第73話 それとも次に来るのは13月なのだろうか? 3
神経をすり減らして姫を起こす必要はなかった。彼女はすでに眠りから覚めて、居間のソファで優雅にジュースを飲んでいた。パジャマ姿でくつろぐ唯を見た三人の反応たるや、見事なまでに一致していた。彼女たちはまずはっと息を呑むと、まるで手負いの子鹿に群がる猛獣の勢いで唯に近づき、あっという間に取り囲んでしまった。
「かわいすぎるんだけど!」柏木は沸く。
「お人形さんじゃないよね?」高瀬は聞く。
「すっぴんでこれかぁ!」月島は妬く。
唯はあたふたしてこちらを見た。「ねぇパパ! これ、どういう状況? 唯、どうなっちゃうの!?」
「安心しろ。食われたりはしないから」
それから三人はきゃっきゃ言いながら唯の容姿をひとしきり褒めた。俺はそのあいだひそかに唯の様子を注視していたけれど、母親を見るような敬愛の眼差しを誰かに向けることもなければ、掟を破ってうっかり誰かを「ママ」と呼んでしまうこともなかった。すっかり唯を未来人として扱っている自分がいることに遅れて気がつき、俺は自嘲した。
「しっかし、本当にかわいい顔立ちしてるね」と柏木は唯をいろんな角度から見て言った。「こりゃあ将来は美人さんになる。間違いない」
それを聞いた唯の瞳に、かすかながら邪悪な光が浮かんだのを俺は見逃さなかった。彼女は三人の顔をしっかり見据えてから、「そんな」と謙虚につぶやいた。「そんな。唯はお姉さんたちにはぜんぜんかなわないよ。だって三人とも、とってもキレイだもん」
高瀬と柏木が額面通り受け取ってまんざらでもない顔をするなか、月島だけは身構えた。
「小さいくせして言うねぇ。さては何か企んでるな?」
唯は月島が自分に対し警戒心を抱きつつ接していたことに、気づいているようだった。そしてどうやら、三人を味方に引き入れようとしている。その方が何かと都合が良いと嗅ぎ取ったらしい。
「たくらむ?」と唯は白々しく首をかしげながらつぶやき、月島の全身を観察した。「お姉さん、そのショートカット、すごく似合ってるね。着ているお洋服もオシャレだし、なんていうか『隙がない』よね。お姉さんみたいな女の人を本当の美人って言うんだろうなぁ……」
沈黙が居間に降りた。やがて月島はこちらに振り向いた。
「神沢、この子、良い子じゃないか! どこが生意気なんだ!」
「ちょろいな!」俺は思わずつんのめる。「15分前にカフェでおまえ、なんて言ってたよ!」
もはや月島は耳を貸さない。「ねぇ唯ちゃん。好きな食べ物はなぁに?」
「唯は、はるさめが大好物!」
「はるさめ? はるさめってあの透明でつるつるしてる春雨?」
「そう。そのはるさめ」
「通だね、唯ちゃん」月島は指を鳴らす。「おいしいんだよね、春雨。私も好きよ。ヘルシーだし。お姉さんはこう見えても料理が得意なんだ。おいしい春雨料理をいっぱいごちそうしてあげる。そうだ。ついでに、料理も教えてあげるよ」
「本当? うれしいな。唯、お料理ができるようになりたかったんだ!」
柏木も黙ってなかった。「唯ちゃん、強くなりたくはない?」
「えっ?」
「あたしはね、体を動かすのが得意なの。だからプロレス技を教えてあげる」
何を言ってるんだろうこの人は、という風に唯は戸惑ったが、柏木の面子をつぶしてはいけないと思ったのか、すぐにあどけない笑みを顔に貼り付けた。「プロレスもいいけど、唯はそれより、速く走れるようになりたいな。かけっこでいちばんになってみたいんだ」
「まかせておきなさい」と柏木は請け合った。「あたしは足も速いのよ。ビシバシ鍛えてあげる。かけっこなんてちっちゃいことは言わず、いっそオリンピックの金メダルを目指そう!」
目指そう! とその気になる唯を見て、焦ったのは高瀬だ。
「ねぇ唯ちゃん。私は勉強を教えてあげる。わからないことがあったら、なんでも聞いていいからね」
ハーバードの主席を目指そう! とか後先考えず言い出したりしないのが、柏木との違いだ。
「うわぁ、心強いなぁ」と唯は目を細めて言った。「最初に見た時から、なんて頭の良さそうなお姉さんなんだろうって、思ってたんだ」
それを聞いた高瀬の満足そうな顔といったらなかった。喜色満面とはこのことだった。今なら両手にボンボンを持たせたら自然にチアダンスを踊り出すんじゃないかという気がしたくらいだ。
三人の心をつかむことにまんまと成功した唯は、隙をうかがってこちらを見やると、にんまりほくそ笑んでおまけに舌まで出しやがった。そして三人の視線が自分に向くとわかるや、「にゃん」などと抜かし、文字通りふたたび、猫をかぶった。
さすがに頭にきたので「みんな、騙されてるよ!」とよっぽど忠告しようかとも思ったが、考え直してやめた。経緯はどうあれ、結果的に三人が唯の育児に協力してくれるのなら俺としては願ったり叶ったりだ。何も自分から水を差すことはない。まぁ遅かれ早かれ、悪童の化けの皮も剥がれるだろう。
それにしても、と俺は唯と三人を見比べながら思った。それにしてもやはりどうにもつかみどころのない子だ。この子はいったい何者なのだろう? 20年後から来たというのは本当なのだろうか? 三人のうちの誰かの娘だったりするのだろうか?
同一人物かと疑うくらい裏表があるところは高瀬に似ている。
動物的とでも言うべき嗅覚の鋭さは柏木に引けを取らない。
7歳にして春雨が好物と言ってのけるあたりの奇矯さは月島譲りに思えなくもない。
うぅぅぅん、と俺が唸りながらあらゆる可能性に考えを巡らせていると、ぶぅぅぅん、とスマホがポケットで振動した。電話をかけてきたのは、悪友だった。
「よう悠介。元気にやってるかい」
そう言う太陽の声にすでに元気がなく、何かあったな、と推測することはできた。
「とくべつ元気ってわけじゃないけど、その声を聞くと、おまえよりはマシみたいだな」
太陽は電話の向こうで空笑いした。
俺は唯を横目で見てから言った。
「先に断っておくが太陽。何があったか知らんが、冬休みのあいだはおまえのために時間は割けないぞ。こっちも一騒動持ち上がって大変なんだ」
「そう言うなよ相棒」太陽はすがってくる。「あのな悠介。いきなりぶっちゃけるけど、オレは今人生最大のピンチに直面している。本当にマズいことになった」
「学校のトイレで紙がないことに気づいた時は『過去最大のピンチ』。期末テストの三教科で赤点をとった時は『史上最大のピンチ』。この一ヶ月だけでおまえはいったい何度最大のピンチに襲われるんだ?」
「今回のは本当のピンチだ! 悠介、どうか信じてくれ!」
オオカミ少年の寓話を持ち出して太陽を戒めようかとも思ったが、面倒くさくなってやめた。代わりに俺は、カフェで柏木から聞いた話を思い出した。
「なんだよ。『north horizon』が有名になってきて、メジャーデビューできるかもしれないんだろ? 今は人生最大のピンチどころか人生最大のチャンスじゃないか」
「それが吹っ飛んじまうくらいの危機に見舞われてるんだって」と太陽は言った。「何が起きたかは電話じゃちょっと話せないから、こっから先はできれば会って相談したい。今から出てこられるか?」
通話が終わると、聞き耳を立てていた柏木が声をかけてきた。
「葉山君でしょ? あのボンボン、なんだって?」
俺が電話の内容を話すと、唯がまず反応した。「ねぇパパ、タイヨー君って、誰?」
トモダチだ、と俺は言った。
「へぇ。パパにもいたんだ、トモダチ」
「うるさいっつの」
「人生最大のピンチ、ねぇ」柏木は半笑いする。「で、悠介はどうするつもりなの?」
「放っておけ。いつもみたいに大袈裟に言ってるんだろ。どうせたいしたことじゃない。だいたいこっちも嵐のまっただ中にいるんだ。あいつにかまけてる場合じゃない」
「ひどーい」と嵐を呼びこんだ張本人は言った。「パパ、お友達は大切にしなきゃだめでしょう? 見捨てるなんてもってのほかだよ!」
そうだそうだ、と月島はヤジを飛ばす。「これは唯ちゃんが正しい」
高瀬も唯の頭をなでる。「神沢君。話だけでも聞いてあげたら?」
「唯もタイヨー君に会ってみたいな」と唯は言い出した。「それに人生最大のピンチってなんなのかすごく気になる。お姉さんたちも気になるでしょ? そうだお姉さんたち。みんなでパパについていこうよ!」
きびきびと外出準備を始める三人ときらきらと瞳を輝かせる唯を改めて見比べて、俺はひそかにため息をついた。
なんにでも首を突っ込みたがる好奇心旺盛なところは、誰か一人に、というわけじゃなく、三人全員に似ている。母親が三人のうちの誰であれ、20年後の俺が奥さんと娘に振り回されているということだけは、どうやらたしかなようだ。




