第75話 にじをもういちどかけてくれました 2
長かったような短かったような――とにかく多忙だったことだけは間違いない――一年が終わり、また新たな一年がはじまった。
春には泣いても笑っても最終学年に進級する、俺にとっては人生の中でもとりわけ重要な一年のはじまりだ。この勝負の一年を乗りきるべく正月くらいはどこにも出かけず家でのんびり体を休めて英気を養っておきたいところだったが、好奇心旺盛な7歳児とともに暮らす生活においては、それはどだい叶わぬ願いだった。
誰に入れ知恵されたのかは知らないけれども、唯は年が明ける数日前から馬鹿の一つ覚えみたいに『フリソデを着て、ハツモーデに行きたい!』と言い出すようになっていた。
振袖とはどんな衣服か、そして初詣とは何をすることなのか、いまいちよく理解していない様子だったが、それでも「みんなできれいな格好をしてお出かけする」ということだけはなんとなくわかっていて、それが唯の好奇心をくすぐったらしかった。
無論俺は今年の正月は寝正月にすると決め込んでいたから、その気になれば唯の要望を無視して何の準備もせず元日を迎えることもできた。しかしそんなことをしたら初日の出から初日の入りまでわんわん泣き喚かれて、英気を養うどころの話じゃなくなるのは目に見えていた。
それで俺は仕方なく前もってママたちと電話で連絡をとったりして、元日に神社に行く手筈を整えていった。正月三が日は東京の実家に帰省する月島をのぞく二人のママが、振袖を着て初詣に同行することとなった。
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今日一日だけのために高い金を出して唯に振袖一式を買い揃えてやる必要はなかった。
あまたのビジネスが日夜しのぎを削るこの社会には、“振袖レンタル”なるものがきちんと存在するのだ。レンタルならば買うのに比べてだいぶ安価で済むし、おまけに頼めば着付けまでやってくれる。
それは俺のように、20年後からやってきた自分の娘の面倒を冬休みの間だけ見なきゃいけない男子高校生には、もってこいのサービスだった。
費用対効果の優れたこのサービスを使わない手はなかった。俺は近所の呉服屋で唯に一日限定で振袖を着せてやってから、神社近くの待ち合わせ場所に向かった。
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「遅刻しちゃった、ごめん!」
約束した時間より5分ほど遅れて、高瀬がやってきた。もちろん彼女も振袖を身につけてきた。柏木はまだ来ていなかった。はるかママはもっと遅刻してるから大丈夫、と唯は言った。
「お着付けに思ったよりも時間がかかっちゃって」と言って、高瀬は俺の前でひらりと回ってみせた。「どうかな? お母さんの手伝いを断って自分ひとりではじめて着付けてみたんだけど、変じゃないかな?」
鮮やかな赤を基調としたその振袖は、高瀬の大和撫子的な魅力をぐっと引き出していて、もう初詣なんかどうでもいいから今すぐ家に連れ帰りたい衝動に駆られた。着るのは時間がかかっても、脱がすのはすぐだろう。
「全然変じゃないよ」と俺は良からぬ妄想を払って言った。「よく似合ってる」
「本当!? それはよかった。あとねあとね――」
新年の挨拶も唯のこともそっちのけで、このかんざしはあの有名店から特別に取り寄せてねだとか、帯の柄にはこういうこだわりがあってねだとか、そういうことを楽しげに話す高瀬を見ていると、なるほど、と俺は思わずにはいられなかった。なるほど、よほど高瀬は振袖を着て正月に出かけたかったんだな、と。唯に初詣のことを吹き込んだ犯人が誰なのかわかった気がした。
「それはそうと」唯に初詣のことを吹き込んだ犯人はわかっても、12月以降高瀬に嫌がらせをしている犯人はまだわかっていなかった。「あれは、どうなった?」
「あれ?」高瀬は目をしばたたく。「あれって、なんのこと?」
「いやいや」俺は唯もいる手前、声を出さずに〈ユ・ル・サ・ナ・イ〉と口を動かした。
「ああ、あれね! それがさ、神沢君に相談して以来、ぱったり嫌がらせがやんだの。私が葉山君の彼女だっていう誤解が解けたんだよ、きっと」
高瀬は笑顔でそう言うけれども、俺はどうも釈然としなかった。嵐の前の静けさ、という言葉が頭をよぎる。
「そうだといいけどな……」
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それからまた5分ほどして、柏木がやってきた。
柏木と顔を合わせるのは、彼女から“決断”を聞いてこれが初めてだった。それで俺は多少なりとも緊張したのだが、彼女はこれまでと何も変わらない様子で「あけおめ、諸君!」と明るく言った。
心機一転をはかるなら新しい一年が始まったばかりの今がまさに潮時とも言えるわけだけど、果たして柏木は本当に生まれ変わったのか、あるいは無理をして気丈に振る舞っているだけなのかどうかまでは、判別できなかった。
柏木に意識を奪われてまったく気づかなかったのだが、彼女の後ろには太陽と、それから彼の幼馴染みの日比野さんもいた。もう昼時だというのに太陽はまるで今目覚めたみたいにあくびをしている。
「来る途中でふたりとバッタリ会って」と柏木は言った。「せっかくだし、みんなで一緒にお参りしようかって話になったの。いいでしょ?」
普段ならば断る理由はないが、今は別だった。太陽といっしょに行動して大丈夫か? と俺は高瀬にひそかに聞いた。
大丈夫じゃない? と高瀬は答えた。彼女がそう言うなら俺は何も言えなかった。
太陽は再び大きなあくびをした。ずいぶん眠そうだなタイヨー、と唯が声をかけた。
「ユイ坊、聞いてくれよ。気持ちよく寝ていたらこいつに叩き起こされたんだよ」太陽は恨めしそうに日比野さんを見る。「まったく、正月くらい好きなだけ寝させろっつーの。帰ったらゲームだ、ゲーム」
「そういうわけにはいきません」と日比野さんはきっぱり言った。「陽ちゃん、いい? 今年はとっても大事な年なんだよ? 一年後には大学受験が控えてるんだよ? お父様の後を継ぐような立派なお医者さんになるためには、そろそろ本気で勉強しなきゃいけないよ? まずは神様に学業成就のお願いをして、帰ったら、おうちで勉強ね。ゲームは、医学部に受かるまで封印!」
「医者にはならねぇよ!」太陽は子どもみたいに地団駄を踏む。「オレは将来、世界中を熱狂させるドラマーになるの! 何度も言わせんな!」
太陽と日比野さんはしばらくこんな風に、夫婦漫才じみた掛け合いをいつも通り繰り広げていたわけだが、途中からふたりのやりとりがまったく耳に入らなくなるほど、俺の心をつかんで離さないものがあった。それは柏木の振袖姿だった。
本人が言うにはなんでも「この振袖は叔母のいずみさんのお古だからサイズも合ってないしデザインも時代遅れ」らしいけど、そんなことはまったく気にならないほどその立ち姿は様になっていた。見事だった。着物業界は今すぐ柏木を広告塔として起用すべきだと思うくらい、着こなしも雰囲気も何もかもが完璧だった。
その薄紫の艶やかな振袖に身を包んだ柏木は、俺を虜にした。
彼女が“決断”を下した夜、雪の振る公園で「出会ってからいつのあたしがいちばんキレイだった?」と聞かれ俺が答えたいちばんは、気づけば早くも塗り替えられていた。




