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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第二学年・秋〈孤独〉と〈キス〉の物語
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第71話 偽者の指輪で本物の愛を誓う 5


 路地裏から抜け出す方法を露天商に教えてもらった俺と高瀬は、無事に日の当たる表通りへと戻ってきた。長らくふたりのあいだに漂っていたぎこちないムードはきれいさっぱりどこかへ消え去り、さっきまでの沈黙が嘘のように会話は弾んだ。


 それもこれもすべては高瀬の左手で輝く指輪のおかげだった。よく似合ってるよと俺が言うと、彼女は無邪気に微笑んで大切にするねと答えた。そんなことを言われたら旅の疲れも吹っ飛ぶというものだった。この調子だといつまででも京都市内を歩き続けられるような気もしたが、あいにく自由行動の終了時刻が迫っていたので、俺たちは宿泊先のホテルがある市の中心部へと向かっていた。

 

 こりゃあ今夜は同室の太陽と湯川君に良い報告ができそうだ。風呂上がりにコーヒー牛乳のひとつでもあいつらにおごってやろうか。すっかり俺は舞い上がってそんな風に考え始めていたわけだけど、試練(・・)はまだ終わってなんかいなかった。

 

 五条大橋を進む俺たちの前に、忌々しいあの男が現れたのだ。

 

 そこにはよもや弁慶に憧れて千本の刀を集めているわけではないだろうが、周防まなとが立ちはだかり、文字通り俺と高瀬の行く手を阻んでいた。


「わからないなぁ」と彼はいつもの口癖で切り出した。「自由行動とはいえ修学旅行の一環なんだから、ふたりきりでデートなんかしてちゃ、だめじゃないか」

 

 無視してやり過ごしてもよかったが、ヒステリーを起こされると厄介なので、相手をしてやることにした。

「そういうおまえこそ班の仲間と一緒に行動しなきゃだめじゃないか。ああ、そうか。その救いようのない人格が災いしてそもそもどこの班にも入れてもらえなかったのか。可哀想に」


「無能な連中と無駄な時間を過ごすなんて、こっちから願い下げなんだよ」周防は減らず口を叩くと、二歩三歩とこちらに近づいてきた。「こうして面と向かって話をするのは久しぶりだな、神沢悠介」


「できればもう一生その目障りなツラを拝みたくなかったんだけどな」

「まぁそう言うなよ。こう見えても僕は君のことをそれなりに評価してるんだぞ」


「やめろよ、気持ち悪い」

「冗談に決まってるだろ。のぼせ上がるな、凡人」

 

 橋の下を流れる鴨川に突き落としてやりたい衝動を俺はぐっとこらえた。

「それより周防。待ち伏せみたいな真似までして、いったい何の用だ?」


「優里に大事な話があるんだ」と周防は言った。「まぁでも神沢。君も決して無関係というわけじゃない。というか大いに関係がある。だからこの場にいることを許してやる」


「そりゃどうも」と言って俺は隣にいる高瀬の様子をうかがった。なぜかどことなく決まりが悪そうな表情をしている。どうやら彼女は、これから周防がどんな話をするのか、おおよそ見当がついているようだ。

 

 周防は言った。「優里、いい加減に目を覚ませ。この男は優里との約束を守れやしない。トカイとの結婚を阻止して大学に行かせるとこの男は優里にのたまった。それから一年半が経った。そのあいだ、何か一つでも状況が好転したかい? 一歩でも物事が前進したかい? 具体的な変化は何もないままだろう? 結局こいつは口先だけの腑抜(ふぬ)け男なのさ。優里。目を覚ますんだ。優里みたいな頭の良い女がいつまでこんなどうしようもない男との約束に固執しているんだ」


「約束は守る」と俺は口を挟んだ。


「黙れ」とすかさず周防は怒鳴った。「だいたい君は、優里のことはそっちのけで柏木晴香や月島涼と一緒にいることだって多いじゃないか。他の女にかまけている暇があるなら、優里のために動いたらどうだ」

 

 痛いところを突かれた俺は、黙るしかない。

 

 周防は高瀬に視線を転じた。「なぁ優里。頼むから正直に答えてほしい。優里だって本音を言えばこの男との約束を信じ続けていてもいいのか、不安で仕方ないんだろう?」


「そんなことない」と高瀬は返した。「私は神沢君を――約束を――信じてる」


「もっと端的に言おう」と周防は尻込みすることなく続けた。「神沢を信じたままで果たして幸せ(・・)になれるのか、自分でもわからなくなっている。違うかい?」


「そんなことない」と高瀬は繰り返したものの、声量は明らかに落ちていた。それを周防が聞き逃すはずがなかった。彼は陰湿な笑みを浮かべると、ここぞとばかりにまた一歩距離を詰めてきた。


「わからないなぁ、優里。どうしても認めたくないようだね。それならここで僕からひとつ、質問をさせてもらうよ」


「お願いまなと、これ以上はやめて」

 お願い、と高瀬は繰り返すが、周防が聞く耳を持つはずがなかった。彼が口にしたのは、予期せぬ言葉だった。「未来の君(・・・・)

 

 それを聞くと高瀬は力なくうなだれた。「だめだって……」

 

 俺は隣を見た。「“未来の君”のこと、周防に話したのか?」

 高瀬はうつむいたまま何も答えなかった。

 

 周防は言った。「学園祭の劇の最中にこの男と柏木晴香がキスをしたその次の日、たまたま校内で僕と会った優里はこんなことを聞かせてくれたよね。『私は“未来の君”の占いを受けた。それはとてもよく当たる占いだ。“未来の君”とは幸せをもたらす存在だ。そして私の“未来の君”はまなとなんだ』って。


 ねぇ優里。神沢を本当に信じているというのなら、どうしてこの話をわざわざ僕に聞かせたりなんかしたんだろう? 神沢のことが信じられなくなったからこそ、僕にすがりたい一心で打ち明けてくれたんじゃないのかな? 結局あの日はそれだけ話して優里はどこかへ行ってしまったけれど、その後ろ姿には不安や迷いが滲み出ていたよ」

 

 俺は京都大学のキャンパスで高瀬にされた質問を思い出していた。「一緒に大学に行くっていう約束、今も信じていていいんだよね?」と彼女は聞いてきた。その顔にも不安や迷いが滲み出ていた。それは誰のせいかと言えば間違いなく俺のせいだった。高瀬は何も悪くなかった。


「優里は何も悪くないんだよ」と周防は、俺の心を読んだわけではないだろうが、そうささやいた。「不安になって当然さ。迷って当然さ。悪いのはすべて神沢なんだ。聞こえの良いことを並べ立ててその気にさせて、結局何も変えられない。そんな男は信じられなくなって当然なんだよ。こいつの言葉や覚悟なんてもんは、しょせん偽物なのさ!」


「もうやめて!」とそこで高瀬が声を荒らげた。「わかった。気持ちがまったく揺れなかったと言えば嘘になる。それは認める。でもやっぱり今は、神沢君の言葉や覚悟は本物だと思ってる。だってどんなにつらくても私が神沢君のおかげで前を向いてワクワクできたこれまでの時間は、絶対に偽物なんかじゃないから!


 あのね、まなと。私はまなとが思ってるほど頭が良いわけじゃないんだよ。馬鹿だって笑うかもしれないけど、夢を見ちゃうんだよ。私は夢を見せてくれた神沢君を信じる。だから“未来の君”のことは忘れて。神沢君のことをこれ以上悪く言わないで」


 その反応がよほど気に障ったのか、周防は鼻の穴を膨らませた。そして目ざとく、高瀬の左手で輝くものを見つけた。

「なんだその、どこかの貧民が内職で作ったような安っぽい指輪は? しかも薬指? 薬指……! そういうことか! 神沢、どこまでもこざかしい奴だ! 偽物の指輪を優里に贈って点数を稼ごうなんて、いかにも偽物にまみれた君らしい愚かな発想だよ! 優里にはこんなゴミみたいな指輪はふさわしくないっ!」

 

 言うが早いか周防は高瀬に接近すると、左の手を強引につかみ、薬指から俺が先ほどつけたばかりの指輪を引き抜いた。そして何のためらいもなくそれを鴨川へ投げ捨てた。指輪は()をえがいて空を舞い、ほどなく小さなしぶきをあげて川に落ちた。


 その指輪が指輪として生きたのはわずか30分にも満たない時間だった。短い命だった。胡散臭い露天商から青臭い男子高校生の手に渡り、そしてようやく女の子の指を彩ったかと思えばそれも束の間、ゴミ呼ばわりされたあげく川に投げ捨てられる。俺は指輪の哀れな運命を思うと言葉も出なかった。

 

 一方高瀬は、すぐに口を開いた。「まなと! なんてことするの!」

 

 周防はわざとらしくため息をついた。

「優里、僕が本物をプレゼントする。本物のダイヤがついた、本物の指輪を。だから僕と一緒に行こう。神沢にはここで見限りをつけるんだ」

 

 高瀬の体はかすかにではあるが震えはじめていた。ふたつの拳はぎゅっと固く握られ、視線は虚空の一点に注がれている。感情が昂っているのは間違いないようだ。感情が昂ると温厚で淑やかな普段の姿からはとうてい想像もつかない行動に及ぶのが、高瀬優里という女子高生だった。


 ある時は望まぬ結婚を自身に押しつけた大人たちを聞くに堪えない言葉で罵り、またある時は身勝手な理由で息子を捨てたくせして一丁前に母親面をする女に強烈なビンタを食らわせたりもした。そして今回もその例に漏れなかった。

 

 高瀬は何かを決意したように一度うなずくと、俺の正面へと回りこみ、つま先立ちして身長差を縮めた。そして何の断りもなく俺の両肩に手を置くと、そのまま顔を近づけてきて、口と口とを接触させた。


 それはあまりにも突然の出来事で、俺は心の準備というものがまったくできていなかった。もちろん腰に手を回そうとか舌を絡ませようとか考える余裕などあろうはずもなかった。


 さっきまでの威勢はどこに消えたのか周防は口をあんぐり開けて立ち尽くしていた。

 観光バスの車内からはおばちゃんたちが好奇のまなざしをこちらに向けていた。

 空には隅々まで夕焼けが広がっていた。

 鳥の一群がその中を飛んでいた。

 俺は高瀬とキスをしていた。

 

 口づけを終わると高瀬は振り返り、周防に向けて言い放った。


「まなと、これが私の答え。わかったら、私たちの前から消えて」

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