第74話 忘れないでいてくれるとうれしい 2
唯が予定より早く昼寝から目覚めたのは、柏木がうちに来て5分後のことだった。たった5分のあいだに柏木はケーキを盗み食いした罪で月島に裁判にかけられたり、飾り付け中のツリーを誤って倒した罰で太陽に修復を命じられたりと、騒がしいことこのうえなかった。唯が途中で起きるのも無理はなかった。
眠りを妨げられたことで唯の機嫌が悪くなったりしていないか心配したが、それは俺の杞憂だった。恥ずかしながら俺はどうやら、7歳くらいの子どもにとってクリスマスというイベントがどれほど大きな意味を持つのか、いまいちわかっていなかったらしい。
目をこすりながら居間に戻ってきた唯は、壁や天井に施された装飾と立派なツリーを見るとたちまち瞳を輝かせ、そして歓声をあげた。直前まで眠っていたのが嘘のようだった。
ひとしきり喜び終わると彼女はノートとクレヨンを持って、テーブルの前に腰を下ろした。
「お絵かきでもするの?」と月島が台所から聞いた。
「絵日記なの」と唯は答えた。「学校の宿題でね、冬休みのあいだは毎日書かなきゃいけないんだ。きのうのぶんを書き忘れていたから、今から書くの」
「唯はマジメなのねぇ。あたしだったら最終日に一ヶ月分まとめて書いちゃうけどな」柏木は自慢げに言うけれど、それは別に誇ることじゃない。「どれどれ、ちょっと見せてみて」
台所から月島も駆けつけて、太陽も含めた四人で日記帳に目を通した。
* * *
〈12月21日 はれ〉
きょうは、おうちの中でけん玉をしてあそびました。
さいしょはむずかしかったけれど、れんしゅうしていくうちにだんだんできるようになってきて、うれしかったです。
とちゅうで玉がパパにあたって、やっつけてしまいました。わたしのことを「へたっぴ」とばかにしたばちがあたったんだとおもいます。
たのしかったです。
〈保護者のかたより〉
……そりゃよかったな。
〈12月22日 雪〉
きょうは朝から雪がふっていたので、外であそびました。
まずはパパとちからをあわせて雪だるまを作りました。
パパはかんせいした雪だるまとわたしをくらべて、「雪だるまよりせがひくいんじゃないか?」とばかにしてきたので、そのあとの雪がっせんでやっつけてやりました。
たのしかったです。
〈保護者のかたより〉
……そりゃ、なによりだ。
* * *
「微笑ましいねぇ」と太陽は言った。
「どこがだよ」と俺は言った。
ふむふむ、と月島は言った。「その日あったことを唯ちゃんが記録するだけじゃなくて、それに対する親のコメントも必要なのね」
「なるほどなぁ」太陽は納得する。「絵日記を通して親子でコミュニケーションをとってもらおうという考えだな」
「それにしても」と柏木は呆れて言った。「21日は『よかったな』。22日は『なによりだ』。……ねぇ悠介。パパとして、もうちょっと気の利いたコメントを書けないの?」
俺にだって言い分はあった。「昼はこうやってこいつの遊び相手になってくたくたで、夜は居酒屋の仕事から帰ってきてくたくたで、とてもじゃないが宿題のことまで手が回らないんだよ」
柏木と月島はしょうがないなぁという風に顔を見合わせた。そして月島が口を開いた。
「それじゃあ唯ちゃん。今日からここのコメント欄は、私たちが書くことにするね」
「でも」と唯は不安そうな声を出す。「担任の先生は『ホゴシャの方に書いてもらってください』っ言ってたよ? ホゴシャって、お父さんやお母さんのことだよね?」
柏木は唯の頭を撫でる。「だから、冬休みのあいだは、あたしたちが唯ちゃんのお母さんになってあげるってこと」
「えっ!? 本当?」
月島は微笑む。「もちろん、唯ちゃんが認めてくれるなら、の話だけど」
「大歓迎だよ!」と唯はなんの迷いもなく認めた。「ずっと気になってたんだけど、お姉さんたちって、いったいどういう関係なの?」
「友達よ、トモダチ」そう言いつつも顔を引きつらせる柏木は、高瀬を思い浮かべているに違いなかった。それを見てすぐに太陽が耳打ちしてきた。
「おい悠介、大丈夫なのかよ?」
「何がだよ?」
「ただでさえ柏木と高瀬さんはいがみ合ってるってつうのに、ユイ坊に対する教育方針の違いとかで衝突したりしないのかな?」
「そうならないことを祈るしかない」と俺は言った。「というかそもそもそれ以前に、今夜のパーティを何事もなく無事に乗り切れるか、それが不安で仕方ないよ」
噂をすればなんとやらで、ちょうどその時玄関のチャイムがうやうやしく鳴った。俺が代表してドアを開けると、そこにはやはり高瀬が立っていた。
パーティと聞くとお嬢様の血が騒ぐのか、彼女は頭からつま先までばっちりドレスアップしてやってきた。平たく言えば、決めてきた。
腰のラインが際立つ深紅のワンピースに身を包み、首には品の良いネックレスが光っている。髪はお呼ばれ用にしっかりセットされ、黒のパンプスは彼女の脚を長く見せていた。なんだかこっちもタキシードを着たりレッドカーペットを敷いたりしてお迎えせねば失礼にあたるんじゃないかという気がしたくらいだ。
高瀬のそんな調和のとれたシックな装いの中にあって、ひとつだけ明らかに他から浮いているものがあった。
それは指輪だった。
イミテーションのダイヤのついた銀の指輪。京都で胡散臭い露天商の口車に乗せられて俺が彼女に贈った安物の指輪。一度は鴨川に投げ込まれるも再び持ち主の元に戻ってきた奇跡の指輪。
高瀬はその指輪を――薬指だとさすがにあからさますぎると思ったのか――人差し指にはめていた。ワンピースやネックレスが自分を見てくれと言わんばかりに堂々としているのに対し、指輪はどことなく肩身が狭そうに見えた。
さて。
自分がプレゼントしたものを高瀬が身につけてきたからといって、それを手放しで喜んでいられるほど俺は馬鹿ではなかった。俺はその指輪を見ていると無性に胸がざわめくのを感じないわけにはいかなかった。今夜は何か良からぬことが起きるぞと直感が告げていた。
そして実際に、この指輪が一因となって、クリスマスパーティの最中に大変な事件が起こることになる。




