第70話 あなたのいない世界でどう踊れというの? 2
ステージに上がった月島と俺を待っていたのは、観客からの痛烈な罵声とブーイングだった。司会の太陽があの手この手でなだめるけれど、静まる気配はなかった。太陽は困り果てていったん控え室に戻るよう俺に耳打ちしてきたが、ここで退いたらそれこそ奥村の思う壺だ。
「みんな、聞いてくれ!」と俺は声の限りに叫んだ。「彼女は奥村がいじめられているのを見て、笑ったりなんかしていない!」
すぐさま観客のあいだから証拠でもあるのかよとヤジが飛んできた。証拠? と俺は思った。そんなことを言い出したら、奥村が提示したイニシャル入りのハンカチだって、厳密には証拠とは言いがたいはずだ。しかし観客相手に証拠の定義について議論を吹っかけても仕方なかった。今重視すべきなのは、理よりも情だ。
俺は舞台の最前部まで進んだ。つま先は宙に浮いている。思い出すのは、屋上の縁からいつか見たモノクロの風景だ。
「俺も奥村と同じように、決して充実していたとはいえない中学時代を送ってきた」と俺は続けた。「奥村みたいに直接危害を加えられるようなことはなかったけど、親が事件を起こしたせいで皆からひどく疎まれ、存在しないものとして扱われていた。それが本当につらかった。苦しかった。
俺はもう生きていてもしょうがないと思って、校舎の屋上へ向かった。飛び降りて何もかもを終わらせようとした、その時だ。彼女が――月島が現れて『生きなきゃ』と声をかけてくれたのは。彼女はまわりに流されることなく俺のことを見ていてくれたんだ。月島は一見、冷たそうに見えるかもしれないけど、人の痛みがきちんとわかる優しい子なんだ。
そんな彼女がいじめられている奥村を見て他の連中と一緒に笑うはずがない。絶対にない! 証拠があるのかとさっき誰か言ったな? 今俺がこうしてここに立っていることそれ自体が証拠だ!」
こんな赤裸々な告白をしておいてもし形勢が変わらなければ、もう俗世を逃れて仏門に入るしかなかったわけだが、罵声がやんだところをみると風向きが好転したと考えてよかった。
「おい奥村、聞いているか!?」と俺は今一度声を張った。「月島にフラれた腹いせに彼女のことを貶める嘘をついて、ミスコンの順位を落とそうと目論んだのだろうが残念だったな。
月島は見た目だけが取り柄ってわけじゃない。好きなドレッシングからよく聞く音楽までオシャレなのに、お高くとまるでもなく気さくで、ユーモアもある。おまけに料理だってうまい。今年のミス鳴桜には、そんな彼女こそが誰よりもふさわしいんだ!」
しばらく会場はしんと静まりかえっていたが、やがて一部の観客から拍手が起きると、それは次第に広がっていった。どうやら彼らも奥村の話を心底信じていたというわけではないらしい。
月島の汚名をそそぐという当初の目標は果たせたようだが、大勢を前にした俺はなんだか妙な高揚感に包まれていて、喋ることをやめられなかった。それがまずかった。
「奥村! おまえが高校でボクシングを始めたのはいったいなんのためだ。過去の弱かった自分と決別するためじゃないのか? でもこんなひどい嘘をついて一度は好きになった女を困らせているようじゃ、昔と何も変わってないな。いくら腕っぷしばかり鍛えたって心が弱いままじゃ、本当に強いとは言わないんだ!」
観客がざわめきはじめたのは、最後のセリフは余計だったなと俺が我に返って反省した直後のことだ。ある者は俺の後ろを指さし、ある者は目を見開いている。何事かと思い振り返ると、そこには、血相を変えたあいつがいた。
「え?」
太陽が俺の名を叫ぶ。月島が悲鳴を上げる。奥村がわめきちらす。
俺は自分の身に何が起こったのかわからなかった。とりあえず何かが起こったということだけはかろうじてわかった。
視界には青空が広がっている。仰向けに倒れたのだと遅れて気がつく。
左の頬に激しい痛みを感じる。強烈なパンチを食らったのだと遅れて気がつく。
意識が少しずつ遠のいていく。奥村は素人相手でも平気で殴る奴だと遅れて――。
♯ ♯ ♯
俺が意識を取り戻したとき、目にぼんやり映ったのは自分を見下ろす女の子の顔だった。後頭部がえらく気持ちいい。どうやら膝枕をされていたようだ。
「お目覚めですね」とその子は言った。「大丈夫? 記憶は飛んでない? 私が誰かわかる?」
目の焦点が徐々に合ってきた。きれいな輪郭をショートカットが際立たせている。
「わかるよ、月島だろ」
「それじゃ念のため、もう一問」と彼女は言った。「1959年に霊長類で初めて、宇宙まで行って生きて帰ってきた二匹のサルの名前はエーブルと何?」
「いや、記憶がたしかでも答えられねぇよ」と俺は言った。「普通、こういう場合に聞くのって、今日の日付とか現職の総理大臣とかだろ。なんだよ、サルの名前って」
それを聞くと月島は安心したように微笑んだ。「本当に大丈夫みたいだね。よかった。いつもの神沢だ」
俺は体を起こしてあたりを見渡した。ステージではなく樹木があり、観客ではなく野鳥がいる。月島によればなんでも、倒れた俺をステージ上に放置しておくわけにもいかず、実行委員が担架に乗せて静かなこの中庭まで運んできたらしかった。
「それにしても奥村の奴、本当に殴るかな」と言って俺は左頬をさすった。「たしかに俺も一言多かったかもしれないけど、グーはダメだろ、グーは」
「一発KOで勝負ありだった」と月島は言った。「まぁでも、本当の意味で負けたのはオクラ君の方だよ。殴った場面を見ている証人は大勢いる。となればどんな申し開きをしたところで処罰は免れないわけで。今頃職員室で先生たちにこってり絞られているんじゃない? ざまぁ見やがれってんだ」
職員室でも相変わらずねちねちと俺の悪口を言う奥村の顔が浮かんだところで、俺ははっとして頭を振った。肝心なことを忘れていた。気にかけなきゃいけないのは、オクラのことよりもタマネギのことだ。
「そうだ月島! ミスコンの結果はどうなったんだ!?」
「それが」彼女は顔を覆ったのち、その手をぱっと開いた。「今年のミス鳴桜は藤堂アリス。キミの狙いはバッチリ当たったってこと。これで収穫祭でタマネギの格好をするのはあの子で確定だね。まぁ、表彰式には来なかったんだけど」
後でアリスにどんな暴言を吐かれるかわからないが、ひとまず俺はほっとした。
「変な言い方になるけど、よかったな、優勝できなくて」
そこでどういうわけか、月島は不満げに唇をとがらせた。
「危なかったんだぞ。あれだけ『私のことを悪く言え』って事前に念を押しておいたのに、それを無視して私を褒めたりなんかするから、二位になっちゃったじゃないか。まかり間違って優勝でもしたらいったいどうするつもりだったんだ」
「あの時はなんだか気持ちが昂ぶっちゃってさ」と俺は苦笑混じりにそう言い訳した。「優勝せずに済んだんだから、細かいことはいいじゃないか。結果オーライだ」
「笑い事じゃない」
「もしかして、怒ってる?」
「怒ってる」
「許してくれよ」
「許さん」
「えぇ?」
「というのは嘘で」月島は困惑する俺を見て焦った。「正直に打ち明ければ、うれしかったのだ。すごーく。なんだかんだ言ってもいざ神沢の口からああやって褒められると、いやはや、悪くないもんだね。今日はいろいろとありがとね。大勢の人を前にして堂々と主張するキミの後ろ姿は、なかなか格好良かったぞ。まぁその後にノックダウンを食らってすべては帳消しになるわけだけど」
「触れるな」俺はたしなめるように首を振った。「そこは触れちゃいけない」
そこでふいに吹き付けてきた風が左頬にしみて、俺は思わず顔をしかめた。
「あーあ。こりゃひどい。痣になっちゃってるもんね」月島が左から身を乗り出してくる。「やっぱり、まだ痛むんだ?」
これくらいへっちゃらだ、と強がってもどうせバレるので俺は否定しなかった。すると彼女は左頬の痣をじっと見つめてから、こんなことを言いだした。
「そうだ、私、痛みを忘れられる魔法を知ってるんだ。試してみよっか」
一時間後には俺は創作劇の主要キャストとして再び舞台に立たねばならない。この際、頼れるものはなんでも頼りたかった。「ああ、たのむ」
「それじゃ、目を閉じて」と月島は言った。
「わかった」と言って俺はなすがまま目を閉じた。それからほどなくして、左頬に何かが触れた。その何かは適度に潤い、ぬくもりに満ち、そして俺を飛び跳ねさせた。
「おい、おまえ今、何をした!?」
「何って、チュー」
「チューって」思考力がどこかへ飛んでしまって、ウブな俺は立ったまま続く言葉が出てこない。「チューって」
「ほら」と月島はこともなげに言った。「今は『痛い』なんて感じないでしょ? 結果オーライ。私の魔法、効いているじゃないの」
「たしかに、痛いどころじゃないけどさ」
俺が顔のほてりをとるべく首を回すと、そこで思わぬ人物と目が合った。彼女はいつの間にかこの中庭に来ていたらしかった。そしてすべてを見ていたらしかった。
柏木が全速力でこちらへ走ってくる。
これは本当に、ほっぺたが痛いなんて言っている場合じゃない。
柏木は目にもとまらぬスピードで俺たちの元へ駆けつけると、息をつく間もなく月島に詰め寄った。
「ちょっと! 今、悠介に何をしたの!?」
「何って」月島はちっとも怯まない。「チュー」
「チューって」柏木は地団駄を踏む。「チューって!」
枝で羽を休めていた鳥たちがいっせいに空へ飛び立っていった。その方が賢明だ。流れ弾が当たる前にどこかへ退散した方がいい。彼らに倣って俺もできることならすたこら逃げ出したかったところだが、もちろんそういうわけにはいかない。おそるおそる口を開く。「柏木おまえ、なんでここにいるんだよ?」
「なんでって、ミスコンの最中に悠介が殴られたって聞いて、心配になったから校内を探しまわっていたんじゃない! それでやっと見つけたと思ったら、月島といちゃついてる始末。どうなってんのよ、もう!」
「そんな、大袈裟な」月島は鼻で笑う。「高校生にもなってたかがこれくらいのことで騒ぎすぎ。いまどき、未就学児だってほっぺにキスくらいするっての」
「あたしの前でよくしれっとそんなこと言えるね!」柏木は返す刀で俺にまで突っかかってきた。「だいたい悠介も悠介だよ! なによ、デレデレしちゃって。だらしない!」
まぁまぁ、と冷静になだめたのは、月島だ。
「そうカッカしなさんな。せっかくの美しい顔が台無しだ。主演女優さん?」
柏木は興奮を抑えるように一呼吸置いた。そして不愉快そうに鼻を鳴らし、俺の腕を掴んだ。
「ほら悠介、そろそろ行くよ。もうすぐ劇の上演時間なんだから」
柏木は俺の返事を待たずに歩き出す。月島が落ち込んだりしていないか心配になって振り返ると、彼女は戯けて投げキッスをする余裕を見せたので俺はいくらかほっとした。
なんだかまた左頬が熱くなってくる。
♯ ♯ ♯
控え室となっている2年H組の教室に入ると、当然のことながら皆の視線は俺の左頬に集中した。そこにある生々しい痣はすぐに話題の中心になった。
俺が騎士グレイの衣装に着替えているあいだ、ミスコンの舞台でいったい何が起こったのか太陽がかいつまんで皆に説明してくれた。俺が騎士グレイに扮して現れると皆は同情してくれた。
同情してくれた後でただひとり、いぶかしそうに俺の顔を覗き込んできたのは――さすがと言うべきか――高瀬だった。
「神沢君、殴られたっていう割には、なんだかやけに機嫌がよさそうだけど、なにか良いことでもあったの?」
その現場をしっかり見ていた柏木がわざとらしく咳払いをする。この目ざとい女が余計なことを喋る前に、急いで俺は口を開いた。
「殴られたからっていつまでもくよくよしていられないよ。これからまさに本番だぞって時に主役の俺が暗い顔をしていたら、辛気臭くなるだろ。成功するものもしなくなる」
「えらーい」と柏木が白々しく拍手する。「主役の鑑ですねぇ」
高瀬にこれ以上詮索されると面倒なことになりそうだったが、そこで王子役の太陽が割って入ってきた。
「しかし困ったな。主役の顔にこんなに目立つ痣があるとなると、観客はどうしてもこの痣が気になっちまって、演劇に集中できなくなるんじゃねぇか?」
たしかに、と一同はうなずいた。その後で「むしろちょうどいいかも」と声をあげたのは、メイク担当の女子生徒だ。「だってほら、物語の途中でグレイは魔術師と戦って顔に傷を負うでしょう? この痣があれば、メイクをしなくても済むもん。観ているお客さんはリアルだなぁって感心すると思うな。なにしろ本物の傷なんだから」
なるほど、と一同はうなずいた。しかし高瀬だけは台本を見てすぐに首を傾げた。
「魔術師と戦う前はどうするの? はじめからグレイの頬に痣があったら不自然だよ」
不自然だ、と一同はうなずいた。ややあって、今度は小道具担当の男子が発言した。
「そういうことなら、魔術師と戦うまでは痣を隠すために兜をかぶればいい。オレ、すっかり武器防具制作にハマっちゃってさ、頼まれてなかった兜も実は作っておいたんだよね」
彼はいそいそと兜を持ってくると、俺の頭にかぶせた。まるで俺が寝ている間に頭のサイズを測ったんじゃないかという気がするくらいその兜は見事にフィットした。すると控え室は歓喜に包まれた。
兜なんかかぶったら今度はなんで顔に痣ができたんだという話になるだろと思ったが、盛り上がりに水を差すので俺は黙っていた。まぁ、戦う相手は魔術師だ。魔法で兜がかち割れたとかなんとか、なんとでも理由はこじつけられる。
太陽は時計を見て、それから手を叩いた。
「よし。良い雰囲気になったところで、最後は台本と監督を担当した高瀬さんの言葉で締めてもらって、出陣するとするか」
高瀬はうなずいて、一同を見渡した。
「私は朝から他のクラスの発表も見てきたんだけど、特に3年B組のミュージカルの出来が群を抜いてよかった。きっと卒業と同時に担任の先生が定年退職するから、優勝して退任に花を添えようとみんな気合いが入っていたのね。
でも大丈夫。うちのクラスだって3Bに引けをとらないほど稽古してきた。いつも通りのお芝居ができれば、3Bと良い勝負になると私は思うの。だからくれぐれも台本にないことはしないように。
最後の最後までドタバタしてちょっと焦ったけど、泣いても笑っても十分後には本番の幕が上がります。みなさん、優勝して鳴桜高校の歴史に名前を刻みましょう!」
一同が拳を突き上げかけたところで、それから、と言って高瀬は視線をこちらに向けた。
「それから、神沢君。ラーメン屋さんでのあの約束、私、忘れてないからね。……がんばってね」
「はい、がんばります」
兜をかぶっているせいで誰も気がつかないだろうが、今の俺はまず間違いなく、勇猛な騎士にあるまじきひどく浮かれた顔をしている。




