第76話 この恋をしてよかったと心から思える 2
高瀬に強い敵意を抱き、数々の嫌がらせをしている人物は果たして本当に加藤さんなのか。
その調査に乗り出すべく、俺たちは高校近くの空き地に集まっていた。もっぱらいい人と評判の加藤さんの裏の顔を探るために用いる方法は、話し合いの結果尾行に決まった。高瀬が後をつけられているのなら、逆にこっちも後をつけてやれという発想だ。
正午過ぎ、演劇部の練習を終えてそろそろ校舎から出てくるはずの加藤さんを、俺たちは壁の陰に隠れてじっと待ち構えていた。
「念のため確認しておきたいんだけど、今から俺たちは尾行をするんだよな?」と俺は全員の顔を見渡して尋ねた。皆は当然のようにうなずいた。俺は人数を数えた。自分も含めて6人いた。「俺の認識が間違っていなければ、尾行ってのは、少人数で、こっそりやるもんなんだけどな。こんな大所帯でぞろぞろ後をつけていたら、加藤さんにバレちまうぞ?」
「そんなこと言ったってしょうがないでしょう、パパ」と唯が代表するように異議を唱えた。「みんな、この調査に参加する理由があるんだから」
まずは高瀬が挙手した。「私は当事者だから、絶対参加!」
次に日比野さんが眼鏡をかけ直した。「加藤さんの本当の姿をこの目でたしかめたいので、私も絶対参加です!」
柏木が腕を組む。「あたしは尾行のプロとして、絶対参加!」
唯が飛び跳ねる。「こんな楽しそうなことは放っておけないから、唯は絶対参加!」
月島が考える。「家にいても退屈だから私も絶対参加的な?」
何名か趣旨を理解していない者もいるようだが、いずれにせよ唯が参加するなら俺も保護者として絶対参加だった。そして本来ならもう一人、加藤さんを最もよく知る恋人の太陽こそ絶対参加のはずなのだが、どういうわけか彼は待ち合わせ時間をとうに過ぎた今でも姿を現さないでいた。
「あの馬鹿、なにやってんの?」と柏木は時計を見て言った。「もういつ加藤さんが出てきてもおかしくないってのに」
月島は周囲を見渡していた。「お、噂をすればなんとやら、ですぜ」
道路を渡ってこちらに歩いてくる太陽は、いつもの太陽ではなかった。俺たちはその顔を見て、愕然とした。
「どうしたの陽ちゃん!」言うが早いか日比野さんが駆け寄る。「頬、腫れてるじゃない!」
太陽の右頬には見るも痛々しい痣ができていて、せっかくの色男が台無しになっていた。
「生まれて初めて、親父に殴られた」と太陽は生気のない声で言った。「ついさっき、彼女の家からうちの病院に電話があったらしい。要件はもちろん、妊娠の件だ。それを聞いたうちの親父、今日は大事な手術があるってのに、病院からすっ飛んできて、オレの顔を見るなりいきなりぶん殴ってきた。そっから延々とえらい剣幕で説教だよ。あんなブチぎれた親父を見るのは、初めてだった」
それで遅刻したのか、と俺は納得した。
日比野さんが口を開いた。「お父様の名誉のために言っておくと、普段はとても温厚で、優しい方ですので」
太陽はうなずいた。「虫も殺せない親父がそこまで怒るのも無理はねぇよ。院長の息子が高校生の彼女を妊娠させたなんてことがもし世間に知られたら、うちの病院の信用は地に落ちかねない。なんつっても病院に求められるのはいつの時代もクリーンなイメージだからな。そのイメージを守るため、親父はどんな手を使ってでもこの醜聞が世に出ないようにするって言っていた」
「どんな手を使ってでも?」と俺は聞き返した。
「まぁ早い話が金だよ」と太陽は指で円を作って言った。「向こうが納得するだけの金を積んで、穏便に事を済ましてもらおうってわけだ。まったく、情けないったらないね。なんでこんなことになっちまったのかね」
「なによ、自分でまいた種じゃない」柏木はなにげなくそうつぶやくと、すぐにはっとして顔を赤らめた。どうやら種という言葉が別の意味にもとれることに、遅れて気づいたらしい。
そこで高瀬が声をあげた。「みんな、見て! 加藤さんが出てきた!」
俺たちは校門から出てくるターゲットの姿を確認すると、顔を見合わせた。そしてある程度距離があくのを待ってから、尾行を開始した。
加藤さんはひとりではなかった。同じ演劇部員の女子生徒と一緒だった。校舎を出たふたりは親しげに話をしながら、昼過ぎの冬の街を住宅街へ向けて歩いていた。
加藤さんは自分が後をつけられているなんて可能性を頭の片隅にも置いていないらしく、周囲をうかがうこともなければ背後を振り返ることもなかった。友人と談笑しながら家路につくその後ろ姿を見ている限り、彼女は青春まっただ中のどこにでもいる女子高生だった。
「加藤さんって、どういう家の子なの?」と月島が誰ともなしに尋ねた。
「たしか、『パパは通訳の仕事をしているの』とか言ってたな」恋人の太陽が答えた。「なんでも英語だけじゃなくフランス語にドイツ語、おまけにロシア語までペラペラらしくて、あちこちから引く手あまたなんだってよ。誇らしげにそう話してたのをよく覚えてる」
「マルチリンガル」と翻訳家を目指している高瀬は感心して言った。「一カ国語だけでも習得するのは大変なのに。加藤さんのお父さん、すごい人なんだなぁ……」
太陽はうなずいた。
「だから稼ぎもそれなりにあるみたいだ。自宅には血統書つきの大型犬を放し飼いにできるような広い庭があって、ガレージには高級外車が何台か埃をかぶって眠っているらしい。それに海外旅行にもよく連れて行ってもらうというようなことも話していた。まぁ総合すると、裕福な家の子ってことは、言えるんじゃねぇか?」
柏木は首をかしげる。「そんな裕福な家の親が、果たして、お金を積まれて穏便に事を済まそうとしますかねぇ?」
太陽は聞こえないフリをして、痣になっている頬をさすった。
そこで出し抜けに前方の交差点からクラクションの音が鳴り響いて、俺たちを驚かせた。何事かと思って見てみれば、杖をついた婆さんが信号は赤なのにもかかわらず、横断歩道の途中で立ち止まってしまっている。歩くのが遅くて渡りきれなかったところに耳元でクラクションを鳴らされたものだから、どうしていいかわからず、パニックを起こしているようだ。
それを見て即座に行動を起こしたのが、加藤さんだった。彼女はスクールバッグを道端に置いて婆さんの元に歩み寄ると、せっかちな若い男の運転手に対し深々と頭を下げ、それから婆さんの手をとってゆっくり一歩一歩前に進んだ。
男は今にも運転席の窓を開けて何か文句を言いそうな顔をしていたが、献身的な女子高生が冬の街角に生み出した温かいムードがそれをさせなかった。
無事に横断歩道を渡りきると加藤さんは二言三言婆さんと会話を交わし、そしてスクールバッグを手にとって、何事もなかったように再び友人と歩きだした。
「いい人だなぁ」とその一部始終を見ていた俺と唯は思わず感嘆した。
柏木はうなずく。「裏の顔を暴くどころか、いい人っていう評判が伊達じゃないことがわかっちゃったんですけど」
高瀬は首をかしげた。「あんな風に困っている人がいればすぐに助けに行けるような人が、私を石段から突き飛ばしたりしたっていうの?」
「まだ何があるかわかりませんよ」と日比野さんは注意深く言った。「見失ってしまうといけません。さぁ、後を追いましょう」
♯ ♯ ♯
お腹すいた喉かわいたおしっこしたい。唯から続々寄せられる訴えにその都度なんとか対応しながら、俺たちは加藤さんの尾行を続けた。
加藤さんとその友人は〈旧市街〉と呼ばれる廃屋や古アパートの立ち並ぶ混沌としたエリアを抜け、〈新市街〉と呼ばれる市内でも有数の高級住宅地へと足を踏み入れていた。
〈旧市街〉と〈新市街〉を隔てているのは小さな一本の川のみで、ある意味では“貧富の差”というものを嫌でも実感させられるのが、この地域だった。
加藤さんと友人はどちらも〈新市街〉に自宅があるようで、それもあってどうやらふたりは一緒に下校しているらしかった。
加藤さんが不可解な動きを見せたのは、〈新市街〉をしばらく進んで、友人が豪邸と呼ぶにふさわしい三階建ての自宅に入った後のことだった。彼女は友人の帰宅をしっかり見届けると、あたりの様子を注意深くうかがい、そしてなぜかこれまで歩いてきた道を逆に戻り始めたのだ。つまり彼女は、後をつけていた我々の方へ近づいてくるということになる。そのあまりに予想外の行動は、当然ながら俺たちをひどく慌てさせた。
「もしかして、尾行しているのがバレた?」月島がささやく。
「まさか」柏木が手を振った。「だってあたしたちに気づいているような素振りは一度も見せなかったでしょ?」
「じゃあなんでこっちに引き返してくるの!?」高瀬が目をしばたたく。
日比野さんは柄でもなく早口になる。「なぜかはわかりませんが、とにかくバレたら一巻の終わりです! みなさん、隠れましょう!」
さいわいなことに、近くには引っ越し業者の大型トラックが停まっていた。俺たちはその陰にすばやく移動し、息を殺して加藤さんが通り過ぎてくれるのを祈った。ほどなくしてトラックの近くまで戻って来た彼女は、こちらを覗きこむことも立ち止まって耳をすますこともなく、淡々とした足取りで前の道を歩いていった。それで俺たちはひとまずほっと安堵した。
「なんか学校に忘れ物でもしたのかな?」加藤さんの姿が遠くなってから、柏木が口を開いた。
「もしくは」と月島がシニカルに言った。「自宅は本当はもっと手前にあったけど、何らかの理由で帰るわけにはいかなかった、とか」
「自分ん家を素通りしなきゃいけない理由って、なに?」
「そこまではわしは知らんがな」
「ビコーを続ければきっとわかるよ」と唯がふたりのあいだに入って言った。「さぁみんな、行くよっ!」
五カ国語を自在に操る有能な通訳を父にもつといったいどれだけ立派な御殿に住めるものなのか。放火犯の父をもつ俺は好奇心と羨望心を内に秘めながら加藤さんの後を追った。
しかしあいにく、彼女がどこかの家の門をくぐるような気配は一向になかった。それどころかむしろその後ろ姿は、一刻も早くこのあたりから立ち去りたがっているようにさえ見えた。
脇目もふらず元来た道をひたすら折り返していく、加藤さんのその奇妙な独り歩きはついに〈新市街〉と〈旧市街〉を隔てる川へ達した。彼女はそこにかかる橋を渡りきると、〈旧市街〉へと歩みを進めた。
「やっぱり学校に忘れ物をしたんだよ」と柏木が得意顔で言ったところで、突然加藤さんは立ち止まった。もちろんそれを受けて我々も立ち止まった。俺たちは錆び付いて色あせた自動販売機の陰に移動し、そこから彼女の様子をうかがった。
加藤さんはまるでこれから悪いことでもするみたいに周囲に人がいないことをたしかめると、ポケットから鍵を取り出して、近くの木造アパートへと向かった。
その二階建てのアパートはどれだけ少なく見積もっても築50年は過ぎているであろう古い建物で、いかにも不吉な黒い染みが棟全体を覆っていれば、外壁はどこかの部屋でティラノサウルスでも飼ってるんじゃないかという気がするほど、あちこちがひび割れていた。
加藤さんはそんなお世辞にもきれいとは言いがたいアパートの一階の角部屋に近づくと、慣れた手つきで鍵を開け、そしてドアの向こうに姿を消した。
「……これ、どういうこと?」と高瀬がつぶやいた。
太陽が指を立てた。「実はオレ以外に男がいて、そいつに会いに来たんじゃねぇか? 男にもらった合鍵を使ってさ」
「アンタがそう思いたいだけでしょ」と柏木が見透かしたように言った。
「普通に考えれば」日比野さんは実際に考える。「あのアパートの角部屋は加藤さんの自宅で、彼女は帰宅したってことですよね……」
月島は目を凝らして角部屋を見ていた。「いちおう表札は出ているね。ここからじゃ遠すぎて残念ながらなんて書いてあるかまでは読めないけど。誰か近くまで行って、表札をたしかめてくる?」
俺は難色を示した。「誰が行くにしても、もし万が一加藤さんが外に出てきて、鉢合わせたりでもしたら面倒なことになるぞ? 同じクラスの俺たちのことはもちろんだけど、月島や日比野さんのことだっておそらく彼女は見覚えがあるんだろうから」
そこで待ってましたとばかりに手を高く挙げたのが、唯だ。
「パパ、唯のことを忘れないでちょうだい! 唯ならもしカトーサンに見られても怪しまれないでしょ? だから唯が行ってくる!」
「そっか」高瀬が手を叩く。「唯ちゃんだけは加藤さんと面識がないものね。もしかしたら初詣の時に見られてるかもしれないけど、あの時とは髪型も着ているものも全然違うから、おそらくバレないだろうし」
太陽もうなずく。「おまけにユイ坊はちびっ子だからオレたちほど目立たないしな。考えてみりゃ最高の偵察ってわけだ。来てくれて助かったぜ。ひとつここは頼むぞ、隊長!」
「ちびっ子って言うな」としっかり抗議をしてから、唯は40メートルほど先のアパートへ向けて、ひとりで歩きだした。隊長はだいたい5メートル進むごとにいちいちこちらを振り返り、笑顔で手を振った。俺たちもそれに応えて手を振り返した。
砂浜から波打ち際を必死で目指すウミガメの子の無事を祈るのにも似た気持ちで、我々はその小さな背中を見守っていた。するとほどなくして太陽が口を開いた。
「今ふと思ったんだが、ユイ坊のやつ、〈加藤〉って漢字を読めんのか?」
「あ」高瀬は額に手をあてる。「そこは盲点だった。二年生だとまだどっちの字も習ってないよね」
俺は唯がきのう解いていた漢字の書き取り問題を思い出していた。少なくともそこには、〈加〉も〈藤〉もなかった。
月島が言う。「まぁでも加藤ってポピュラーな名字だし、大丈夫じゃない?」
柏木がうなずく。「20年後の小学二年生は習っているかもしれないし」
そのように唯を一度呼び戻すべきかどうか議論していたせいもあって、後方に対する注意がおろそかになっていたのは否めなかった。唯がアパートの角部屋に着いたちょうどその時、背後から怒声がした。
「どきやがれ! 邪魔くせぇんだよ。クソガキども!」
はっとして振り返ると、そこには買い物袋をぶら下げた坊主頭の男が立っていた。
歳は50代なかばで顔は赤らみ、目は血走っている。何か文句のようなものをぶつぶつつぶやいているが、あいにくろれつは回っていない。この男はもしかして真っ昼間から酔っ払ってんのか? そう思って鼻を利かすと、果たして、酒の匂いがした。そして買い物袋の中には、ビールの缶が三本と鯖の缶詰が入っていた。さてはこれからまだ飲むつもりなのだ。
もう正月は終わったんですよ、と皮肉も込めて教えてやってもよかったが、こういうタイプは逆上したら何をしでかすかわからないので、黙っていた。まぁなんにせよ昼間から酒を飲んではいけないという法律はないし、酒を飲んでいたとしても道を歩く権利くらいはある。したがって俺たちは散らばって道を空けた。すると男は唾を吐き捨てて、堂々と道の真ん中を歩いていった。
「なにあれ」と柏木が言った。「たしかに道をふさいでいたのは悪かったかもしれないけど、もっと言い方ってもんがあるでしょ。くせぇのはそっちなんだよ、このアル中オヤジ!」
「やめろよ、聞こえるっつの!」太陽がなだめる。「ていうか、おい、あのおっさん、もしかしてあのアパートの住人なんじゃねぇか?」
太陽の言うとおり、男は千鳥足ながらもたしかにアパートに向かって歩いていた。唯に何かあってはいけないと思い、俺は今すぐ隠れるよう、身振りで40メートル先に指示を出した。唯は〈わかった〉という風に両手をあげ、男に気づかれる前にうまく建物の脇に身を隠した。
俺たちは自動販売機の陰から男の動向を注視していた。彼は途中でデリカシーのない大きな声でくしゃみをすると、ついさっき加藤さんが入っていった一階の角部屋まで歩を進め、そしてそのままその中に消えていった。
「……これ、どういうこと?」と再び高瀬がつぶやいた。
太陽はしょげた。「あのおっさんが本命の彼氏――なわけ、ないよなぁ」
「普通に考えれば――」日比野さんがそう言いかけたところで、隊長が小走りでこちらに戻ってきた。唯は早く言いたくて仕方がないという顔で報告をはじめた。
「表札にはやっぱり〈カトウ〉って書いてあったよ! だからあのお部屋が加藤さんのおうちで間違いないよ!」
「よくきちんと読めたな」と俺は言った。「まだ学校で習ってないのに」
「ば、ばかにしないでよパパ」と唯は俺から目をそらして言うと、動揺を隠すようにそしてねそしてね、と早口で続けた。「あのくしゃみおじさん、加藤さんのパパだよ。だって聞こえたもん。『お父さんおかえり、またお酒飲んでるの? だめでしょ』って!」
それを聞くと柏木はアパートをぼんやり眺め、すべてを察したようにうなずいた。
「血統書つきの大型犬を放し飼いにできるだけの広い庭、ねぇ」
月島も続く。「高級外車に海外旅行、ねぇ」
「『パパは五カ国語が堪能な優秀な通訳』とつぶやいて高瀬はため息をついた。「どう考えてもあのお父さん、あちこちから引っ張りだこの通訳じゃないよね。というかたぶん、仕事自体をしていないよね」
太陽はうなだれた。「彼女、オレに嘘ついてたんだな……」
「月島さんの読みは当たっていたようですね」と日比野さんは冷静に言った。「あの子、陽ちゃんに限らず親しくなった人には『自分は良い暮らしをしている』と偽ってるんですよ。だからあの演劇部のお友達に見られるわけにはいかなかったんです。このアパートに帰宅するところを。そして仕事もしないで昼間から飲んだくれている父親の姿を。それでわざわざお友達の自宅のある〈新市街〉まで一度行って、それからこの〈旧市街〉に引き返してきたんです」
加藤さんが高瀬を付け狙っている犯人であるにせよないにせよ、彼女が何かしらいびつなものを心に抱えているのは、どうやらたしかなことのようだ。
そして唯が20年後から来た未来人であるにせよないにせよ、この子はどうやら――。




