナーの注意を引きつけた。
「さて、そろそろ曲紹介に参りたいのですが、なんと今日は未発表曲を披露されるそうですね? そしてこのスタジオで生演奏してくださるとか。さらに歌うのはドラムスの葉山さんらしいじゃないですか!」
唯は目を見開いた。「すごいよみんな! タイヨーが歌うんだって!」
本当に驚くのはこれからだ、と思って俺は忍び笑いした。三人のママと日比野さんも顔がほころんできた。やがてギターのチューニング音と共に聞こえてきた太陽の声は、いつになく緊張していた。
「オレには最近知り合ったばかりの友達がいるんですけどね。そいつはちびっこいのに生意気でねぇ。年下のくせしてオレのことを一丁前に呼び捨てにするんです。タイヨーって。でもねぇ、憎めない奴なんですよ。友達思いの、良い奴なんです。オレが落ち込んでいると笑顔で元気づけてくれてねぇ。あの笑顔には救われたなぁ。そんでもって今日1月13日はね、その大事な友達の誕生日なんですよ」
「えっ?」と唯は今まで出したことのない声を出し、今まで見せたことのない顔をした。
電波の向こうの太陽は、まるでそれを見ていたみたいに一呼吸置いた。そして言った。
「ちょいと事情があって、その友達とは今日でお別れなんです。短いあいだだったけど世話になったことだし、これから先も元気でやれよっていう意味合いも込めて、歌でそいつの誕生日を祝ってやろうと思いましてね。オレたちが誰か一人のために曲を作るのはこれが最初で最後でしょうね。それでは聴いてください。『バースデイ・プレゼント』」
* * *
「ユイ坊のために曲を作れだぁ!?」
さかのぼること四日前、姫井先生との面談によって唯の素性を知った俺は、その足で太陽の自宅に向かった。そして唯にとって1月13日を思い出に残る一日にするべく、彼に協力を求めた。
「頼むよ」と俺は呆気にとられる太陽に言った。「13日はちょうどまたラジオにゲスト出演するんだろう? これもきっと何かの縁だ。ラジオの生放送を聴いていたら、ミュージシャンのダチが自分の誕生日を祝うオリジナルソングを歌ってくれる。こんな最高の誕生日はないだろ。頼むよ。おまえにしかできないことなんだ」
「待て待て待て」太陽は髪をかきむしった。「簡単に言うけどなぁ、いいか? 聞くに堪える曲を一曲作り上げるっつうのは、大変なことなの。ミキサーに果物をぶちこんでスイッチ一つでジュースを作るのとはわけが違うの。しかも制作期間は正味三日しかないと来てやがる。無理無理無理。だいたい悠介。おまえさんだって、曲作りの大変さは身にしみてわかってるだろ?」
一年生の夏にこいつにやらされて嫌というほどわかっていたが、かといって引き下がるわけにはいかなかった。
「そこをなんとか。唯をあっと驚かせて、一生忘れられない誕生日にしてやりたいんだよ」
「それならみんなで小遣いを出し合って、一生残るようなモノを何かプレゼントしてやりゃいいじゃねぇか」
「モノじゃだめなんだよ」と俺は言った。「唯に本当に必要なのは、モノじゃなくて心が震えるような――心から笑顔になれるような――体験なんだ。唯のやつ、子どもながらに『自分は変わらなきゃ』と思ったみたいでさ、勇気を出して、隣の町からわざわざうちに来たんだよ。小学二年生の子にとっちゃ大冒険だ。その大冒険の最後に心が震えるような体験をさせてやって、『勇気を出して一歩を踏み出せば何かが変わる』っていう実感を持たせてやりたいじゃないか。そのためには、いいか太陽。ダチであるおまえの協力が不可欠なんだ。な、頼むよ」
「ユイ坊がひでぇ環境で育ってきたことはかわいそうだと思うし、同情もする。だがそれとこれとは話が別だ。悠介もよく知っているように、今『north horizon』はメジャーデビューできるかどうかの瀬戸際にある。バンドを組んで以来、今が最大の正念場だと言っても過言じゃねぇ。そんな大事な時に、呑気にがきんちょの誕生日を祝う曲なんか作っていられるかよ!」
俺としても、太陽がそう簡単に願いを聞き入れないであろうことは、想定の範囲内だった。なので、ふぅん、とわざとらしく言って、用意していたセリフを口にすることにした。
「加藤さんの件で誰もおまえに協力しようとしないなか、ひとりだけ手を挙げて『友達が困っていたら、助けてあげなきゃ』って勇敢に言ったのは誰だっけ?」
太陽はうろたえた。「卑怯だぞ、悠介」
「誰だっけ?」
「ユイだよ、ユイ坊!」
「その健気なユイ坊は、きっと四日後の生放送も、ダチが出演するってことで一言たりとも聞き逃すまいとラジオにかじりつくんだろうなぁ……」
太陽の目は左右に大きく揺れた。もう一押しだ、と俺は確信した。
「クリスマスの飾り付けをしている時、たしかおまえ、ビートルズを引き合いに出してこんなようなことを言ったよな。『オレは愛と平和を歌う。オレの音楽は世界中の人たちの心に届くはずだ』って」
「たしかに言ったが、それがどうした」
「おまえのことを唯一の友達だと思っている女の子ひとりの心も動かせないのに、言葉も文化も違う世界中の人の心を動かせるのかな?」
「悠介君。キミという男は本当に悪い奴だ」
「なんとでも言え」俺は開き直った。「どうすんだ、やるのか、やらないのか?」
太陽は歯ぎしりしながらしばし考え、やがて言った。
「学校で腹が減った時、おまえさんの食っているパンに無条件でかぶりついていい権利5回。それで手を打とう」
「そ、それは多すぎる。3回だ」
* * *
そのようにしてよくわからん権利と引き換えに太陽が作り上げた『バースデイ・プレゼント』は明るく軽やかなポップ調でありながら、どことなく感傷的なメロディが印象深いあたたかみのあるバラードだった。
俺のリクエスト通り、歌詞の中には『大人になれる』『ひとりじゃない』『笑顔がいいね』というような言葉が適所に盛り込まれていた。掛け値なしで良い歌だった。たった三日で完成させたなんてちょっと信じられなかった。
無茶に思えた注文でも引き受けた以上はこうしてしっかりそれに応えてみせるのだから、俺と唯のダチにはミュージシャンの才能があると言っていいらしい。
そして肝心の唯はといえば、身じろぎひとつせずポータブルラジオの前に座って太陽の歌声に聞き入っていた。その背後で俺たちもそれぞれの役割を果たすべく、目配せして唯を祝う準備を密かにはじめた。
電波の向こうで約四分の熱唱を終えた太陽が「それではパーティ会場にお返しします」と言ったのを合図に、俺たちは一斉にクラッカーを鳴らし、そしてくす玉を割った。
唯ははっとしてこちらを振り返った。そしてまず俺たちの顔を順に見ると、次に顔を上げてくす玉の垂れ幕を確認した。そこには「唯ちゃんお誕生日おめでとう!」と書かれていた。それでようやく彼女は、太陽の歌に始まった一連の出来事の意味を理解したらしかった。
これだけやればとびきりの笑顔を見せてくれるだろう。そんな俺の目論見は見事に外れた。唯は笑わなかった。笑うどころか顔をくしゃくしゃにして肩を震わせ、そのまま泣き始めた。唯は声をあげて泣いた。それはクリスマスの時に見せたような嘘泣きなどではなかった。唯の目からは本物の涙がこぼれていた。まったく予想していなかった事態に、俺たちはひどく慌てた。
「どうしたの唯」柏木がすかさず寄り添う。
「びっくりしちゃった?」月島は鼻眼鏡を外す。
「もしかして怖かった?」高瀬は唯の頭の紙テープをとる。
「違うのうれしかったの」と唯は泣きじゃくりながら言った。「こんなに誕生日を祝ってもらえるの、初めてだったから。ねぇ、どうして、今日が唯の誕生日だって知ってたの?」
「20年後のパパから電話が来たみたいだよ」と日比野さんは機転を利かせて言った。「1月13日は唯ちゃんの誕生日だから、祝ってあげてって」
それを聞くと唯は前にも増して激しく泣いた。そのあいだ、柏木が本当の母親のように唯の肩を抱き続けていた。
唯がまともに喋ることができるようになったのは、それから15分後のことだった。静まりかえったパーティ会場の真ん中で、唯はぼそっとこう言った。
「帰りたくない」
俺は唯の目線に合わせて腰を下ろした。
「なぁ唯。でも、今日で未来に帰らなきゃいけないんだろ?」
「帰りたくない」と唯はそれには答えず、繰り返した。そして赤く腫らした目で俺たちの顔を見た。
「みんな、もうわかってるんでしょう? 唯が本当は、未来から来たんじゃないってこと」
俺たちは無言で顔を見合わせた。やがて高瀬が五人を代表するように唯にやさしく声をかけた。
「ねぇ唯ちゃん。どうしてそう思うの?」
「唯だってばかじゃないもん。みんなの話し方や顔つきとかでなんとなくわかるよ。もう全部ばれてるんだなって。四日前くらいからみんな様子が変わった。とくにパパが一番変わった」
四日前。それはちょうど俺たちが唯の正体を知った日だった。
「だってよ、神沢」と月島が耳元でささやいた。「で、どうするの?」
これ以上騙されたフリをし続けるのは、どうやら不可能なようだった。俺は腹を決めて、担任の姫井先生と会って話をしたことを唯に正直に打ち明けた。
「そうなんだ」と唯は気恥ずかしそうに言った。そして居住まいを正した。「みんな、本当にごめんなさい。ずっと嘘をついていて」
「いいのいいの!」柏木がすぐになだめる。「謝ることないって。唯はなんにも悪くない。なぁんにも。そうだよね、みんな?」
俺たちはうなずいた。悪いのは母親だ、と言いたげに柏木は眉をひそめた。
日比野さんは言った。「唯ちゃん。帰りたくないっていうのは、やっぱり、おうちに帰りたくないってことなのかな?」
「もうひとりぼっちはイヤ」と唯は答えた。「ここでずっと、大好きなみんなと一緒に暮らしたい。ここなら、ひとりにならなくて済むもん」
現実的に考えてあいにくそれは、俺たちがどう力を尽くしても叶えてやることのできない種類の願いだった。柏木の顔にはあからさまに怒りが滲んできた。怒りの対象はまだ小学二年生の一人娘にここまで言わせている母親であることは明白だった。
「ねぇ唯」と柏木は声を押し殺して言った。「もしよかったら、唯とお母さんのこと、あたしたちにくわしく聞かせてくれないかな?」
「うん、わかった」
唯は呼吸を整えてから、じっくり時間をかけて語った。
母親はこの冬休みのあいだ、『カレシさん』と一緒にハワイへ行っていること。明日からまた母親との二人暮らしが再開するが、水商売という仕事柄、夜のほとんどの時間を家でひとりで過ごさなきゃいけないこと。
仕事が休みの日も母親は友人やカレシさんとどこかへ遊びに行ってしまうこと。母親ともっと一緒にいたいこと。母親ともっと話がしたいこと。一緒にご飯を食べたいこと。参観日に来てほしいこと。行事に参加してほしいこと。それでも決して母親が嫌いなわけではないこと。あくまでもひとりぼっちになるのが嫌なだけなこと。〈唯〉という名は母親がつけてくれたこと――。
ママのことは大好きだよ、と唯は強がるでもなく言った。
「ジマンできるママだよ」
「お母さんの、どういうところが自慢できるの?」と高瀬は尋ねた。
「物知りなところ!」と唯は誇るように答えた。「ママはすごいんだよ。テレビのニュースで唯がわからないことがあるとね、わかりやすく説明してくれるの。〈いんふれ〉はものの値段が上がって、〈でふれ〉はものの値段が下がるんだよね」
俺が思い描いていた母親のイメージからすると、それはにわかには信じがたい話だった。しかしこの期に及んで唯がでたらめを口にするとも思えず、事実インフレデフレを正しく理解していることも併せて考えると、どうやら唯は本当のことを言っているらしかった。ママのことは大好きだよ、と唯は再び言った。
家のチャイムが鳴ったのは、それからすぐのことだった。チャイムは一度だけではなくあろうことか三度鳴った。俺は時計を見た。針は五時ちょっと過ぎをさしていた。
この時間帯に来客の予定はなかったはずだが、そのチャイムの鳴り方からするとどうやら、玄関の外に立っているのはうちに何かしら明確な――それも急ぎの――用がある人間であるようだ。宗教の勧誘員や新聞の営業マンは晩飯前の時間に三度もチャイムを鳴らしたりしない。
なんとなく嫌な予感を覚えた俺は五人に居間から出ないよう言い残すと、立ち上がってひとりで玄関に向かった。そしておそるおそるドアを開けた。
そこには、まったく面識のない大人の女が立っていた。女は20代中頃で背が高く、香水の甘い匂いをまとわせていた。いかにも男受けしそうな、きれいな女だった。手には洒落た紙袋を提げていた。彼女を見て俺が鼻の下を伸ばさなかったのは、この女の正体がすぐにわかったからだった。手がかりになったのは、嫌でも目につく季節外れの日焼け跡だ。それはどんな日焼け跡かと問われれば、たとえば、常夏の島に一ヶ月ばかり滞在していた人の肌にできるような日焼け跡だった。この真冬の北国で普通に暮らしていたら、そんな見事な日焼けはまずできない。
目の前の女が唯を産んだ実の母親であることに、疑いの余地はなかった。
「ここが神沢さんのお宅で間違いない?」と女は悪びれる様子もなく言った。
ええ、と俺は言った。
彼女は言った。「唯がここにいると姫井先生に電話で聞いて来たんだけれど」
いますよ、と俺は言った。
「3日くらい?」と彼女は聞いた。
何がですか、と俺は聞き返した。
「何がって、唯がここでお世話になった日数よ」
「3日なんてもんじゃない」と俺は言った。「あんたが唯を一人残してハワイに出発したその日から今日まで、あの子はずっとここで過ごしていたんだ。いいか、25日だぞ25日。そのあいだには40℃の熱を出して猛吹雪のなか病院に駆け込むこともあった。そりゃあ25日もあればそんな日もあるさ。まだ体の弱い子どもなんだから。
唯が病院の冷たく固いベッドで母親を必要としている時にあんたは、ハワイの暖かいビーチで呑気に寝っ転がっていたんだ。あの時唯はどんな気持ちで高熱と闘っていたのかと思うと、そのツラとその日焼け跡を見ているだけで、はらわたが煮えくり返る」
「それは迷惑をかけたわね」と彼女は言った。そして提げていた紙袋からラッピングされた箱を取り出し、それをこちらに差し出した。「迷惑料と言ってはなんだけど、これ、マカダミアナッツ。本場のだからとても美味しいの。本当は知り合いへのお土産だったんだけど、受け取って」
「いらねぇよ、そんなもん」と俺はきっぱり断った。
「それは残念」彼女は平然とマカダミアナッツを紙袋に戻した。「それじゃさっそくだけど、唯を呼んできてもらえる? 連れて帰るから」
この女のまるで鉢植えの観葉植物でも預かってもらっていたかのような態度を受けて我慢できるほど、俺はできた人間じゃなかった。「ふざけるな!」と怒鳴りかけたところで、背後にもっと強い怒りの気配を感じた。振り返るとそこには、この女の代役を25日のあいだかいがいしく務めてきた三人のママが立っていた。さらにその後ろでは、居間から日比野さんが顔だけ出してこちらを見ていた。
「すみません、神沢さん」と彼女は両手を合わせて言った。「止めたんですが、三人ともちっとも言うことを聞いてくれなくて……」
三人の真ん中ですでに臨戦態勢に入っていたのは、柏木だ。
「唯をこの人の元に戻す前にね、どうしてもあたしたちにはやらなきゃいけないことがあるの。唯のママとして最後の大仕事。日比野さん、悪いんだけど、唯を連れて二階に避難してくれる?」
日比野さんは戸惑いながらも、うなずいた。「柏木さん、くれぐれも手荒な真似だけは、なさらないように」
わかってる、という風に柏木は背後に手を振った。そして俺を押し退けるようにして前へ進むと、真顔になって戸口にたたずむ女の目をまっすぐ見据えた。
「よっぽど今からあなたのところに乗り込んでやろうと思っていたんだけど、まさかそっちからこうしてのこのこ出向いて来るとはね。みんな、戦いの準備はできてる? あたしたちで、唯の未来を作ってあげようじゃないの」




