第74話 忘れないでいてくれるとうれしい 1
翌日の昼過ぎ、いちばん早くうちにやってきたのは、料理を担当する月島だった。
彼女はそれこそサンタみたいに大きな袋を持ってやってきた。袋の中からは肉やら野菜やら果物やら、新鮮な食料品がわんさか出てきた。おいおいパーティでも開くのかと言いたくなるような量だったが、果たして今夜は、クリスマスパーティだった。
月島は唯とひとしきりじゃれ合ってから台所へ向かうと、持参したエプロンを颯爽と身につけてオードブル作りに取りかかった。そのエプロンのつけかたは鏡の前で100回は練習したんじゃないかと思うほど様になっていた。俺は手持ち無沙汰なので台所で彼女の仕事を手伝うことにした。リビングでは唯がアニメの再放送に見入っていた。
「きのう、女子三人でよく話し合ってさ」と月島は手際よくアボカドの皮を剥きながら言った。「まぁ三人で話し合ったといっても、高瀬さんと柏木の仲がギスギスしているから、私が二人の間に入る感じで、いろんなことを決めたんだが」
俺はトマトを切るのを中断して、彼女の話に耳を傾けた。
「まずはキミのお望み通り、私たちが唯ちゃんの母親代わりになって、育児を手伝ってやることにした」
「本当か!?」肩がすっと軽くなる。「そいつはありがたい。助かるよ」
「それから」月島はリビングの唯をちらっと見て、声量を落とした。「あの子が未来から来たっていう例の話、私たちはもちろん信じたわけじゃないけど、とりあえずはそれに乗っかることにする。つまり唯ちゃんはキミの娘で、20年後からタイムトラベルでやってきた。そういうことにしておく。だって7歳の子が真剣にそう言い張ってるんだもんね。
それを相対性理論やらなんやらを持ち出して否定するのは、大人げないってもんでしょ」
唯は“未来の君”のことも知っていたしな、と思ったが俺はもちろん黙っていた。
「それにしてもおまえさ、唯くらいの歳の子どもが苦手だって言っていた割にはずいぶんあの子のことを気にかけているけど、いったいどういう心境の変化だ?」
「あの子に美人だなんだとおだてられて私がすっかり舞い上がったとでも思ってる?」
「違うのか?」
「……まぁ、それもなくはない」嘘をつけないのが、月島のいいところだ。「言っておくが、私はわかってるよ。あの子が私たちに取り入ろうとおべっかを使っていることも。そしてキミの前でだけは生意気な口をきいていることも。それを見抜けないほど私の目は節穴じゃない。だからやっぱり、例に漏れずあの子も、正直苦手ではある」
「それじゃあ、どうして」
「あの子、ほんの一瞬だけど、ものすごく悲しげな表情をしたの」と月島は手を止めて答えた。「あれはそうだな……例えるならまるで、生まれてからずっと誰にも頼らずひとりで過ごしてきたかのような顔だった。演技じゃちょっと、7歳そこらの子があんな表情は作れない。それを見ちゃったらさ、こりゃあ苦手うんぬん言ってる場合じゃないぜと思いましてね」
俺はリビングに視線を向けた。相変わらず唯はアニメに夢中になってけらけら笑っている。そんな無邪気な姿を見ればホントかよと首をかしげたくもなるが、なにしろつかみどころがない子だけに、あながち否定はできなかった。
月島は小声で続けた。「きのう、あの子がやさぐれた葉山君を今夜のパーティに招待するとき、こう言ったの覚えてる? 『ひとりきりのクリスマスは、寂しいよ』って」
俺ははっとしてうなずいた。「ああ、たしかに言ってたな」
「私にはあのセリフは、葉山君に対してというよりも、なんだか自分自身に対して言っているように聞こえたんだ。本当は誰かに言って欲しかったけれど誰も言ってくれないから、仕方なく自分で言ったというような、ね。そういうところも併せて考えていくと、唯ちゃんは誰かに救いを求めているような気がしてならないの。深い悲しみから救い出してくれる誰かを。そりゃあ放っておけないでしょ」
俺は月島の観察眼と親切心に感心した。
「唯のことで、おまえに頼って正解だったよ」
「よせやい、照れるじゃないか」月島はアボカドを落としかけた。「そういうわけで明日から私たち、唯ちゃんの面倒をみるために、日替わりでこの家に泊まりに来ることになったから」
俺はびっくりして持っていたトマトを落としかけた。
「今おまえ、泊まりに来るって言ったか?」
「言った」と月島は言った。「だってそうするより他にないだろ。キミは居酒屋のバイトでどうしたって帰りが遅くなる。そのあいだ唯ちゃんはひとりになる。誰かが一緒にいなきゃいけない。その誰かは私たちしかいない。それともなにか。唯ちゃんの子守りが終わったら――用が済んだら――暗い夜道を寒さに凍えながら変態に怯えながら一人で歩いて帰りやがれ。キミは私たちにそう言いたいのか?」
「そんなつもりはないけど」俺はたじたじとなる。でもよくよく考えれば、月島の言う通りだった。ここは都会じゃないから遅くまでバスや電車は動いてないし、かといってタクシーを使って高校生だとバレれば何かと厄介だ。まともな高校生は22時以降にタクシーに乗ったりなんかしない。「わかったよ」
「わかればよろしい」月島は切り刻んだアボカドを皿に盛る。「とにかくそんなわけで明日からはピチピチの女の子が入れ替わり立ち替わりこの家に泊まりに来ることになるけれど、くれぐれも変な気だけは起こさないようにね。葉山君みたいにはなりたくないでしょ、パパ?」
「肝に銘じるよ」俺はムンクの絵みたいな友の顔を思い出していた。「それはそうと、一人暮らしのおまえやなんでもありの柏木はともかく、高瀬はよく家の許可を取り付けられたな? 一日二日ならまだしも、三日に一回は外泊することになるんだぞ?」
「それがさ、あのお嬢様、なんだか前にも増して私たちに対抗心を燃やしているのだよ」と月島は包丁を研いで言った。「今回の件だって私は『無理しなくていい』って言ったの。親御さんが厳しいでしょうって。でも彼女、その場で家に電話して、結局むりやり親の反対を押し切っちゃった。もう意地でも私や柏木に後れをとりたくないって感じだった」
こりゃあさっそく明日あたり直行さんが居酒屋に飲みに来るな、と俺は思った。
月島は続けた。「今回に限らず、高瀬さん、最近やけに積極的なんだよなぁ。前はどちらかといえば消極的だったのに。様子が変わったのは、ちょうど秋に修学旅行から帰ってきたあたりからだな。ねぇ神沢。……京都で何かあったの?」
高瀬からキスをされました。俺から指輪を贈りました。そんなことを打ち明けたら、アボカドの次に俺が切り刻まれるかもしれない。
♯ ♯ ♯
月島に続いてうちにやってきたのは、装飾を任されていた太陽だった。言わずもがな我が家にはクリスマスツリーなどという円満家庭の象徴と呼ぶべきアイテムは存在しないので、代わりに太陽が用意することになっていた。
太陽は自分の背ほどあるなかなか立派なツリーを持ってきた。うちで昔使ってたやつだ、と彼は言った。オレが一丁前の男に成長するよう願ってガキの頃に親父が買ってくれたんだ、と彼は説明した。おたくの息子さん、一丁前に恋人を妊娠させたみたいですよ、と俺は思った。
親不孝男は「このツリーを見たらユイ坊は喜ぶだろうな」と張り切っていたのだが、あいにく唯はテレビの前でうつらうつら船を漕いでいて、俺が布団まで連れていくとそのままぐっすり眠ってしまった。時間旅行の時差ぼけとやらは、どうやらまだ解消されていないらしい。
台所に戻って引き続きオードブル作りを手伝ってもよかったが、月島に京都での出来事を根掘り葉掘り詮索されるのは目に見えていた。よって俺は太陽と一緒にリビングで飾り付けをすることにした。
太陽がひそひそと耳打ちしてきたのは、当たり障りのない話をしながら作業を続けて、15分が経った頃だ。
「なぁ悠介。父親って、どういう感じのするものだ?
「どういう感じもなにも、まだよくわかんないよ」と俺は正直に答えた。「唯がうちに来てまだ一週間も経ってないんだから」
「またまたぁ。父親姿もけっこう板についてたぜ。さっきだってユイ坊を寝かせる時に、ちゃんと布団を肩までかけてやったりしてさ」
「それくらい普通だろ。だいたい、風邪でも引かれたらいちばん困るのは、俺なんだよ」
太陽は冷やかすように肩をすくめた。本当はかわいくて仕方ないんだろと聞こえてきそうだった。なんにせよ、この男が父親と口にするならば、俺があの話題に触れても文句を言われる筋合いはないはずだった。
「どうしたんだ急に。一晩考えて、父親になる決意を固めたのか?」
「ちげぇよ! 参考までに、ちょっと聞いてみただけだよ」
「ふぅん」俺は台所の月島に聞こえないよう、声のボリュームを下げた。「それで、あれから加藤さんとは、話をしたのか?」
「きのうの夜、電話でちょこっとな」と太陽はしょんぼり答えた。「彼女、電話でなんて言ったと思う? 『ごめんね太陽君』って謝るんだよ。こんなことになっちゃってごめんね、って。本来なら『こっちこそごめんな』の一言でも言わなきゃいかんだろ。どちらかといえば悪いのはオレの方なんだから。でもオレはなんて言ったと思う? 何も言えなかったんだよ。それどころか『ホントだよ』って心でつぶやいちまった。なんで妊娠なんかしたんだ。って」
最低だな、と舌の根まで出かかったが、非難していたらきりがなさそうなので俺はそれを呑み込んだ。
「もし加藤さんが『産みたい』って言い出したら、おまえはいったいどうするつもりなんだ?」
太陽は大きく首を横に振った。「それはありえん。絶対にありえん。なんとしても彼女には『産む』以外の選択肢をとってもらう。冗談じゃねぇ。ようやくオレたちの音楽が世の中に受け入れられてきて、デビューも視野に入ってきたんだ。こんなところでつまずいてられるかってんだ」
「つまり恋人の加藤さんよりバンドのnorth horizonの方が大事ってわけだな?」
「そりゃそうだ。疑問の余地はない。100対0でノーホラだ」
「ずいぶん乱暴な言いようだな」俺は思わず飾りつけを中断した。「なんだよ。加藤さんのことが好きで付き合ってるんじゃなかったのかよ?」
「もちろん好きで付き合ってたさ」と太陽は言った。「でも陽性の欄にしるしの入った妊娠検査薬を見せられた瞬間、その気持ちはオレの中から完全に消え失せた。今はもう彼女の顔も見たくないし声も聞きたくない。そりゃこうなるよ。だって元々なあなあで付き合い始めた仲なんだから」
最低だな、と今度こそ舌の先まで出かかったところで、太陽は俺の口を塞いだ。
「言いたいことはよーくわかってる。でも悠介。せめておまえさんの前でだけは、本音を吐き出させてくれよ。オレもいっぱいいっぱいなんだ。こうしてガス抜きでもしないと、本当に気が狂っちまう。な? いいだろ? 聞いていてくれるだけでいいからさ」
太陽が手を離したので、俺は新しい空気を吸い込んだ。台所では「ファイアー!」と叫びながら月島が豪快にフライパンを振っていた。こうして友のろくでもない姿を目の当たりにするくらいなら、月島の手伝いをしていた方がよかったかもな、と後悔した。
「オレだってわかってるよ」と太陽は淡々とリースを飾りながら言った。「今のオレは誰に言わせたってどうしようもない男だ。本当にクズだ。男としても人間としてもダメだ。自分でもそう思う。わかってる。自己嫌悪まっしぐらだよ」
聞こえていたけれど、俺は黙々と作業を続けた。
太陽は続けた。「まったく、こんなオレが、世の中の人たちを感動させられるようなバンドマンになれんのかね? 一流のドラマーになれんのかね?」
やはり俺は何も言わなかった。すると太陽はなよなよと肩に寄りかかってきた。
「なれるって言ってくれよぉ!」
「『聞いていてくれるだけでいい』って言ったのは、おまえだろ」
「つれないなぁ」彼はしょげていたが、ほどなくして閃いたように手を叩いた。「そうだ悠介、ビートルズって知ってるか?」
舐めんな、と言って俺はうなずいた。
「数多くの名曲を世に送り出した、オレも心から敬愛する伝説のバンドだ。ビートルズは200以上の楽曲を通じていろんな愛の形を歌ったわけだが、実は四人のメンバーは元々リヴァプールってところの不良少年で、若い頃は相当やんちゃだったみたいなんだ。お世辞にも愛だなんだ言えるような模範的な若者じゃなかったらしい」
無視するのもかわいそうなので、相づちを打つことにした。
「それでも彼らは愛を歌った」
「そして世界中を魅了した」と太陽はまるで自分の手柄のように言った。「そうなんだよ。人間、誰しも若いうちは一度や二度、過ちを犯すもんだ。大事なのはその後なんだよ。オレは今回の件がどういう結果になろうが、芸の肥やしにして、愛と平和を歌うぞ。がんばればきっと、オレの音楽は世界中の人たちの心に届くはずだ。ああ届くさ。届くに違いない。……届くよな?」
聞こえていたけど、俺は黙々と作業を続けた。
「届くって言ってくれよぉ!」
太陽は再びすがるように肩に寄りかかってくる。 Help! とこっちこそ叫びたくなる。




