第75話 にじをもういちどかけてくれました 3
結局、太陽と日比野さんも加えた計六人で俺たちは神社へ向かった。
例年の元日に比べると今日はだいぶ暖かく、絶好の初詣日和といえた。それもあってか、神社へ続く道は晴れ着を着た参拝者でにぎわっていた。
道中、小さい子どもが好きだという日比野さんは、唯に積極的に話しかけた。唯もやわらかな物腰の日比野さんがすぐに気に入ったようで、神社に着く頃にはふたりはすっかり打ち解けていた。
もちろん唯は日比野さんに対しても「自分はこの人(俺だ)の娘で、20年後の未来からタイムマシンに乗ってやってきた」というアンビリーバブルな自己紹介をしたわけだけど、それを聞いた日比野さんはとりたてて驚くでもなく「へぇ、そうなんだねぇ」と言うにとどまった。
それで俺はちょっと気になって唯の話をどこまで信じたのか、日比野さんにこっそり尋ねてみた。すると彼女は眼鏡のブリッジをさわってこう答えた。
「未来がどうなっているのかなんて誰にもわからないんですよ、パパ」
「日比野さんまで、やめてくれよ」
どうも唯には、人を短時間で味方につける天賦の才が備わっているようだ。その一点だけをとってみても、やはり俺の血を継いでいるとは思えない。
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拝殿は小高い丘の上に鎮座しているので、参拝するためには石段を登らねばならなかった。
俺が初詣に来たくなかったのは、実はそれが理由のひとつだった。というのもこの石段はやたら勾配が急なうえに、段数も煩悩の数と同じく108もあり、ここを最後まで登りきるのは六階建てのビルを一階から最上階までエレベーターも使わず登るのとほとんど同じ労力を要するのだ。
いや、それだけならばまだ、冬の運動不足解消にちょうどいいかと割り切ることもできた。しかし問題は唯だった。唯が動きやすい服ではなく振袖を着ているというのが、どうも俺に嫌な予感を抱かせていた。
そして案の定、33段目まで登ったところで「ねぇパパ」と甘えた声がした。俺が何も聞こえないフリをしていると、ねぇったら! と声の主は本性を現した。「唯、もう疲れてこれ以上石段を登れない! フリソデって重いし、それにこのペタペタした履き物、歩きにくいんだもん!」
高瀬は苦笑した。「たしかに、草履は私たちでも慣れないときついからね」
俺は立ち止まって腕を組んだ。「わがまま言うな、唯。振袖を着たいって言ったのは、おまえだろう? 神様に願いを聞いてもらうためには、これくらい我慢しなきゃいけないんだ。それともおまえだけ下で待ってるか?」
「いーやーだ」と唯はごねた。「お願い事はしたいけど歩きたくはない!」
「そんな都合のいい話があるか」
「お正月だからいいんだもん! パパ、おんぶして!」
他の参拝者たちが俺たちのやりとりを見てくすくす笑っていた。なかには俺の苦労も知らないで「おんぶくらいしてあげればいいのに」とひそひそ話をする奴もいる。
「神沢さん」と日比野さんはとりなすように言った。「唯ちゃんだけ残していくわけにもいかないですし、それに、こうしてせっかくパパのことを頼ってるんですから。ね?」
「そうだよ」と太陽も無責任に言った。「足腰を鍛えるんだと思えばいいじゃねぇか」
このまま唯のわがままを聞き入れては、なんだか外圧に屈して教育方針を曲げたみたいで面白くないので、ここはひとつ問題を出してそれに唯が答えられたらおんぶをしてやることにした。俺は言った。「唯、この石段は全部で108段だ。俺たちは今まで33段登ってきた。残りは何段ある?」
唯は算数の文章題が苦手だった。けれど唯は少し考え、「108ひく33だから、75!」と確信的笑顔で答えた。「だからパパは唯をおんぶして、75段登るの!」
「正解!」とみんなは声をそろえて唯を褒めた。
俺はひそかに舌打ちして、渋々しゃがみ込んだ。
クリスマスプレゼントに計算ドリルを贈ったのが間違いだった。
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「唯ちゃんは、何をお願いしたの?」参拝を終え、日比野さんが声をかけた。
「唯はね、『みんなが仲良くできますように』って!」
それを聞いてバツが悪そうな顔をしたのは、クリスマスで大喧嘩をした高瀬と柏木だ。
柏木は慌てて手を振った。「やだなぁ唯。あたしと優里は本当に仲直りしたんだよ。ねぇ、優里?」
高瀬は苦笑いしてうなずいた。「そ、そうだよ。どうせなら他の願い事にすればよかったのに」
「大丈夫。ついでに、この世からニンジンがなくなりますようにってお願いしておいたから」唯は無邪気にそう言って、俺たちの顔を順に見上げた。「ねぇねぇ、みんなはどんなお願いをしたの?」
まず日比野さんがそれに答えた。
「お姉さんは、陽ちゃんが医学部に現役合格して、将来はみんなに頼られる素敵なお医者さんになれますように、って。ここに奉られている神様はね、お勉強に関するお願いをよく叶えてくれるって有名なんだよ」
「余計なことをすんな、まひる!」と太陽はすかさず抗議した。「初詣の時くらい、おまえ自身の夢が叶うよう願い事をしろっての!」
「あいにく、私のいちばんの夢は、立派なお医者さんになった陽ちゃんを見ることなんです」
「神様! こいつの願いは聞かなかったことにして!」太陽は、神にタメ口をきく。「ユイ坊、オレはもちろんドラマーとして成功できますように、って願ったぜ。神様、オレの未来はこっちね、こっち!」
「タイヨー、がんばれ」と唯はたいして興味なさそうに言った。「それじゃあ、はるかママは?」
「あたしは」柏木はわずかに言いよどんだ。「あたしは、みんなの夢が叶いますように、って願ったよ。ああ、でもこれだと、神様は迷っちゃうか。日比野さんの夢を叶えるのか、それとも葉山君の夢を叶えるのか。ごめん神様、その辺はうまく調整して、あはは」
俺はもちろん長年の夢である“大学進学”が叶いますように、と神前で祈ったわけだけど、柏木の願いを聞いてしまったら、それを口にすることはちょっとできなかった。
柏木は本当は「世界一幸せな家庭を築けますように」と祈りたかったんじゃないか。
そう思うと彼女が不憫で、大学という言葉を出すこと自体が躊躇われたのだ。
そしてそれは――おそらく大学進学の夢を祈ったであろう――高瀬も同じようだった。彼女も唯の質問には答えられなかった。やむなく俺たちは唯に対し「ニンジンも食べなきゃだめだぞ」とかなんとか言って誤魔化しながら、どうにかはぐらかした。
しかし、その後の絵馬はそうもいかなかった。
なにしろ絵馬は願いを目に見えるかたちで書く必要があるし、かといって嘘を書くのもなんだか気がとがめる。先ほど口にした願いをするすると絵馬に書いていく他の四人に対し、俺と高瀬は油性ペンを持ったまま手が止まってしまった。すると柏木が近寄ってきて、俺たちの肩に手を置いた。そして翳りのない声でこう言った。
「ふたりとも、さっきからあたしに気を遣ってるんでしょ。そんなのいいから、叶えたい夢を書きなよ。大学進学って書きたいんでしょう? 日比野さんが言うには、ここの神様は学問の神様らしいじゃない。きっとふたりの願いを叶えてくれるよ」
俺たちは柏木に促されるように「大学進学」の四文字を絵馬に書き入れ、そしてそれを奉納した。すると柏木は、これでよしという風にうなずいた。
それからは境内をそれぞれ自由に見てまわった。高瀬と柏木と唯は美容に良いという霊験あらたかな湧き水を飲み、日比野さんは学業成就のお守りを太陽に無理矢理持たせ、太陽はちゃっかりもう一枚確保していた絵馬にもう一つの願いを書いていた。
「なぁ悠介、こっちには何を書いたと思う?」と太陽は絵馬を手で隠して聞いてきた。
どうせ、と俺は言った。「どうせ、加藤さんのことだろ」
「なんでわかった!」と太陽は驚いた。「そうだよ。どうか彼女の妊娠が何かの間違いでありますように、ってな」
俺は呆れてため息をついた。「まったく、ニンジンの願いからニンシンの願いまで、今年の神様は大変だな」
さて。
こんな馬鹿げたやりとりをしながらも、俺は昨年末に高瀬から聞いた「誰かが私を付け狙っている」という話をもちろん片時も忘れてはいなかった。参拝者に混じって不審な動きをする奴がいやしないか、注意深く目を光らせていた。
しかしそんな人物は境内がやたら混み合っているせいで見当たらなかったし、おまけに高瀬自身から「ここ数日は嫌がらせがやんでいる」と聞いていたせいもあって、初詣を終える頃にはちょっとばかり気が緩んでいたのは否めなかった。
それがいけなかったのかあるいは神の庇護が届かなくなったのかはわからない。でもとにかく、鳥居を再びくぐり、境内を離れた直後に、それは起こった。
行きとは逆で、当然ながら帰りは石段を降りていくことになる。例の108段ある、急勾配の石段だ。俺たち六人はこれからどこかに寄って遊んでいこうかというような話をしながら、横一列になって石段を一段一段降りていた。
そのようにして20段ほど降りて、今度は高瀬が唯に引き算の問題を出そうとした、その時だった。
ふいに高瀬の上体が、前に突き出たのだ。バランスを崩した彼女は足をもつれさせ、そのまま前へ倒れ込みそうになる。言うまでもなく着ているのは振袖だから、受け身もうまくとれそうにない。もし倒れて石段を転げ落ちたりでもしたら、大変なことになる。
そこで咄嗟に反応したのが、柏木だった。
彼女はすばやく体を高瀬の前へ入れると、傾いた上体を受け止め、高瀬が倒れるのをすんでのところで防いだ。出し抜けに無理な体勢をとったせいで、柏木は足をくじいたようだった。彼女が身を挺して高瀬の体を支えなければ、高瀬はどうなっていたかわからなかった。
「どうしたの優里! 危ないじゃない!」と柏木は言った。「草履の鼻緒でも切れたの?」
高瀬は首を振った。その顔は青ざめていた。「誰かに、後ろから押された」
「え? 間違ってぶつかったとかじゃなくて?」
高瀬はもう一度首を振った。そして言った。
「背中にはっきり手の感触があった。誰かが意図して、私を突き飛ばしたの」
それを聞いてすぐに俺は石段を振り返った。我々と同じように、参拝を終えた人たちが続々と降りてくる。その中には見覚えのある顔もなければ、してやったりとほくそ笑む顔もなかった。どうやら高瀬を突き飛ばした犯人は、人混みにうまく紛れることのできるタイミングを見計らって、犯行に及んだようだ。
「どなたか!」と俺は無意識に叫んでいた。「どなたか、彼女を背後から押した奴を見ませんでしたか!?」
聞こえていないはずはないだろうけれど、彼らは誰ひとりとしてそれに答えてはくれなかった。ある人は無関心そうにスマホをいじりながら、またある人は面倒くさそうに顔をしかめながら、俺たちの脇を通り過ぎていった。一年のはじめに参拝をすると必ずしも心が洗われるというわけでもないらしい。まぁ仕方ない。触らぬ神に祟りなしとも言う。
いずれにせよ、今の一件と高瀬が受けてきた一連の嫌がらせとが、無関係ではないことは明らかだった。
俺と高瀬は互いに顔を見合わせた。彼女も同じことを考えているに違いなかった。俺は言った。「高瀬、こうなった以上はみんなにも黙っていられない。ちょうどいい。今日は太陽もいる。あの話を聞いてもらおう」




