第71話 偽物の指輪で本物の愛を誓う 3
太陽の粋な(?)計らいによりふたりきりにされた俺と高瀬は、どちらからともなく京都の市街地を歩き出した。地図も持たず行き先も定めず、ただひたすらに歩き続けた。
秋の穏やかな日に知らない街を好きな娘と一緒にあてもなく歩く。
それは本来であれば何物にも代えがたい心躍る体験のはずなのだが、いかんせん例の一件がずっと胸に引っかかっているせいで、景色を楽しむことはおろか、会話をすることさえできなかった。そして引っかかりがあるのはもちろん高瀬も同じだった。俺たちは一言も口をきかぬまま、無目的な旅を続けた。
ふたりはいつしか、鴨川のほとりを歩いていた。川の岸辺では陽気に誘われた人々が思い思いの時間を過ごしていた。特に目立ったのは若い男女のカップルだった。彼らは皆午後の日差しの中で幸せそうな表情をしていた。ぎこちない表情で互いの出方をうかがっている男女なんて俺たちくらいなものだった。隣にいるのが柏木だったら楽しかっただろうな、とふと頭に浮かび、それを払ったりもした。
高瀬が口を開いたのは、鴨川沿いのその道を北へ歩いて20分ばかり経った頃だった。
「京大のキャンパスって、この近くにあるんだ」
俺は彼女の視線の先を見てみた。たしかに案内標識には銀閣寺や平安神宮に混じって、“京都大学”の文字がある。
「ねぇ神沢君。せっかくだし、キャンパスに潜入してみない?」
俺は自分の偏差値を思い出し、身震いした。
「京大の学生でもないのに、いいのかな?」
「構内に入るだけなら一般の人でもいいはずだよ」と高瀬は言った。「それに、日本で最高レベルの大学を見学するなんて、テーマパークで着ぐるみと記念撮影したりするより、よっぽど修学旅行の趣旨にかなってると思わない?」
♯ ♯ ♯
高瀬の言う通り、キャンパス内に入るには学生証もA判定も要らなかった。俺たちはまず大学のシンボルにもなっている時計台を真下から見上げ、首が痛くなると売店へ向かった。
そこで高瀬は京大のロゴが入ったボールペンやら定規やらを手当たり次第に買い求め、文房具コレクターとしての本領を発揮した。なかには3・7・11のような素数にだけ目盛りが入ったユニークなものさしがあり、俺はよっぽどそれを高瀬への贈り物にしようかとも思った。
けれど素数のものさしだけに「神沢君、割り切れないことが私にあるのかはかりたいのかな」なんて風に邪推されたら面倒くさいので、結局はやめた。
買い物が終わると俺たちは、歩き疲れていたこともあって、目についたベンチに腰掛けた。
「鳴桜高校から京大に行った人って、どれだけいるんだっけ?」と高瀬は聞いてきた。
俺は母校の進路実績を思い返した。
「たしか、5、6年前に助役の息子が合格して以来、いないはずだよ。他の旧帝大ならちらほらいるけど」
「はぁ」と高瀬は息を吐いて、前を行き交う学生たちを一人一人見た。「私たちって地元だと『進学校の生徒だ』って持てはやされているけど、上には上がいるんだね」
「揚げ足をとるようだけど、上には上がある、ね」
高瀬ははっとして苦笑した。「これじゃあ京大には受からないね」
交わされたのはそんな実に当たりさわりのないやりとりだった。でもそれでよかった。何はともあれ学園祭以来はじめて会話らしい会話ができたのだ。やはり“大学”は、どんな時も俺たちをつなぐ唯一無二のキーワードだ。高瀬は続けた。「神沢君、最近きちんと勉強してる?」
「まぁそれなりに」と俺は答えた。「そういう高瀬は?」
「自分ではしてるつもりなんだけどね。実はこないだの模試の結果が目も当てられないほど散々な結果だったの。……だから冬休みになったら、予備校の冬期講習を受けようかと思ってる。もちろんお父さんには内緒で」
俺は聞いているしるしにうなずいた。
高瀬はそこに何かを探すように空を見上げた。そして言った。
「あのね神沢君、“一緒に大学に行く”っていう約束、今も信じていていいんだよね?」
急に何を言い出すんだ、と思って俺は慌てた。しかしよくよく考えてみれば、高瀬が不安になるのも無理はなかった。受験勉強にいまひとつ身が入らないのも当然だった。俺はベンチの上で彼女との距離を詰めた。
「もちろんだよ、信じていてくれ。何があっても俺は高瀬を大学に行かせるし、俺も大学に行く。約束は守る」
「神沢君が獣医学部で、私が文学部」
俺はうなずいた。春に死んだモップを思い出していた。
「獣医師と翻訳家。それが俺たちの将来の夢だ」
それからしばらくはまた無言の時間が流れた。
やがて高瀬が口を開いた。
「約束といえば、もう一つ、あるよね」
なんのことだっけ、と空とぼけるほど俺は野暮ではなかった。「ああ、あの約束ね」
高瀬は緊張気味にうなずいた。
「神沢君のがんばりもあって学園祭で優勝できたんだから、私も約束、守らないとね」
俺は息を呑んだ。そして無意識に唇を舐めた。「高瀬、それは――」
「約束だから」と言って彼女は白い頬を染めた。「神沢君、キスしよう」
俺はあやうく高瀬に飛びついてそのまま唇を奪ってしまうところだったが、そこは冷静になって、周囲を見渡した。ちょうど今は授業中であるらしく、人の姿は確認できなかった。高瀬とのキスが俄然現実味を帯びてきたところで、「その前に」と彼女は言った。
「ひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがあるの」
俺は早まる気持ちをぐっとおさえ、話すよう促した。
「あの時のことなんだけど」と彼女は言った。「劇が最終盤まで進んで、あとは騎士グレイと王女シンシアが駆け落ちするシーンを残すだけになったじゃない? グレイ役の神沢君はシンシア役の加藤さんの手をひいて舞台袖へ消えればそれで劇は終幕だった。でも神沢君はそうはしなかった。加藤さんを無視してひとりで客席に降り立った。あの時、どうしてあんな突拍子もない行動をとったの?」
作り話でごまかしても仕方ないので、俺は正直に答えることにした。
「客席の中に、占い師の姿が見えたんだ」
「占い師? “未来の君”の?」
俺はうなずいた。「奴をつかまえて“未来の君”の真実を問い質すつもりだった。なにしろこの一年半のあいだどれだけ探してもずっと見つからなかったのにわざわざ向こうから出向いてきたんだ。このチャンスを逃しちゃいけないと思うと、体がひとりでに動いていた。ま、残念ながら、つかまえることはできなかったんだけど」
「そういうことだったんだ……」
「ごめんね、台本にはないことをして」
「台本にはないこと」と繰り返した高瀬の頭にはきっと、その後のシーンが思い出されているはずだった。騎士グレイと踊り子レイチェルによる想定外のキスシーン。そしてやはり台本を担当した高瀬は、あの名前を口にした。「それじゃあ、晴香と事前に何かを示し合わせていたとか、そういうことではないんだね?」
「そんなことは断じてない」と俺はきっぱり否定した。
高瀬はまだ何かを言いたそうにもじもじしていたが、やがて自分を落ち着かせるように深呼吸をすると、静かに目を閉じた。それからささやいた。
「おねがい、します」
おねがいされた俺はベンチの上で体を反転させ、高瀬と向かい合った。
あらためてこうしてよく見てみれば、時が経つのを忘れてしまうほど彼女はきれいな顔をしていた。鼻筋は何に気兼ねするでもなくまっすぐ通り、長い睫毛は一本一本が陽光を浴びてきらきら輝いている。そして唇の縦と横の比率はダヴィンチが設計したんじゃないかと思うくらい絶妙だった。
予期せぬことが起きたのは、その美しい唇に吸い込まれるように俺が顔を近づけた、その時だった。
目の前の高瀬に、柏木が重なって見えたのだ。
どうしてよりによってこのタイミングでそんなことが起こるのかわからない。高瀬と一緒にいるあいだは柏木のことは極力考えないように努めていたのに。とりわけ京大のキャンパスに足を踏み入れてからは一度も考えずに済んでいたのに。
高瀬が直前に柏木の名を出したからだろうか? あるいは劇のクライマックスの話をしたからだろうか? いずれにせよ俺の意識を捉えていたのは、今ここにいる高瀬ではなく、今ここにいない柏木だった。
柏木の顔は何度頭を振ろうが幾度天を仰ごうが、俺の頭から消えることはなかった。他の女の顔がちらついた状態で口づけを交わすなんて、どう考えたって高瀬に対して失礼というものだった。
俺は自分の頬を殴りそうになった手をなんとか高瀬の肩に置いて、言った。
「ごめん、ちょっと、できそうにない」
柏木にキスをしようと言われた時は高瀬のことを考えて失敗し、高瀬にキスをしようと言われた時は柏木のことを考えて失敗する。
そんなどうしようもない自分に、つくづく嫌気がさす。
湯川君、ここで決められない俺は、やっぱり主人公なんかじゃないよ。
心の中では、そう嘆いている。




