第78話 このままじゃ大人になれない 1
「唯と唯の親のことを詳しく話してください」と俺は頼み込んだ。
姫井先生はしばらく迷ってから、決心したようにうなずいた。
「児童のプライバシーに関することは本当は教えられないんだけれど、諸般の事情をかんがみると、やむを得ないでしょうね」
「ありがとうございます」
「悠介君は教え子だから、特別にね」と先生は前置きしてから、話し始めた。「唯さんはお母様と二人暮らしなの。若いお母さんよ。そのうえとてもおきれいで、もしひとりで街を歩いていたら、7歳の子がいるようにはちょっと見えないでしょうね。高校を卒業してほどなく唯さんを産んだそうだから、まだ25、6歳じゃないかしら。そうそう、たしか、鳴桜高校のOGのはず。つまり、あなたたちの先輩というわけね」
思わず俺は高瀬と顔を見合わせた。世間は狭いね、とその顔には書いてあった。
高瀬は言った。「シングルマザーで唯ちゃんを育てているということは、やっぱり何か仕事はしているんですかね?」
「飲食店で働いていらっしゃるわ。飲食店と言っても、艶やかなお洋服を着てお酒を飲みながらお客さんとお喋りする――そういうお店ね。私はあまりそっちの世界のことは詳しくないのだけど、お客さんにはとても人気があるみたい。『ご指名』って言うんだっけ? それがひっきりなしに入るらしいの。聞いたところによれば、なんでも“夜の街”では知る人ぞ知る有名人だそうよ」
俺は唯が宝石箱の中に隠していた、札束を思い出していた。
「つまり、唯の母親はそれなりに収入もあるということですね?」
先生はうなずいた。
「一度、家庭訪問でご自宅にお邪魔させてもらったけれど、そりゃあもう立派なマンションにお住まいよ。広くてきれいで街を一望できて。リビングには大学病院の待合室にあるような大画面のテレビがあって、奥の部屋にはグランドピアノまで置かれていてね。だからお母様は唯さんには、経済的・物質的には不自由な思いはさせていないの。でも……」
でも、の後に続く言葉を予測するのは、それほど難しいことではなかった。
「でも」と俺は先んじて言った。「精神的には寂しい思いをさせている。そうですね?」
「さすが、短いあいだとはいえ、あの子のパパをやっていただけあるわね」
残念ながらお母様は唯さんに対する関心が薄いようなの、と先生は言葉を慎重に選んで語った。聞けば母親は、唯が1年生の頃から参観日はもちろんのこと、運動会や学芸会のような学校行事にも一度も顔を出したことがないという。遠足で弁当が必要な際は唯にコンビニのパンを持たせた。父母会主催の親子レクリエーションにはクラスの保護者でただひとり、不参加だった。なんだか自分の母親のことを聞いているみたいだな、と俺は思った。
「関心の薄さが目に見えるかたちで表れたのが、これなの」と言って先生が手にとったのは、俺たちもよく見覚えのあるものだった。「うちの小学校では、親子で一緒になって夏休みや冬休みの課題に取り組んでもらおうという狙いで、絵日記に保護者の方からのメッセージも添えて提出するようお願いしているの。だけど……」
先生は夏休みの日記帳を広げて俺たちに見せた。〈保護者の方から〉の欄はどのページもすがすがしいほどまでに空白だった。
「親御さんはみなさんお忙しいのは私たちとしてもよくわかっているの」先生は眉をひそめる。「それでもたいていの親御さんは、なんとか都合をつけて書いてくださるものなのよ。子どもが寂しい思いをしないようにね。もしどうしても書く時間がなければ、一言か二言、がんばったね。楽しかったね。それでもいいの。ところが唯さんのお母様だけは25日間の夏休みの間、一文字たりとも書いてはくれなかった。この日記帳を提出した時の唯さんの気持ちを思うと、今でもいたたまれなくなるのよ」
冬休みの絵日記の保護者欄を担当した優里ママは、隣で静かに怒りに震えていた。唇を震わせながら口を開いた。
「先生は先ほど、『恐れていたことが現実になった』とおっしゃっていましたよね。その『恐れていたこと』というのは、やはり『関心の薄さ』と関係があるんじゃないですか?」
「ふたりとも、鋭いのね」と先生は言って、複雑な表情を浮かべた。「そう、あなたの推察の通りよ。お母様は去年あたりからどうやら、休みの日をうまくとって、月に一度のペースで旅行に出かけているらしいの。唯さんをひとり家に置いて、親しい男性と一緒に。あなたたちももう高校生だもの、ここで言う“親しい男性”というのがどんな存在なのかは、わざわざ説明しなくても、わかるわよね?」
俺たちは幼稚園児じゃないので無言ながらもしっかりうなずいた。世の常として、若くてきれいなシングルマザーとなれば、男どもが放っておかないというわけだ。
先生は腕を組んで続けた。「はじめのうちは行き先はまだ近場に限られていて、唯さんのお留守番も半日や一日だけで済んでいた。ところがお母様はじょじょに遠くへも行くようになっていった。それに伴って、二日、三日、四日……と家を空ける日数も増えていった。まるで唯さんがどれだけひとりで過ごせるか試すみたいに。そしてとうとうお母様は、九州や沖縄にまで足を伸ばすようになったらしくて。このままだといつか長期の休みをとって、外国に行ってしまうんじゃないかと危惧していたのだけど、その不安はどうやら的中してしまったようね」
俺は天を仰いだ。
「つまり母親は、唯の冬休みに合わせて自分も長い休みをとると、唯には現金だけを渡して男と一緒に海外旅行に出かけた。そういうことですか」
「おそらくは」
「ひどすぎる」高瀬はうなだれた。「クリスマスやお正月があって子どもにとっては一年で一番楽しい時期なのに……」
教室を重い沈黙が満たした。ほどなく先生は何かが吹っ切れたように、前髪を雑にかき上げた。
「教師という立場もあるからずいぶんオブラートに包んで話をしてきたけれど、この際もうぶっちゃけちゃいましょう! あの人はね、関心が薄いなんてもんじゃないの。無関心なの。まったく、自分の子をいったいなんだと思っているのかしら。唯さんと一緒に家にいる時も親子らしい会話はしていないようだし、はっきり言って、母親失格よ!」
もっともだ、と言いたげに高瀬は顔をしかめた。「ということは唯ちゃん、学校の友達くらいしか、まともな話し相手がいないんですね」
どういうわけか先生は答えにくそうに眉を寄せた。「あのね、実はね……」
唯に友達はいなかった。唯はクラスでも孤立していた。それが先生からもたらされたあまりにも残酷な情報だった。母親が行事に顔を出さなかったり手作り弁当がなかったりしたことで浮いていたというのもその要因だが、それ以上に大きかったのは、家庭環境のせいなのか、人とはうまく話せないことだった。そしてうまく笑えないことだった。
他の子どもたちはこの何を考えているかわからない無表情なクラスメイトを徹底的に避けた。そして気味悪がった。ちょっとはニコニコしろよ、というような誹謗を飛ばすことも多々あった。唯は家でも学校でも寂しい思いをしていた。唯の話し相手はどこにもいなかった。
「私はね」と先生は俺の目をまっすぐに見て言った。「悠介君。あなたが6年生の時の失敗を繰り返したくなかったの。あなたも当時、お母様が家出をしたことでクラスで肩身が狭くなって、孤立してしまったでしょう? 私はあの時あなたのために何もしてあげられなかった。教師として未熟だった。でもあれから5年が経って、私もそれなりに成長した。今度こそ唯さんを孤立から救ってあげなきゃ。そう思ってまずは私があの子の話し相手になれるよう、努めたの」
高瀬は前のめりになる。「それで、唯ちゃんとは話ができるようになったんですか?」
「それがそう一筋縄ではいかなくてね。唯さんの関心がありそうな話題を探して振ってはみるんだけど、手応えはまるでなくて。しばらくそんな『のれんに腕押し』みたいな状態が続いて八方塞がりになりかけたところで、ふとなにげなく口にしたある話題に、唯さんはやっと興味を示してくれたの」
「ある話題?」と俺は聞き返した。
先生はうなずいた。そして言った。
「他でもなく悠介君、あなたの話題よ。あなたのおかげで唯さんは、少しずつ心を開いてくれるようになったの」
複雑にからまっていた糸が急速に解けていく。先ほどから頭の中でそんな感覚があった。もうちょっとだ、と俺は思った。
「俺の話題になったきっかけは、『Iー1グランプリ』ですね?」
先生はもう一度うなずいた。
「去年の夏、唯さんもあの番組を家のテレビで見ていたらしいの。例の、大学病院のロビーにあるような大きなテレビでね。それで私はこれといった深い考えもなく『観客席から叫び声をあげていた男の子は私の教え子なの』と言ってみたのよ。彼も今のあなたと同じように昔、ひとりで寂しい思いをしていたの、って。
するとそれまではほとんど何も喋らなかった唯さんがね、『あのお兄さんのことをくわしく教えてほしい』って自分から言い出したわけ。きっと似たような境遇のあなたに、親近感を覚えたのね。それでこのチャンスを逃しちゃいけないと思った私は――悠介君には悪いんだけれども――求めに応じてあなたのことを話して聞かせたの。一軒家でひとりで暮らしていることだったり、勉強をがんばって鳴桜高校に入ったことだったり、とにかく私が知る限りすべてのことをね」
パパのことならなんでも知ってるよ。会ったその日にしたり顔でそう豪語した唯の声が耳によみがえった。
先生は続けた。
「その日以来、唯さんは少しずつ私に話を聞かせてくれるようになったわ。あの子が自らすすんで話すのは、お父様のことが多かったかしらね。2歳か3歳の頃にお父様が家を出ていってしまったこと。お父様の顔はほとんど覚えていないこと。ご両親が互いの嫌なところを言い合って喧嘩ばかりしていたのはよく覚えていること。喧嘩を止めたかったけれど幼すぎてそれができなかったこと。そのことが後悔として今でも心に強く残っていること。だからこそ早く大人になりたいという思いが人一倍強いこと。
そして唯さんは、7歳の自分の置かれている状況が決して望ましいものではないということもしっかり認識していて、『このままじゃ大人になれない』とも漏らしていたわ。どうにかしなきゃ、とね」
「唯の夢はね、大人になることなの……」高瀬はきのうの唯の言葉を静かに復唱した。
先生は言った。
「冬も近づいてきたある日、唯さんはこんなことを言い出したの。『先生、大人にちょっとでも近づける良い方法を思いついたよ』って。あの時は何のことかと思ったけれど、これでようやくわかったわ。冬休みに海外へ行くことをお母様に聞かされた唯さんは、悠介君。あなたのおうちで25日間過ごす計画を密かに立てていたのね。ひとりの寂しさを克服してたくましく生きている、言わば『先輩』のあなたと共に暮らして、いろいろなことを学ぼうとしたのよ。大人に一歩でも近づくために、ね」
高瀬は居ても立ってもいられなくなったように椅子から立ち上がり、教室内を黙々と歩きはじめた。やがて掲示物が貼られた壁の前まで進むと、何かに気づいてふと足を止めた。そこにはクラスの児童たちの簡単なプロフィールがあった。
「加藤唯、誕生日、1月13日」と高瀬は言った。そして1月のカレンダーを見ながら指を一本ずつ折った。「1月13日って、4日後じゃない! 13日に唯ちゃん、8歳になるんだ」
「1月13日」俺はその日付がもつ、もうひとつの意味をすぐに思い出した。1月13日は冬休みの最終日。すなわち、唯と過ごす最後の一日でもある。
♯ ♯ ♯
小学校を後にした俺と高瀬は、近くの停留所でバスが来るのを待っていた。
「いろんなことがはっきりしたね」と高瀬は隣でつぶやいた。
「ああ」俺は深くうなずいた。「唯と過ごしたこの一ヶ月を振り返ってみれば、なるほどな、と思うことばかりだ」
「唯ちゃん、子どもにしては『あれが欲しいこれが欲しい』ってワガママを言わなかった」
「それもそのはずだ。唯が求めていたのは、モノじゃなかったんだから」
「私と晴香がクリスマスパーティで喧嘩しちゃった時、唯ちゃん、なんて言ったか覚えてる?」
「もちろん。あれには驚いたから、今でも一言一句覚えてるよ」
どうしてケンカなんかするの。ふたりは友達なんでしょう。どうして互いのイヤなところを言い合ったりするの。それ以上にたくさん良いところがあるから仲良くしてたんでしょう? 誰だってイヤなところの一つや二つあるでしょう? どうしてそれを受け入れてあげないの。友達は大事にしなきゃだめだよ――。
高瀬はゆっくり口を開いた。「今思えば、あの言葉には、唯ちゃんのいろんな思いが凝縮していたんだね」
俺はうなずいた。それは例の『タイムトリッパーあすか』で覚えた言葉なんかじゃなかった。唯の心から出た言葉だった。その切実な訴えが効いて、高瀬と柏木は喧嘩をやめたのだった。
「唯は両親の喧嘩を止められなかったことをずっと悔やんでいた。その後悔があの時、唯を突き動かしたんだろうな」
高瀬は喧嘩したことを反省するように唇を噛んでいた。
俺は続けた。「それともう一つ、忘れちゃいけないのは、『友達』ってもんに対する意識の強さだ」
「そうだね。妊娠騒動で葉山君にみんな愛想を尽かす中、唯ちゃんだけは『ダチ』だからってことで、一貫して親しくしてあげていたもんね。初めてできた友達。うれしかったんだろうなぁ」
トモダチは大事にしなきゃだめだよ。口酸っぱくそう叱られたなぁ、と俺も大いに反省した。
「ところで神沢君。これで唯ちゃんの正体が判明したわけだけど、今日も含めて残り4日間、私たちはどう接すればいいんだろう?」
それについて俺はじっくり考えた。考えて、これまで通りでいいんじゃないかという結論に達した。
「姫井先生の名前や証言、それから宝石箱の中の『タイムトリッパーあすか』や現金を突きつければ、さすがに唯も俺たちを欺いていたことを認めるしかないと思う。でもそれを認めさせてどうなる? そんなことをしたところで何の解決にもなりゃしない。こうなったらもういっそ、とことん最後まで騙され続けてやろう。あと4日は何が起きようが誰がなんと言おうが、唯は未来からやってきた、俺の娘だ」
「がんばれパパ」と高瀬はその答えを予期していたかのように言った。「そうだね。現実的に私たちにできるのは、親としていっぱい話し相手になってあげて、『こんなに話せるんだ』『こんなに笑えるんだ』って唯ちゃんに自信をつけさせてあげることだよね」
「そして誕生日を盛大に祝ってやることだ」と俺は言った。「冬休みの最終日に、唯は8歳になる。唯くらいの年頃の子どもにとっちゃ、誕生日は一年で最大のイベントだ。俺たちは25日間の期間限定の親だけど、この日は唯が一生忘れられないような、特別な一日にしてやろう」
特別な一日、と高瀬はつぶやいた。「神沢君、何か特別なことでも考えてるの?」
「まぁね」と俺はある男の顔を思い浮かべて言った。「この計画がうまくいけば――なんとしてもうまくいかせるけど――唯にとっては一生忘れられない、最高の誕生日になる」




