第72話 ひとりじゃないよ 3
柏木恭一がこの世を去ったのは、タクシーに乗り込む姿を俺が見てからわずか5時間後のことだった。
娘の晴香と再会したのち大きな発作を起こした恭一は、市内の病院へと緊急搬送され、集中治療室において救命措置を施された。しかしながら元より十分な機能を備えていなかった恭一の心臓がふたたび鼓動を刻むことはなく、彼はその短くも濃密な――誰にも真似することのできない――39年の生涯を静かに閉じた。
治療にあたったベテラン医師によれば恭一の心臓は、「爆弾に例えるなら導火線に火のついた状態」だったそうで、この日の朝にはるばる富山から飛行機に乗ってやって来たと聞くと「自分はこれまで同じ病に苦しむ患者を数えきれないほど診てきたが、そんな無茶をする人はただの一人もいなかった」と驚きを隠せなかったという。
そしてその医師は医学的見地からこう分析した。
無茶な旅が心臓に致命的な負担をかけたのは間違いない。しかしもし仮に富山にそのまま留まっていたとしても、これだけ病状が進行していたなら、遅かれ早かれ彼の心臓はその動きを止めていたことだろう。彼はそれを本能的にわかっていて敢えてこの生まれ故郷に帰ってきたのではないか。どうしてもこの街で最期の時を迎えたかったのではないか、と。
とはいえ、と医師は無念そうに唇を噛んで結びの言葉とした。とはいえ、できることなら一分一秒でも長く生きる道を選んでほしかった。それが医師としての正直な心境だ。
うるせぇ、オレの生きる道はオレが決める。藪医者は黙ってやがれ、と恭一が恩を仇で返すように毒突くことはもちろんなかった。
神沢有希子は最愛の男の死に目に立ち会うことができなかった。
彼女が柏木恭一とのあいだに設けた双子を連れて富山からこの街に降り立ったのは、彼の死から丸一日が経過した日曜の夜だった。大型の台風が北陸地方に接近し、その影響で飛行機の欠航が相次いだのだ。
有希子が市内の病院に着いた時にはすでに、恭一の亡骸は柏木家へと移されていた。彼女は病院の夜間受付で途方に暮れた。父親に会えると聞かされていた双子はついに泣き出してしまった。その時柏木家では通夜が執り行われていた。
柏木家には恭一と生前親交のあった人たちが続々と弔問に訪れていた。
弔問客は幼い双子を連れて現れた有希子を情け容赦のない厳しい言葉で口々に非難した。もちろん彼らは有希子がどういった存在なのかよく知っていた。有希子が何をしたのかよく知っていた。そして彼女がしたことで晴香がいかに苦しめられたかよく知っていた。
土下座しろ! なんて声はまだ生温い方だった。どれだけ恥知らずならこの家の敷居をまたげるんだ、と有希子の厚顔さを皮肉る声もあれば、さりげなく彼女の足下に盛り塩を置く無言の声もあった。なかには、「おまえが恭一を殺したんだ!」という痛烈な声もあった。有希子の味方をする者はひとりとしていなかった。針のむしろだった。有希子と双子は焼香することはおろか、恭一の死に顔を見ることさえ許されなかった。
結局のところ恭一とは戸籍も別なら名字も違う、そんな女は柏木家にしてみれば招かれざる客以外の何者でもなく、門前払いにするのは当然といえば当然といえた。弔問客が罵声を浴びせるのも無理はなかった。恭一を看取ったのが娘の晴香ならば、葬儀の喪主を務めるのも晴香だった。
皮肉なことに恭一が最も愛したはずの有希子と双子だけが蚊帳の外で彼の死を悼んでいた。彼女たちは遺族ですらなかった。柏木恭一が死んだ途端に彼女たちは居場所を失ったのだ。そんな三人を見かねた恭一がおいおいおめぇらあんまりじゃねぇか、と棺桶を突き破って啖呵を切ることはもちろんなかった。
そのようにして土日が過ぎて月曜になった。風邪もすっかり治った俺はいつも通り朝起きて、いつも通り高校に登校した。しかしいつもとは違って前の席に柏木の姿はなかった。忌引きで彼女は今週いっぱい休むことになっていた。
担任の口からあらためて「柏木のお父様がおととい亡くなられた」と聞くのは、なんだか不思議な気分がするものだった。
なにしろ土曜の午後にうちでタバコをばかすか吸いながら自身の偏った人生観を饒舌に語っていた男が、月曜の朝にはこうして広く死者として認識されているのだ。土曜と月曜のあいだに本当は三ヶ月くらいあったんじゃないかという気がしたほどだ。
それくらい柏木恭一の死は俺にとって唐突だった。急だった。彼が死んだという実感をいまいち俺は持てずにいた。朝起きてリビングに行くとそこには恭一が灰皿代わりにしていた小皿が吸い殻に埋め尽くされた状態で残っていた。実感など持てるはずがなかった。
授業中もほとんど教師の話に集中できないまま昼休みを迎え、俺は簡単に昼食を済ませてからこれといった目的も持たず屋上へと向かった。空模様があまり良くないせいもあってか、屋上には誰もいなかった。
俺はフェンスの近くまで行ってそこから市内をぼんやり俯瞰した。一人の人間が死んだことなど気にも留めない様子で街は絶え間なく動き続けていた。柏木恭一も高校時代にこうしてこの風景を見たのだろうか、と俺はふと思った。きっと見たのだろう。煙となんとかは高いところが好きともいう。
“煙”という言葉を意識したからだろうか、ふいに長い煙突が目に留まった。それは町外れにある時代遅れの火葬場の煙突だった。滞りなく葬儀が進んでいれば、恭一の遺体ももうじきそこで焼かれることになるはずだ。
「ようやく見つけた」ドアの開く鈍い音が聞こえた後で、背後から無愛想な女の声がした。「ひとりきりで屋上から空を眺めたりなんかして、青春映画の主人公気取り?」
「そんなんじゃねぇよ」と俺は振り返って言った。声でだいたい予想はついていたが、そこにいたのはやはり藤堂アリスだった。
「あんたのことずっと探してたの」アリスは不満を顔に貼り付けて近寄ってくる。「まさかこんなところにいるなんて」
「その様子だと俺に感謝を告げに来たようだな」
「よくわかってるじゃない」と彼女は突っかかるように言った。「騙してくれてどうもありがとう。ミスコンの優勝者は市の収穫祭に出てタマネギの格好をさせられるなんて、私、あんたから一言も聞いてなかったんだけど!」
「すまんかった。うっかり言いそびれていた」と俺はしらばっくれた。「それで、収穫祭には行ったのか? ミス鳴桜さん?」
「行ったよ! タマネギの着ぐるみも着たよ! 山車に乗って市街地を一周したよ! だって仕方ないでしょう? 私が行かないって言ったら背広の大人たちがぞろぞろ説得にやってきて『大地の神様がお怒りになる』とかなんとか真顔で言うんだから! ミスコンもタマネギももうこりごり!」
恨むなら月島を恨んでくれ、と俺は密かに思った。
「それはそうと、聞いたよ」一息置いてからアリスはそう言って、フェンスにもたれかかった。「柏木晴香の父親、死んだんだって?」
俺は無表情で一度うなずいた。
「まだ若いでしょう? 死因は事故?」
「病気だ」と俺は言った。「生まれつき心臓が悪かった。数年前に手術でいったんは良くなったが、その後再発しておととい死んだ。39歳だった」
アリスは俺の顔を覗き込むように見た。そして不可解そうに言った。
「あんた、自分から母親を奪っていったその男のことを殺したいほど憎んでいたんじゃないの?」
「まぁね」
「その割にはなんだか、ちっとも嬉しくなさそうじゃない。あんたが直接息の根を止めたわけじゃないにせよ、憎んでいた男が死んだことに変わりはないってのに」
「たとえ相手がクソ野郎だろうとその死を喜ぶような人間にだけはなりたくない――なんて格好つけるつもりはまったくなくて、今はただ、柏木恭一という男が憐れに思えてならないんだよ」
「憐れ?」
「憐れな男だよ」と俺は言った。「まわりの人間を不幸にするとわかっていながら一人の女と生きることを選んだくせして、その女を幸せにできたかどうかすらわからないまま死んでいった男。そもそも幸せの意味を履き違えていたんじゃないかと疑問に思った時にはすでに、生きる時間がほとんど残されていなかった男。そんな男が憐れじゃなくていったいなんだっていうんだよ」
「憐れの骨格標本みたいなあんたにこうして憐れまれるんだから憐れな男なんでしょうね」と言ってアリスはシニカルに小さく笑った。「まぁ、なんにせよ、これで私の予言は当たったと考えてよさそうね。私言ったよね? あんたのママ、いつか必ず不幸になるって」
俺はうなずいた。アリスは確かにそう言った。
彼女はフェンス越しに街を見下ろした。視線の先には、ごねる子どもに手を焼く母親の姿がある。
「女手一つでまだ幼い双子を育てていくなんてただでさえ大変なのに、そのうえその双子には戸籍がないんでしょう? あんたのママ、これからどうするの? 現実問題としてどうやって生きていくつもり? そしてどうやって双子を育てていくつもり? 一度捨てたものはもう二度と戻ってはこないし、世間の風当たりはこれからますます強くなる。どこをどう進もうともイバラの道よね。少なくとも、輝かしい未来がマラソンのゴールテープみたいにあんたのママを待ち受けているなんてことは絶対にあり得ないでしょうね。……ま、好き放題に生きてきた報いとも言えるわね」
俺は黙ってそれを聞いていた。どんな相づちを打てばいいかわからなかった。
「さすがにこれで疑り深いあんたも私の言うことを信じる気になったでしょう?」とアリスは淡々と話し続けた。「“未来の君”と一緒になったって幸せになんか絶対になれないの。しかし皮肉なものよね。あんたの母親は、自分の身をもって息子のあんたに証明してみせたことになるのよ。“未来の君”と共に生きると、幸せどころか、不幸と破滅を招いてしまうってことを」




