第71話 偽者の指輪で本物の愛を誓う 4
京都大学のキャンパスをあとにした俺と高瀬は、再びあてもなく市内をさまよい歩いていた。ふたりのあいだに漂うムードは決して良くはなかった。最悪と言っても過言ではなかった。無理もなかった。
ちょっとした下ネタジョークにも顔をしかめるほど貞淑な高瀬が――いくらそういう約束をしていたとはいえ――「キスをしよう」と切り出すには相当の勇気を要したはずだ。にもかかわらずこともあろうに俺がそれを拒んだのだ。ギクシャクしない方がおかしかった。
ただひとつ希望があるとすればそれは、高瀬が宿泊先のホテルに帰ったりしなかったことだ。俺に愛想を尽かして自由行動を早めに切り上げたとしてもなんら不思議ではなかったけれど、彼女はそうはしなかった。俺の隣に居続けることを選んだ。
つまりまだ何かを俺に期待していると考えるのは、童貞男のひとりよがりな妄想などではないはずだった。俺は起死回生の策が何かないか考えながら、京都の市街地を歩いていた。
考え事をしながら歩いたせいか不覚にも路地裏に迷い込んでしまったのは、夕方になって日も少し翳ってきた頃のことだった。ここがどこなのか誰かに尋ねようにもあいにく人影は見当たらなかった。そしてどういうわけかスマートフォンの位置情報も機能しなかった。
やむなくそのまま薄暗く入り組んだ路地裏を進んでいくと、少し開けた袋小路に出た。俺がすぐさま踵を返そうとしたのは、そこには乞食みたいな風貌のいかにも怪しげな30歳前後の男がいて、こちらに手招きしていたからだ。
ぱっと見では彫りの深い顔の日本人かとも思ったが、目を凝らしてよく見れば彼は外国人であることがわかった。この男はどうやら露天商であるらしく、床に布を広げてその上で時計やら指輪やらネックレスやらを売っていた。そして合い言葉を言えば布の下から白い粉の入った小袋かまたあるいは油紙で包まれたピストルを出してきそうな雰囲気があった。
本能的に高瀬に何かあってはいけないと思い「引き返そう」とつぶやいたが、本人の姿はすでに隣にはなかった。彼女は売り物の前でしゃがみこみ、ひとつひとつを手に取って興味深そうに見ていた。仕方がないので俺は用心しながら男に声をかけた。
「Do you speak Japanese?」
「ぼちぼちでんなぁ」と彼はおかしなイントネーションで答えた。「ようこそ来たね、お兄サンお姉サン。これもきっと何かのエンね。一期一会とも言うね。せっかくだから何か買っていってちょうだいよ」
「ぼちぼちどころかぺらぺらかよ」
それを聞くと彼は人当たりの良い笑みを浮かべ、いえいえそんな、と日本人的に謙遜した。俺の心配は取り越し苦労だったようだ。
「こんなところで商売なんかしていて大丈夫? 自治体の許可とか絶対とってないでしょ?」
「ナリフリかまってられないの」露天商は悪びれる様子もなかった。「ゲイシャ遊びで散財してしまってこのままじゃ国に帰れないね。青息吐息とも言うね。だからワタシを助けるつもりで何かお買い上げしてね」
その話が本当かどうかは疑わしかったが、とりあえず俺はお情けで高瀬の隣に腰を下ろし、目についた腕時計を手にとってみた。すると露天商はぱちんと指を鳴らした。
「お兄サン、あなた違いがわかる男ね。それ、ロレックスよ」
一瞬俺ははっとしたが、値札を見てほっとした。「だまされないぞ。もしこれが本物なら、ゼロの数が三つ足りないよ」
ロレックスの偽物を元の位置に戻し別の時計を持ち上げると、彼は再度指を鳴らした。「それはオメガね。やっぱりお兄サン、お目が高いね」
「はいはい、オメガだけにね」
俺と露天商がそんなくだらないやりとりをしているあいだ、高瀬はすっかりアクセサリーに心を奪われていた。とっかえひっかえに品物を試着しては、こっちもかわいいあっちもかわいいと一人で盛り上がっている。そんな隙だらけな姿をすぐそばで見ていると、やっぱり高瀬も女の子なんだなぁと思わずにはいられなかった。
なかでも彼女はイミテーションのダイヤがついた銀の指輪を気に入ったようで、いろんな角度から観察したり、空にかざして光り具合をたしかめたりしていた。
「お姉サン、あなたとってもビューティね」と露天商は高瀬の顔を見て言った。「おまけに頭も良さそうね。才色兼備とも言うね。美人さんだからこそ、そのシンプルな指輪はきっと似合うね。そうだお兄サン、せっかくだし彼女に買ってあげなさいよ」
「はぁ?」俺は思わず立ち上がった。「この指輪を?」
「なんかフマンある?」
「だってどう見たってこれ、偽物だろ? リングの素材はプラチナでもチタンでもなく安っぽいアルミだし、ダイヤなんかなおさら本物なわけがない。そんなの素人目にもわかる。こいつは腕時計と同じで、模造品だ」
「お兄サン、さっきからよくわからないこと言うね」彼は肩をすくめる。「本物か偽物か。それがどれだけのイミを持つ? お姉サンがこの指輪を気に入っている。それがすべてじゃない? 今このシュンカン彼女を魅了しているのはどの指輪? 世界中でこの指輪だけでしょう? ティファニーの指輪でもブルガリの指輪でもないね。それならこの指輪こそが今は価値があるんじゃないの? もっと今を大事に生きなきゃだめよ、お兄サン。歳月不待とも言うね」
それはバッタもんを売りつけるための詭弁にしか聞こえなかったが、彼が言うこともたしかに一理ないわけじゃなかった。事実その指輪は、不思議と高瀬に似合っていた。そういえば昨夜湯川君にも諭された。「贈り物で大事なのは金額の多い少ないじゃなく、気持ちなんだよ」と。どうも俺には、プレゼントのセンスというものが欠落しているらしい。
俺がそんなことをぼんやり考えていると、露天商はわざわざ身を乗り出してまで耳打ちしてきた。
「お兄サン、キツいこと言ってソーリーね。でも彼女のこと好きなんでしょう? 指輪は偽物でも愛が本物ならノープロブレムね。私が言いたいのはそういうことね。あまり難しく考えすぎると人は何もできないよ。自縄自縛とも言うね」
偽物の指輪で本物の愛を誓う、か。
内心でそうつぶやいた俺は自嘲せずにはいられなかった。自分の気持ちがいったいどこに向かっているのかわからなくなっている今の俺にとってそのフレーズは、皮肉以外の何物でもなかった。いずれにしても、これで贈り物は決まった。指輪を見つめる高瀬の目の輝きは本物だ。
「なぁ高瀬。その指輪、そんなに気に入ったの?」
彼女は混じりけのない笑顔で大きくうなずいた。
「どうしてかはうまく言えないんだけど、なんだかとても惹かれるの」
俺は少し悩むふりをしてから、言った。「それじゃその指輪、俺がプレゼントしようか」
「え」高瀬は立ち上がった。「本当に、いいの?」
「まぁほら、この人もこのままじゃ国に帰れないって言うし」
「うれしい」と高瀬は声を弾ませて言った。「ありがとう、神沢君」
俺は指輪の値段をチェックした。居酒屋のアルバイト代4時間分でまかなえる金額だった。これで高瀬が喜ぶと思えば、痛い出費ではない。俺が代金を支払うと露天商は高瀬から一旦指輪を預かり、慣れた手つきで値札のタグを外した。そしてどういうわけか、指輪を高瀬ではなく俺に渡そうとした。それで俺はわけがわからずきょとんとした。「なんで?」
「なんで? じゃないよお兄サン!」と露天商は呆れたように言った。「指輪を女の子に自分でつけさせるつもり? そんな馬鹿な話ないね。笑止千万とも言うね。お兄サン、あなたが彼女の指につけてあげるのよ」
高瀬は今どんな顔をしているんだろうと思って横目でそっと様子をうかがってみれば、照れくさそうに髪をすいたり頬をかいたりしているものの、表情はまんざらでもなさそうだった。露天商は俺の手に指輪をむりやり握らせると、次に高瀬に声をかけた。
「ホラホラ、お姉サンもボサッとしてないの。お兄サンの前に手を出さなきゃね」
「は、はい!」
急かされた高瀬がとっさに――そしておそらく無意識に――伸ばしてきたのは、右手ではなく左手だった。この状況で左手を俺の前に差し出すことが何を意味するか、それがわからないほど彼女は幼稚じゃなかった。
やはり高瀬はすぐに事の重大さに気づいたらしく、頬を真っ赤に染めると視線をせわしなく動かした。それでも彼女はその手を戻そうとはしなかった。俺は少しのあいだじっと待ってみた。それでも彼女はその手を戻そうとはしなかった。となれば次に動くのは俺の番だった。
高瀬の選択肢は2分の1だったが俺の選択肢は5分の1だった。つまりどの指に指輪をつけるかという問題があった。それは難題だった。選択次第では自分が高瀬にまたひとつ大きな約束をすることになると気づかないほど、俺も幼稚じゃなかった。そしてある意味では俺は、気持ちと覚悟を試されているとも言えた。
なかなか決心がつかない俺は、先ほどの太陽の言葉を思い出していた。「男を見せろ」とあいつは情けない俺に活を入れた。どうやら今がまさにその時であるようだった。高瀬が左手を出すことに決めたのなら、俺は男としてそれに応えなきゃいけない。指輪を通す指は、ひとつしかない。
「最近いろいろあったけどさ、俺が今までがんばってこられたのは、高瀬のおかげだから。その感謝をこめて」そう言うと俺は、指輪を目の前のすらりとしたきれいな薬指に通した。指輪は奇跡的にぴたりとはまった。「これからも、よろしく」
〈今日は一生に一度の記念日になりそう〉。
高瀬が先ほど引いたおみくじにはそう書かれていたが、これじゃあまるで今日という日が婚約記念日みたいだ。
もっとも誓いの舞台は光が降り注ぐ教会ではなく打ち捨てられた路地裏であるし、立会人は寡黙な神父ではなく饒舌な露天商であるが。




