第71話 偽物の指輪で本物の愛を誓う 1
大勢の観客の目をはばかることなくキスをする。
劇のクライマックスでほとんど暴挙に等しい――もちろん台本にはない――行為に柏木は及んだわけだけど、いったいなにが彼女をそうさせたのか、要因らしきものはいくつか思い当たった。
まず見落としてはならないのは、高瀬への対抗心だろう。悲劇のヒロインといえば聞こえは良いものの、実質的には脇役とさほど変わらない損な役回りをあてがってきた高瀬に対し、柏木はどうにかして一矢報いてやろうと思っていたに違いなかった。
高瀬の指示に背いて本番でアドリブを連発したのはまさにその意思の表れに他ならず、そう考えていくと悲しいことに俺の唇は憂さ晴らしの道具にされたと言えなくもなかった。
次に思い出されるのは、俺の部屋で一緒に舞台のDVDを見た時のことだ。あの日柏木は劇中の情熱的なラブシーンに触発されて、俺にキスをするよう求めてきた。高瀬が受けた占いで心がささくれ立っていたこともあって、俺はそんな彼女の体を押し倒した。
しかしいざあと数センチで唇が重なるという段階になって柏木は気まぐれを起こし、キスを拒んだのだった。やっぱりファーストキスはロマンチックなシチュエーションがいいとかなんとか言って。
劇の本番中がそれに該当するかどうかはともかく、あの日以来彼女がキスを強く意識するようになったのは間違いない。まぁスポットライトは当たっていたのだから、日当たりの悪い六畳間よりはいくらかロマンチックではあったかもしれない。
そしてなんといっても忘れてはいけないのは、劇が始まる直前の出来事だ。奥村に殴られて痛みが引かない俺の左頬に月島はキスを――彼女の言葉を借りればチューを――したわけだけど、それを柏木はその大きな二つの目でしっかり目撃していた。当然彼女は怒り狂った。なぜか俺まで怒られた。不可抗力だったのに。
文句はさておき、そこで負けず嫌いの柏木が「左頬を月島が奪ったのならあたしは右頬」という発想になるはずもなく、あの時を境に俺の唇を奪うことが彼女の中で最重要課題になった可能性は大いにあった。
何はともあれ柏木は神聖な校内で俺にキスをした。生徒や父兄や来賓が見つめるなか俺にキスをした。至った経緯はどうあれそれはまぎれもない事実だった。
長い鳴桜高校の歴史の中でも類を見ないその事件の一報はまたたく間に校内に知れ渡り、彼女はお偉方にこっぴどく叱られた。そしてなぜか俺まで叱られた。不可抗力だったのに。
そのように幕が下りた後も何かと周囲を騒がせた我らが2年H組の罪深き創作劇であるが、これが評価それ自体はなかなかどうして悪くなかった。閉会式の投票では優勝候補と目されていた3年B組のミュージカルとほぼ互角の勝負になったほどだ。
そして驚いたことにわずか一票の差で俺たちが勝ってしまった。
後になって聞いた話によればなんでも、審査員の一人に特殊メイクの勉強を熱心にしている物好きな生徒がいたという。
彼曰く「台本は二流、演技は三流だったが、騎士グレイの頬にあった痣のメイクだけは一流だ。あそこまでリアルな痣はプロのメイクアーティストでも作ることができない」らしく、その寸評は他の審査員の投票動向に少なからず影響を与えたらしかった。
それを聞いて俺は吹き出さずにはいられなかった。一流もなにも俺の頬にあるのは本物の痣だった。作り物なんかじゃなかった。ボクサー崩れに殴られてできた正真正銘の痣だった。
いずれにせよこの痣が一度はあきらめた優勝を大きく手繰り寄せたのは事実で、文字通り“ケガの功名”といえる結果を受けて、左頬の痛みは心なしかやわらいだのだった。
ちなみに余談だが、優勝に貢献した個人を表彰する特別賞には、小道具担当の男子が選ばれた。例の、武器防具作りにすっかり魅了されてしまった――おそらく生まれてくる時代を間違えた――彼だ。
本来であればメイク担当の女子生徒が選ばれるはずだったのだが、「私は特別なことは何もしてないから」と受賞を辞退したのだ。その通り。たしかに彼女は特別なことは何もしていなかった。
それでも小道具担当の男子は受賞を素直に喜び、俺に感謝を述べた。そして剣やら鎧やら兜やら、騎士グレイの装備一式を記念にぜひ受け取ってほしいと言ってきた。おれの中で神沢君はいつまでも騎士グレイだよ! と。
正直こんなもんをもらっても置き場に困るだけだったが、彼の濁りのない目を見れば、ぞんざいには扱えなかった。それで仕方なく校舎三階隅の俺たちの秘密基地に飾っておくことにした。
せっかくなので、この秋の冒険の証ということにしておこう。
さて。
優勝できたということは、とりもなおさず、あの約束が有効になるということである。
しかし肝心の高瀬はといえば――だいたい予想できたことだが――学園祭以来俺と目を合わせてくれなくなってしまった。まぁ無理もなかった。みずからが台本を書いた劇の本番でこともあろうに俺と柏木のキスシーンを見せつけられたのだ。以前と同じように接してくれる方がおかしかった。
これまでにも気難しいお嬢様がつむじを曲げる出来事はたびたびあった。しかし今回の一件は過去のどの出来事にもまして彼女の機嫌を損ねたに違いなかった。
俺が担任の篠田に職員室へ呼び出されたのは、学園祭が終わって一週間が過ぎ、約束のことをいかに自然に切り出そうか昼休みにアドラー心理学の本を読みながら考えていた時だった。
「だいぶ腫れも引いたな」と篠田先生は俺の左頬を見て言った。「どうだ、まだ痛むか?」
「平気です」と俺は強がって答えた。この傷が高瀬とキスをする機会を与えてくれたんだと思って我慢してます、とはさすがに言えなかった。「それより先生。俺に用って、なんですか?」
「ああ、他でもない、柏木のことで話があるんだ」
俺は彼女の唇の感触を思い出し、照れた。
「それは本当にすみませんでした! もう二度とああいうことにならないよう、本人にもきつく言っておきますから!」
「はぁ?」先生は首を傾げた。「なにを勘違いしてるんだおまえは。たしかにあれは下手すりゃ停学もんの破廉恥行為だった。しかし年に一度の学園祭ということで上が大目に見てくれて沙汰なしとなったんじゃないか。もう済んだ話だ。今だから言うが神沢。先生はな、おまえたちが処罰を受けることがないよう、あっちこっちに頭を下げて回ったんだぞ」
「ご迷惑をおかけしました」と俺は姿勢を正して言った。その節は本当にご迷惑をおかけしました。
「まぁいいさ、それが仕事だからな」と言って彼は苦笑いを浮かべた。「さぁ話を戻そう。実はな、柏木のやつ、今日になってちょっと困ったことを言い出したんだ」
「普段から困ったことしか言わないですけどね」
「いや、笑い事じゃないんだよ」篠田は腕を組む。「あいつな、来週の修学旅行に行かないって言うんだ」
「まさか」それを聞いて俺は即座に手を振った。「先生もよくご存じだと思いますけど、柏木は97対3くらいの割合で勉強より行事に情熱を注いでいるような生徒ですよ? そんなあいつに限って、高校生活最大のイベントと言ってもいい修学旅行を休むなんて、考えられません」
「はじめは先生も冗談を言ってるのかと思ったさ。でもどうやら柏木の意思は固いらしいんだ」
俺は午前中の柏木を思い出してみた。いつも通りやかましくいつも通り色っぽくいつも通り居眠りしていた。修学旅行に行かないなんて言い出す素振りはかけらも見えなかった。「なんでまた。理由は聞いたんですか?」
「ああ。柏木は父方の叔母と一緒に暮らしてるんだろ? 女ふたりで鉄板焼きの店を切り盛りしているんだよな?」
俺はうなずいた。
「それで、自分が修学旅行に行ってしまうと店が回らなくなるって柏木は言うんだよ。でもそれは本当の理由じゃないと思っている。先生もあいつの叔母とは何度か会ったことがあるが、あれはしっかりした人だよ。実際の親でも自分の子どもには無関心な保護者も多い昨今、あの人は叔母という立場でありながら姪の柏木のことを第一に考えている。少なくとも店の仕事のために修学旅行を休ませるような人じゃない。つまり柏木は、本当の理由を隠しているんだよ」
俺もいずみさんの人となりはよく知っていた。変に気取ったところのない、竹を割ったような性格の人だ。たしかにいくら人手が足りないとはいえ、修学旅行よりも店の手伝いを優先させるとは考えにくい。
先生は言った。「神沢。おまえは何か心当たりがあるんじゃないか。柏木が修学旅行に行かないと言い出した本当の理由について?」
俺はひとしきり考えた。ひとつだけ、思い当たることがあった。
「まぁ、なくはないですね」
「やっぱりそうか。それなら先生から頼みがあるんだが、修学旅行に参加するよう、柏木を説得してくれないか。柏木もおまえの言うことなら耳を貸すだろう。よほど特別な事情があれば別だが、担任としておまえたちを受け持った以上、クラス全員ひとりも欠けることなく京都に連れて行ってやりたいんだ。神沢、頼むよ」
例の件で方々に頭を下げさせてしまった手前、俺は断るわけにはいかなかった。もっとも頼まれなくても、話を聞いてしまった以上、放っておくつもりはなかったが。
「わかりました」と俺は言った。それにしても、つくづく世話が焼ける娘だ。
♯ ♯ ♯
柏木はひとりで屋上にいた。
俺はさっそく担任から使者を仰せつかってきた旨を彼女に話した。
「そんなわけでおまえが修学旅行に行かないなんて言うから、篠田さん、すっかり困ってたぞ」
柏木は泣くふりをした。
「実の親でもないのに面倒をみてくれる叔母さんに『修学旅行の旅費まで出せ』なんて言えなくてねぇ。しくしく」
「嘘つけ」と俺はすかさず言った。「いずみさんのことだからしっかり旅費を積み立てているだろ」
柏木は眉をひそめた。「ぶっちゃけると、あたし飛行機が苦手なの。乗るとパニックになっちゃう」
「嘘つけ」と俺はすかさず言った。「冬には俺と一緒に富山に行ったしこの前は東京にだって行っただろ。『雲より高い、あたしは神だ!』とかわけのわからんこと言って一人で盛り上がってたじゃないか」
柏木はまた眉をひそめた。「とにかく、修学旅行へは行かない。もうこれは決めたことなの」
「修学旅行に行きたくない理由、俺が当ててみようか?」
「ほう、当ててみなさい」
俺は彼女の目をしっかり見据えた。そして言った。
「おまえ、ひとりになるのが、嫌なんだろ」
柏木はそれを聞くとしばし押し黙った。それから前髪を払う仕草を見せた。「神沢、キミにしてはめずらしく鋭いな」
「似てないな」
柄でもなく月島の真似をするあたり、どうやら図星と考えてよかった。俺は続けた。
「男子二人女子二人の計四人で自由行動の班を作るわけだけど、本来ならおまえは高瀬とペアを組んでいたはずだ。ところがこの秋になって高瀬との仲が急激に悪くなっちまった。そしてそれを象徴するように高瀬は加藤さんとペアを組んじまった。気づいた時にはもう他の女子も誰かとペアを組んでいて、自分だけが取り残されていた。『あーもう行きたくないなぁ』……そんなところだろ?」
「似てないな」柏木は苦笑した。「まぁ、半分正解って感じかな。なんかね、みんな、あたしが誰も組む相手がいないなんて、まったく考えなかったみたい」
「まぁ、普段のおまえを見ていたら、ちょっと想像できないだろうな」
担任もそんなことになるとは思い至らなかったほどだ。
「言っとくけどね、どこかの班に入ろうと思えば入れたんだよ。だって女子の人数は奇数だから、一組だけどうしても三人になる班ができるんだから。実際『そういうことなら晴香、うちの班においでよ』って言ってくれた子も多かった。でもねぇ。なんだかさぁ、気を遣われているみたいで嫌じゃない? 哀れまれているっていうかね。
それにみんなせっかく仲良し同士で組んでるのに、そこにあたしが入ったら、邪魔になっちゃうし。そんな風にあれこれ考えてるうちに修学旅行自体がもう面倒くさくなっちゃったの。それにだいたいあたし、古都とかあんまり興味ないし。お寺とか神社とか見物してくたくたになるくらいなら、お店の手伝いをしている方がよっぽど有意義だよ。
あ、大阪なら多少無理してでも行ったかもねぇ。笑い転げて食い倒れる旅。うん、それならあたしっぽい」
そうは言っても我々が向かうのは京都だった。「なぁ柏木。今からでも遅くないから、考え直せって。高校の修学旅行は泣いても笑っても一生に一度きりなんだぞ? 実際に行ってみたらそれなりに楽しいと思うけどな」
「あらまぁ? 悠介、ずいぶんあたしのことを気にかけてくれるんだね」
ひとりぼっちになる恐怖と闘ってるの。そんな胸の内を聞いている手前、はいそうですかと引き下がるわけにはいかなかった。
「向こうでおまえがひとりになることがないように、俺がうまく取り計らうから。それならどうだ?」
柏木の瞳孔が大きくなる。
「それって要するに、京都で悠介がデートしてくれるってこと?」
「まぁ、そういう言い方もできるか」
「ちょっといいかも……」授業中より数千倍真剣な顔で彼女はその提案について考えた。そして手を振った。「やっぱダメダメ。そんな勝手なことしてもし先生とかにバレたら今度こそただじゃ済まないもん。ただでさえこの前の件であたしたち、学校から目をつけられてるんだから」
なんであの時キスなんかしたんだ、と思ったが話がそれるので俺は黙っていた。
「とにかく」と柏木は話を打ち切るように言った。「あたしの心配はしなくていいから。ちょうどいいの。見たい映画もたまってきたところだったし。せつない恋愛映画を観まくって泣きまくるって今から決めてるの。悠介は心置きなく秋の京都を楽しんでらっしゃい。あ、そうそう、お土産だけは忘れないでね。八ツ橋とくずきりときんつばと宇治茶だけでいいからね。それじゃ、よろしくぅ」
健気を装って笑う彼女を見ていると俺の胸は激しく痛んだ。皮肉なものだ。“未来の君”は不幸を呼ぶ存在だと聞いてからの方が、どういうわけか俺の中で柏木の存在が大きくなっているようだ。




