第72話 ひとりじゃないよ 2
俺が玄関のドアを開けるやいなや、柏木恭一は我が物顔でズカズカ上がり込んできた。「入るぞ」の一言も「邪魔するぞ」の一言もなかった。
その厚かましさたるや人が体育後の楽しみにとっておいた冷凍みかんをちょうど食べ頃で勝手に平らげやがった前の席の女を彷彿とさせたわけだが、それもそのはず、ふたりは血のつながったれっきとした親子だった。
「おい!」と俺は土足のままリビングへ行きかねない恭一を制した。「なんであんたがうちに来るんだよ!」
「けっこう良い家に住んでんじゃねぇか」と言って彼は、壁や柱をべたべた触った手で俺の頭を撫でた。「ほら、こないだの夏に有希子がこっちに帰ってきただろう? で、今度はオレの番ってわけさ。『あなたも行ってきたら』って有希子が言いやがるもんだから、仕方なくな」
俺は恭一の大きな手を払いのけた。「帰る場所を間違ってるよ。あんたが帰るべき場所はここじゃない」
「うるせぇ! オレの行動はオレが決める。どこに行こうがオレの勝手だ。オレは悠介、おめぇに大事な用があってわざわざこうして来てやったんだ」
大事な用ってなんだ、と聞く前に柏木恭一は高瀬の存在に気がついた。
「おっと、お楽しみ中だったのかよ。それにしても、ずいぶん可愛らしい嬢ちゃんだな」
高瀬は天狗になるでもなく、丁寧に礼をした。
「はじめまして。高瀬優里と申します。父が高校時代にたいへんお世話になりました」
柏木恭一は俺にとってはただ一人の母親をかっさらっていった憎むべき男だが、高瀬にとっては父親の親友だった。あるいは今は仲違い中の友の父親だった。
「あんた、直行の娘か!?」恭一は高瀬をまじまじと見つめ、懐かしそうに顔をほころばせた。「なんだってまぁ、球を棒に当てることと棒を穴に入れることしか頭になかったあのガサツな野球小僧からこんなお淑やかな美人が……。あぁ、でも、よく見てみりゃ直行の面影があるよ。意志が強そうな鼻先とか、素直になれなそうな目元とか。優里ちゃんと言ったな? 直行は――お父さんは、元気かい?」
「はい、おかげさまで」と言って高瀬は目元を指でかいた。「お酒ばっかり飲んでますが、病気一つせず、ピンピンしてます」
「そいつはなによりだ。オレたちみたいに40近くになるとあっちこっちガタが来やがるからな。元気なのが一番だよ。女は金で買えても健康は金では買えん」彼自身は体調が優れないのか、一瞬胸をかばうような仕草を見せたが、すぐに言葉を続けた。「まぁ立ち話もアレだ。中で話をすっぞ」
「あのな」俺は眉をひそめた。「それは俺が言うセリフなんだよ」
誰かさんを相手にしているときと同じで、気がつけばいつのまにかペースを握られている。
♯ ♯ ♯
ついさっきまで俺と高瀬しかおらず広く感じたリビングは、馬鹿でかい図体を持つ柏木恭一の登場によって途端に狭く感じた。彼は無断でキッチンや風呂場を一通り見て回ると、無断でソファにふんぞり返り、無断でタバコを吸い始めた。そして俺に対し、何かを用意するよう手で催促してきた。
「なんだよ」と俺は言った。
「灰皿に決まってんだろ」と恭一は言った。「気が利かねぇな」
「そんなもんないよ」と俺は言った。「タバコなんか吸わないから」
「だったら空き缶でいい。ビールの空き缶ぐらいあんだろ」
「ねぇよ。酒なんか飲まないから」
恭一はわざとらしく煙を大きく吐き出した。「酒もタバコもやらないなんて人生の半分を損してるぜ。ひとり暮らしでせっかく誰に咎められることもないってのに、マジメと言うかなんと言うか……。まったく、こいつのチンコには毛が生えてんのかね?」
生えてるよ、と喉元まで出かかったが、高瀬の手前、ぐっと堪えた。「余計なお世話だ」
恭一は気怠そうに立ち上がると、食器棚から頃合いの小皿を持ってきて、それを灰皿代わりにした。もちろん無断使用だった。「ところでおまえたち、やることやってんのか?」
「はぁ!?」
「はぁ!? じゃねぇよ。カマトトぶんなよ。男と女がやることっつったらひとつしかねぇだろ。裸になって抱き合って、本能のおもむくままズッコンバッコン快楽を貪り合ってんのかって聞いてんだよ。みなまで言わせんな」
「む、貪り合ってなんかないよ」貪り合いたいけど、もちろん。
「アレをやらないなんて人生のもう半分を損してるぜ。人生は短い。ああだこうだ言ってたら終わっちまう。さっさとやっちまった方がいいとオレは思うがな」酒とタバコと性交が人生のすべてだと思っている男は、ソファの上からこちらを見下すように笑った。「その調子だとさては、チューもまだだな、おまえたち?」
俺と高瀬はどちらからともなく顔を見合わせた。高瀬はくすっと笑い、俺は鼻の下を伸ばした。
「なんだよ、チューはしたのかよ!」恭一はあやうくタバコを落としそうになる。「この流れだとてっきり否定すると思うじゃねぇか。びっくりさせんなよ!」
そんな風に我々はしばらくのあいだおそろしく非生産的な話をした。時間の浪費でしかなかった。
高瀬は今頃になってようやく「棒を穴に入れる」という恭一の言葉が何を言わんとしているのか理解したようで、赤面しきりだった。それまではそういう野球のスタイルもあると思っていたらしい。
一方俺は“大事な用”というのがずっと気になっていたが、恭一がそれを切り出しそうな気配はなかった。用がないなら娘に会いに行ってやれよ。高瀬と貪り合いたい下心も手伝ってそう言いかけたところで、高瀬が彼に質問を投げかけた。
「あの、今でも、小説は書かれてるんですか?」
「とっくの昔に廃業したよ。どうもオレには物書きの才能がなかったみたいでな」恭一は自嘲した後で、小説といえば、と思い出したように言った。「そういえば有希子から聞いたんだが、おまえたち、オレの『未来の君に、さよなら』を書き直してるんだって? なんでも今風にアレンジして新人賞を狙うっていう話じゃねぇか。賞金を悠介の学費にあてる算段だろ?」
高瀬はうなずいた。「私が執筆をして、神沢君には校正や添削をお願いしています。なんだかすみません。ご本人の許可なくリライトしたりなんかして」
「いやいや、そんなことはまったく気にしなくていい。むしろ、嬉しいよ」恭一は屈託なくそう言った。そして遠くを見るような目をした。「しっかし、高校時代にオレが執筆して有希子が校正やら添削を担当した小説を――どこの新人賞にも相手にされなかった小説を――20年後に直行の娘と有希子の息子が書き直してまた賞を狙うっつんだから、この言葉はあんまり好きじゃねぇが、こいつが運命って奴なのかねぇ」
運命って奴なんだろうな、と俺は内心で彼に同意した。
「優里ちゃん。ちなみに今ここに、原稿はあるのかい?」
「はい。いつも持ち歩いているので」
「どれ、オレに読ませてみろ」と言って恭一はタバコの火を消した。「原作者として良いアドバイスができるだろう」
高瀬は前のめりになる。「本当にいいんですか?」
「ああ。この程度で悠介に対する罪滅ぼしになるとは考えちゃいねぇが、オレにできることっつったら、これくらいしかないからな」
♯ ♯ ♯
恭一は高瀬版『未来の君に、さよなら』をタバコに手を伸ばすことなく読み進めながら、目についた問題点を片っ端から挙げていった。高瀬は素直に耳を傾けてそれらの言葉を一言一句ノートに書き留めた。
恭一はやはり体の具合が芳しくないらしく、歯を食いしばって痛みに耐えるような仕草を時折見せた。それでも文中に違和感を覚えれば抜かりなくそれを指摘し、高瀬に意見を求められればしっかり適切な助言を与えた。恭一が最後まで読み終わる頃には高瀬は、目から鱗が落ちたようにすっきりした表情をしていた。
「優里ちゃん、オレなんかよりずっとセンスがあるよ」と恭一は親友の娘を讃えた。「世辞なんか生まれてこの方ただの一度も口にしたことがねぇオレが言うんだから間違いねぇ。自信をもちな!」
「ありがとうございます」とくすぐったそうに言って、高瀬は鼻先を指でかいた。「頂いた意見を参考にして、さっそく一から書き直してみます! なんだか、新人賞をとれるような気がしてきました!」
「そうだろそうだろ。幸運を祈る」
高瀬は『未来の君に、さよなら』の表題をじっと見つめると、一呼吸置いてから恭一にこう言った。「小説とはまったく関係ないことなんですが、ひとつうかがってもいいですか?」
「もちろん。かまわねぇよ」
「恭一さんは幸せですか?」
出し抜けにそんな質問をした高瀬の脳裏には、先ほど俺から又聞きした“未来の君”に関する仮説があるに違いなかった。すなわち彼女は、〈未来の君と共に生きる人間は幸せではなく不幸になる〉という話の真偽をたしかめようとしているのだ。
何を差し置いても自らの幸せを追求してきたのが柏木恭一という男だけに、「幸せさ」と白い歯を見せて答えるかと思いきや、俺たちに見せたのは意外な反応だった。
「どうだろうな」と彼は真顔で言った。「前はてめぇの生きたいように生きるのが人間の幸せだと思っていた。でもある時から――そうだ悠介、おめぇが晴香と一緒に富山に来たあの時からだ――こんな風に思うようになった。結局のところ、人間の幸せの程度ってのは、他の誰かをどれだけ幸せにできたかで決まるんじゃねぇかって。
それで言うとオレは、誰かを幸せにできたんだろうか? 何もかも捨てて有希子と富山に逃げて双子ができた。それじゃあ有希子と双子は幸せだったか? この先もずっと幸せか? わからねぇな。全然わからねぇ。はっきりわかっているのは、逆にオレは多くの人間を不幸にしてきたってことだ。嫁の夏子、娘の晴香、妹のいずみ、それから悠介、おまえもその一人だな。
そんなオレは果たして幸せ者なのかねぇ? ははっ、どっちにしろ、ろくな死に方はできねぇよなぁ……。そんなわけで優里ちゃん、答えになってないかもしれないけど、わからねぇってのが、オレの答えだ」
高瀬は俺を気遣ったのか、それ以上は何も尋ねなかった。
恭一はひとしきり待って時計を見た。
「おっといけねぇ。もうこんな時間かよ。そろそろ晴香に会いに行ってやんねぇとな。あいつ、オレの顔を見たらぶったまげるだろうな」
俺はいちおう最低限の礼儀として玄関まで恭一の見送りに出ることにした。もちろん高瀬もついてきた。しかしどういうわけか恭一は、高瀬にだけリビングへ戻るようそれとなく促した。彼女は何かを察してそれに従った。
恭一は高瀬の後ろ姿をまるで自分の娘の成長を見届けるように眺めると、俺を玄関の外に連れ出した。家の前には恭一自身が呼んだタクシーが停まっていたが、彼はちょっと待ってくれという風に運転手に目配せした。神経質そうな初老の運転手はあからさまに嫌そうな顔をした。
そんなことはお構いなしに恭一は「すまんかったな」と言って俺に頭を下げてきた。「母さんがいなくなってから、苦労しただろう」
「なんだよ妙にあらたまって、あんたらしくない」と俺は驚いて言った。「別に謝ってもらわなくてもいいよ。俺なりに今はすべてを受け入れて前に進もうとしてるんだから」
「ははっ、そいつは見上げたもんだ。さすが有希子の息子だ」
恭一は息を大きく吐き出すと、声の調子を整えた。
「なぁ悠介。おまえに頼み事なんざできる義理じゃねぇっつのは重々承知してるんだけどよ、一個だけオレの願いを聞いてくれねぇか?」
「それが“大事な用”ってわけか」俺はやっと合点がいった。「本来なら無視して家に戻るところだが、小説にアドバイスをくれたことだし、聞くだけ聞いてやる」
恭一は俺の肩に大きな手を置いた。そして言った。「悠介、晴香のこと、頼んだぞ」
俺は彼の真意をはかりかねた。「おい、それはどういう意味だ!?」
恭一は何も答えず、俺にゆっくり背を向けるとタクシーに乗り込み、柏木の家がある方へ走り去っていった。
タクシーが見えなくなってもしばらくそのまま軒先で唖然としていた俺を我に返らせたのは、玄関のドアを開けて出てきた高瀬だった。見れば彼女は、俺のスマホを手に持っている。「神沢君、有希子さんから着信! どうする? 出る?」
俺は少し迷ってから出ることにした。出た方がいい、と直感が告げていた。
「もしもし、どうかしたの?」
「急にごめんね悠介」と母はおそらくそう言った。呂律が回っていない。動揺している。「突然おかしな質問をして悪いんだけど、恭一がそっちに行ってるとかいうような話を、誰かから――たとえば晴香ちゃんから――聞いてない?」
「誰かから聞くも何も」と俺は言った。「あいつなら昼過ぎにうちに来て、たった今晴香に会いに行ったよ」
それを聞くと母は電話の向こうでとてつもなく大きなため息をついた。頭を抱える母の姿が目に浮かぶようだった。
俺は電話を持ち替えた。「恭一がこっちに帰るよう仕向けたのは、母さんじゃないの? あいつはそう言ってたんだけど」
「まさか」と母は何かを諦めたような抑揚のない声で答えた。「恭一はね、心臓の病気が再発して、今はこっちの病院で入院中だったの。絶対安静の身である恭一に私がそんな馬鹿げた提案をするはずがない。今日の朝、病室から恭一がいなくなっていることがわかって一日中あちこち探し回っていたんだけど……そう、こういうことだったのね」
俺は恭一が発した言葉の数々を思い出さずにはいられなかった。健康は金では買えないと彼は言った。人生は短いと彼は言った。ろくな死に方はできないと彼は言った。そして晴香のことを頼むと彼は最後に言った。その最後の言葉の意味を俺はようやく理解した。
「神沢君、いったい何がどうなってるの?」と高瀬は言った。
俺は天を仰ぐと、電話の通話口を手でおさえてから、それに答えた。
「あの男は、柏木の――娘の前で、死ぬつもりなんだ」




