第77話 ヒーローじゃなくたっていい 2
診察室に入ってからは、これまでのゴタゴタが嘘のように事はトントン拍子で進んだ。
女医さんはまずかんたんな問診をしたあと、唯に対し熱を下げる注射を打ち、栄養と水分補給のための点滴を施した。それと並行していくつかの検査も行った。女医さんをアシストする看護師はいなかったが、彼女は一連の仕事をてきぱきと要領よくこなしていった。
そうして一時間も経つ頃には、唯の顔色は見違えるほど良くなっていた。女医さん様々だった。明日は美味しいものをお腹いっぱい食べたい、と笑顔で言い残し、唯はベッドで眠りについた。
「はっきりしたことは明日になってみないとわからないけど」と女医さんは俺たちを見て言った。「とりあえず、大きい病気ではなさそうだから、安心していいわよ。まぁ、わかりやすく言えば、一種の風邪ね」
俺と柏木は顔を見合わせた。そしてどちらからともなく微笑みあった。
「ただ」と女医さんは釘を刺すように言った。「熱はまだあるしそのうえ脱水症状の兆候も見られるから、念のため今晩はこのまま入院してもらうわよ。いい?」
俺は今一度気を引き締めた。「わかりました」
「あの、ちょっといいですか?」と柏木が手を挙げて尋ねた。「あたしたち、この子のことをおんぶしてここまで連れてきたんです。外は吹雪だってことはもちろんわかっていましたけど、他に手立てがなくて仕方なく。それって親として間違ってましたか? 間違っていたとしたら、どうするのが正解でした?」
女医さんは右手でペンを器用に回してそれについて考えた。
「雪と風にさらすことで体調が悪化するリスクと、家にいることで大きな病気を見逃すリスク、どっちをとるかってことよね。さっきも言ったようにこの子がかかっていたのはただの風邪だから、もし家から動かなかったとしても命にかかわるような重篤な事態にはならなかったでしょうね。でもそれは結果論というもの。病気の判別なんて誰でも簡単にできるもんじゃないから私たち医師がいるわけで。
そうねぇ、難しいわねぇ。はっきりと『これが正解』とは私の口からは言えないわね。ただ、この子がしかるべき処置を受けてこうして眠れるほどまでに回復したのは事実なんだから、少なくとも、あなたたちの判断が間違っていたということはないんじゃないかしら?」
「ですよねぇ!」柏木は隣で深くうなずく。「実はあたしたち、このことで受付のおばさんにものすごく責められたんです。親失格だ、って言われてるようで悔しくて悔しくて。でも先生のおっしゃる通りですよ。たしかに100点ではないかもしれないけど、かといって間違ってもいないですよね。それをあの人、0点みたいな言い方して。ああっ、思い出したらなんだかまた腹が立ってきた! 『先生はわかってくれたよ』って今から言ってこようかな!」
「よせって」俺は彼女を制する。「もういいじゃないか。唯の熱も峠を越えたんだから」
女医さんはくすくす笑った。そして言った。「ごめんなさいねぇ。うちの母が不快な思いをさせたみたいで」
「え」俺は驚く。
柏木は固まる。「受付のおばさんって、先生のお母さんなんですか?」
女医さんはペンを白衣のポケットに刺してうなずいた。
「見てわかるようにうちは小さな診療所でしょう? 今日みたいに夜間当番の日はスタッフは出てこられないから、母にいつも手伝いをお願いしてるの。あの人、あなたたちのように若い親を見ると、子育ての先輩としてどうしてもああだこうだダメ出しをしちゃうのよ。世話焼きなのね。決して悪気があるわけじゃないの。だから私に免じて許してあげてよ」
石頭ババア、とまで罵った柏木の気まずそうな顔といったらなかった。
女医さんは俺たちの容貌をよく見て続けた。「というかあなたたち、この子の親じゃないでしょ? どう考えたって7歳の子の親にしては若すぎるもの」
まずいな、と思って俺は視線を落とした。公的機関に通報でもされたら厄介なことになる。
「何らかの複雑な事情があってこの子の親代わりをしている。さしずめそんなところでしょう」と女医さんは言った。「でも安心して。あれこれ詮索する気はないから。そこまでは私の仕事じゃないし。それにどんな事情があったにせよ、あなたたちがこの子を大事に思っているのはよくわかるし。吹雪の中をおんぶして病院まで連れてくるなんて、実の親でもそうそうできることじゃない」
「ずいぶん理解してくれるんですね」と柏木はほっとしたように言った。
「私自身が血のつながらない親に育てられたからね」と女医さんはこともなげに答えた。「ああ、言ってなかったっけ。あの人、母は母でも継母なの。実の母は私を産んですぐに死んでしまってね。そしてあの人も実の子を産んですぐに亡くしているの。なんやかんやあってそんなふたりが親子になったわけ。血のつながらない私たちがうまくやってこられたのは、母のある信念のおかげで……ああ、こんな話、興味ないわよね」
「そんなことないです」柏木は身を乗り出す。「ぜひ聞かせてください」
「そう?」と言って女医さんは少し誇らしげに背筋を伸ばした。「『子育ては戦いだ』というのが母の揺るぎなき信念でね。相手が目に見えるものだろうが目に見えないものだろうが、個人だろうが組織だろうが、とにかく母は臆せず私のためによく戦ってくれた。そんなんだからあの人は他から良い目では見られなかったし、まわりはいつも敵だらけだったけど、でもそのおかげで私は今の自分があると思ってる。感謝しているよ、母にはね。私も仕事柄いろんな親子を見てきて思うのは、親ってさ、別にみんなから認められるヒーローじゃなくたっていいのよね。格好良くなくても、きれいじゃなくても、まわりに嫌われても、子どものためにどれだけ戦えるか。それが大事だと思うの。あなたたちもきっといつかは実際の親になるでしょう。このことを覚えておいても損はないかもね」
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やがて、肛門に入れた牛乳瓶が抜けなくなったという世も末的な急患が運ばれてくると、女医さんはそっちの処置にかかりきりになった。先生の母親だって娘にこんな患者の相手をさせるために日々戦ってきたわけじゃないだろうという雑感はさておき、俺たちは唯が眠るベッドのそばに移動し、椅子に座って話をしていた。
「しっかし、親って大変なんだね」と柏木は唯の寝顔を見て言った。「今日はそれを痛感した。一緒にご飯を食べたり遊んだり歌ったりお風呂に入ったり、たしかにそういう楽しいことばかりじゃないもんね。今夜みたいなアクシデントにもきちんと対応しなきゃいけない。どうするのが正解かわからなくても考えて行動しなきゃいけない。受付のおばさん――先生のお母さんの信念、よくわかるよ。子育ては戦いだ。うん。ホント、その通り。親は子どもを守るために、いろんなものと戦い続けなきゃいけないんだ」
それを聞いて俺は自分を捨てた母の顔を思い浮かべずにはいられなかった。そして柏木も自身を捨てた父の顔を思い浮かべたに違いなかった。俺たちの親は戦うことを放棄したんだ、と俺は思った。
柏木は再び唯を見て、首をかしげた。「それにしても、この子、いったい誰なんだろう?」
「誰、とは?」
「文字通り、どこの誰なのかってこと」と柏木は肩をすくめて言い直した。「いい加減そろそろなんとかして正体を突き止めないと、もしまたいつか病院にかかるようなことになったりしたら、今度こそどうなるかわからないよ? 今日はたまたま先生が話のわかる人だったから助かったけど」
もっともだ、と思って俺はうなずいた。
「ねぇ悠介」と柏木はいつになく真剣な声で言った。「悠介はこの子が誰なのか、本当はわかりはじめてるんじゃないの?」
「なんとなくね」と俺は認めた。「20年後の未来から来たのかどうかはさておいて、少なくとも、俺の血を分けた子どもではないな」
「ま、そりゃそうだよね」と柏木は小さく笑って言った。そしてすぐに顔を強ばらせた。「唯の本当の親、今頃どこで何をしてるんだろう? まったく、許せないな。こんな小さい子を一ヶ月近くも放ったらかしにして」
唯の実の親も戦うことを放棄しているんだ、と俺は思った。
柏木はそんな唯をまるで守るように、ベッドにうつぶせで上半身だけを預けた。そして誰ともなしに小さな声で語り始めた。
「親って大変だけど、でもそれ以上に喜びも大きいな。さっきまであんなに苦しそうな顔をしていたのに、今はこうして気持ちよさそうにすやすや眠っている。なんだか、ものすごい充実感。やっぱりお母さんって、いいな。あたし、戦うことって全然苦じゃないし、良いお母さんになれるんじゃないかな。やっぱりもう一度“最強のお母さん”を目指そうかな。……なんてね」
俺は柏木に対して何かしら言葉をかけるべきなんだろうけれど、どんな言葉をかければいいかわからなかった。それで俺は椅子から立ち上がって病室内をぶらぶら歩きながら、何を言おうか考えた。しかしどれだけ考えても思い浮かぶのは一つの言葉だけだった。やむなく俺は彼女に背を向けたまま、それを口にした。
「おまえなら、良い母親になれると思うぞ」
しばらく待ってみたが何も反応はなかった。それもそのはずだった。振り返ってみると、柏木はベッドに上半身を預けたまま、すでに眠りに落ちていた。無理もない。戦い疲れたのだ。
俺は肩の力を抜くと、近くにあった毛布を手にとり、戦友の背中にそっとそれをかけた。




