第77話 ヒーローじゃなくたっていい 1
雪が客足を遠ざけていたおかげで、幸運にもバイトを早退することが許された。しかし雪が膝の高さまで積もっていたせいで、不幸にも思うように足を運ぶことが許されなかった。俺は歯がゆさと不安を感じながら、吹雪の中を柏木と唯の待つ自宅へ急いだ。
電話で柏木が話していたように、唯はリビングに敷かれた布団の上で苦しそうに喘いでいた。髪は汗でぐっしょり濡れ、目はうつろだった。それでも唯は俺の顔が視界に入ると、安心したように微笑み、そしてどうにか「パパ」と口にした。「お仕事の途中なのに、帰ってきてくれたんだ」
「もう大丈夫だからな」と言って俺は唯の頭を撫でた。額は驚くほど熱くなっていた。「そうだ柏木、熱は?」
「それが電話で話した時よりも上がっていて……」三分前に測ったのがこれ、と言って彼女は体温計を見せてきた。俺は目を疑った。そこには〈40.1℃〉と表示されていた。「どうしたらいいんだろう? いろんな方法を試したけど、どれもこれもだめで全然下がってくれないの」
あたりに無秩序に散乱する氷水の入ったビニール袋やら湿ったタオルやらが、柏木の悪戦苦闘ぶりを物語っていた。
「もう薬に頼るしかないよね。あたし、今から解熱剤を買ってくる!」
「待て待て」と俺ははやる彼女を制した。「今思い出したんだけど、小さい子どもの熱はむやみに下げない方がいい場合もあるらしいぞ。よく店に飲みに来る小児科の看護婦がそう話していたから、おそらく間違いない」
「それじゃあどうすれば」
「やっぱり医者に診せるのが一番だろうな」
柏木は時計を見た。時刻は九時半を過ぎていた。「でもこんな夜遅くじゃ病院なんて」
そこで俺の耳に聞き慣れたサイレン音がよみがえった。「なぁ。こういう状況なら、救急車を呼んでもいいんじゃないかな?」
「そっか! 頭が真っ白になっちゃって思いつけなかった! そうだね。あたしたちだけの力じゃどうにもできないもんね!」
意気込んで119番に電話をかけた柏木だったが、その声色はしだいに弱っていった。彼女は通話の途中で首を振った。
「この吹雪のせいであっちこっちで事故が起きていて、すぐに動かせる救急車が今はないんだって。そのうえ除雪もまだ入ってないから、いつまでに到着するか、はっきりしたことは言えないらしいの。もうっ! なんだってよりによってこんな時に雪なんか降るのよ!」
「落ち着くんだ柏木、天気に怒っても仕方ない」俺は苛立つ彼女をなだめ、電話をかわった。俺の口からあらためて事情を説明すると、オペレーターは若く未熟な両親を不憫に思ったのか、ある耳寄りな情報を教えてくれた。俺は礼を述べて電話をきった。
「柏木、悪いことばかりじゃない。うちの近所にある小さい診療所がたまたま今夜の救急当番院で、この時間でも行けば診てくれるそうだ」
「それじゃあ、タクシーを呼ぼう!」
「いや、救急車でさえ手配のメドが立たないほどの雪なんだ。タクシーこそすぐに来るとは思えない」
「歩いた方が早いかな?」
「だろうな」と言いつつも、俺は窓の外を見て顔をしかめた。「ただ、唯を外に連れ出して熱がもっと上がったりしたら、まずいよな」
「でもこのまま家にいて、もし取り返しのつかないことになったら、もっとまずいよ」
「よし、行こう」俺は腹をくくった。「近所の診療所が開いてるってのは、きっと何かの光明だ」
柏木はうなずいた。「そうだね。悠介が冷静で助かるよ」
俺だって決して冷静ではなかった。コートのボタンを掛け違えるほどには混乱していた。唯を助けたい。ただそれだけだった。
♯ ♯ ♯
もちろん唯を歩かせるわけにはいかないので、俺がその体を背負って診療所に向かうことになった。おんぶするだけならまだしも、雪と風から彼女を守るように盾となって道なき道を進むのは、正直なところなかなかにしんどい作業だった。しかし背中の唯はもっとしんどいんだぞと自分に言い聞かせて、俺は膝まで積もった雪を一歩一歩踏みしめていった。
今にして思えば、元日に唯を背負って神社の石段を75段も登ったのが、ちょうど良い予行演習だったようだ。あれがなければ途中でへばって行き倒れになっていたかもしれない。あるいは“未来人”だと自称する唯はこうなることを見越して、あの日おんぶをせがんできたのかもしれない。
そのようにして、普段ならば五分もあれば着く道のりを十五分かけてどうにか診療所に辿り着いた我々一行だったが、着いてさえしまえばあとはなんとかなると考えていた俺は甘かった。試練はまだ終わっちゃいなかった。診療所の受付が次の関門だった。
受付カウンターでは50歳前後の頬骨の角張ったいかにも気難しそうな女の事務員が業務にあたっていた。俺と柏木が「こんばんは」とあいさつしても何も返してこない時点ですでに嫌な予感はあったわけだけど、彼女は俺たちの顔を見ると、いかにも面倒くさそうに口を開いた。
「誰が受診するの?」
見りゃわかるだろ、と出かかったが俺は堪えた。「背中のこの子です。夜になって急に熱が出てしまって――」
「保険証」と女は言い終わらぬうちに言った。
なんでそんな偉そうなんだ、と出かかったが俺は堪えた。「すみません、ないんです」
「ない?」と女はいやにオーバーに繰り返した。「それじゃあ、その子の身分を証明するものは? 母子手帳は?」
「ないんです」と俺は答えた。まさか20年後から来たのでないんです、と答えるわけにはいかない。「慌てて家から出てきたせいで、忘れてしまいました」
それを聞くと女は腰に手をあててわざと聞こえるようにため息をついた。
「あのね、病院にかかる時はいろいろと必要なものがあるってことは常識でしょう? そんなこともわからないの? これだから最近の若い親は……」
こんばんはと挨拶をされたらこんばんはと返すのが常識だろ、いい年してそんなこともわからないのか。もうちょっとでそう出かかったが、もちろん俺は堪えた。
女は俺たちの姿をじっと観察して、言った。
「外に車が停まったような気配はなかったけれど、もしかしてあなたたち、そうやってその子をおんぶしてここまで来たの?」
俺はうなずいた。「あいにくこの雪のせいでタクシーも救急車もつかまらなかったんです」
「信じられない」と女は言った。「熱がある子をこの吹雪のなか、野ざらし同然で連れ出すなんて。それでも親?」
「それじゃあどうすればよかったって言うんですか?」
「今夜は吹雪になるのは天気予報であらかじめわかっていたわけだから、そもそも熱を出させないように気をつけるとか、できなかった? 少なくとも私が現役で子育てしていた頃は、そこまで考えて過ごしていたわよ。だいたいあなたたち、高校生に見えるほど若いけど、さてはこの子のことを放ったらかして遊び回ってたんじゃないの?」
適当なこと抜かすんじゃねぇ、と今度ばかりはさすがに堪えきれず言いかけたところで、後ろから強烈な怒気を感じた。はっとして振り返ると、柏木が顔を紅潮させていた。ああこりゃまずいぞ、と思ったが、もう手遅れだった。
「さっきから黙って聞いてりゃなんなのよアンタ!」とはじまった。「あたしたちなりにこの子のために一生懸命やれることをやったの! でもどうにもならないからこの診療所を頼って来たんじゃない! ずいぶんご立派に講釈たれてくれたけどさ、つべこべ並べる前にこの子のつらそうな顔を見て何も思わない? あんたの仕事は何? 40℃の熱を出してぐったりしている7歳児を捨て置いて常識や育児論を説くこと? 違うでしょ? あたしたちはあんたの話し相手をするためにここに来たんじゃないの! この子をお医者さんに診せるためにここに来たの! どんな事情があれ今この子が熱で苦しんでいるのは事実でしょうが! わかったらさっさと診察を受けさせなさいよ、この石頭ババア!」
女はまるで自分の頭が石でできていないことを確認するように一度髪をかき上げた。そしてまだババアと呼ばれる歳ではないことを確認するように一度鏡を見た。
しんとロビーが静まりかえるなか、ほどなくして診察室のドアが開き、中から白衣を着た若い女医が出てきた。彼女はあくび混じりに口を開いた。「何事なのよ、騒がしいわねぇ。患者が来ないからせっかく仮眠をとっていたのに」
柏木は受付の女をきっと睨みつけてから、医師の手をとった。「先生、この子のこと、助けてください!」
医師は億劫そうに眉をひそめていたが、唯の顔色を見ると、すぐに慌てて後ろ髪をゴムで束ねた。
「ああ、これは大変だ。お嬢ちゃん、つらかったねぇ。よくがんばったね。もう大丈夫よ。お父さんお母さん、今すぐ治療を始めます。この子を診察室に連れてきてください」




