第69話 冬の海でひとり、暖を取るような 2
「”未来の君”は不幸と破滅を招く、決して結ばれてはいけない存在――」
俺はアリスのその発言を繰り返した。脳裏にはおのずと、無邪気に笑う柏木の顔が浮かんでくる。不幸も破滅も、天真爛漫な彼女とは大きくかけ離れた言葉だ。北条政子とボージョレ・ヌーボーくらいかけ離れている。俺は思わず苦笑した。「そんな馬鹿な」
「私が思いつきでこんなことを言うと思う?」その声には俺の笑みをかき消す切実さがあった。「“未来の君”が引き寄せるのは幸せではなく不幸せ。私はそう確信している」
俺はアリスの目を見つめた。彼女は目をそらさなかった。
「そこまで言うからには、何か根拠があるんだな?」
「もちろん」と彼女は答えた。「どうする? ここから先は聞かない方が身のためかもよ? 場合によっては、アンタの苦悩は深まるかもしれない」
俺は深呼吸して首を振った。
「いや、話してくれ。どんな結果になろうとも、これは俺が聞かなきゃいけない話だ」
「わかった」と彼女は言った。そして再び語り始めた。「さっき私は自分がパパっ子だったと言ったけど、別にママのことが嫌いだったわけじゃない。芸術家気質だからそりゃあ、何を言ってるのかよくわかんないってことはたびたびあった。でも暴力をふるったりパパのいない隙に他の男を家に上げたりするような人ではなかったから。
ママは野生動物を専門にする写真家で、特に『ファインダー越しでも一日中見ていて飽きない』と言うほど好きだったフクロウの写真をよく撮っていた」
そこで俺は、以前にバイト先の居酒屋でアリスと鍵を交換した時のことを思い出した。ちょっとした不運から仕事中に高校生だとバレそうになったが、どちらの鍵にも同じフクロウのキーホルダーがついていたことで難を逃れたのだった。
「おまえも好きなんだよな、フクロウ」
「ママの影響」とアリスは認めて、例のキーホルダーをポケットから出した。「小さい頃からさんざん聞かされてきたから。フクロウは〈福来郎〉だから縁起が良いって。もっとも私は、純粋にフクロウの見た目が可愛らしくて好きなんだけど。とにかくママはそんな風によく験を担いだ。そしてよく迷信を信じた」
フクロウは〈不苦労〉。俺がキーホルダーを買わされた際の店員の売り文句はそれだった。
アリスは続けた。
「画家のパパと写真家のママ。夫婦仲はとっても良くて、ケンカしているところなんか見たことがなかった。片方が作品作りで手が離せない時はもう片方が嫌な顔ひとつせず家事や育児をこなした。あいにくどっちも芸術家としてはさっぱり売れてなかったから狭いボロアパート住まいだったけど、それでも私は好きな両親さえ元気でいてくれればそれでよかった。裕福じゃなくてもふたりがいれば楽しかった。あの頃がいちばん、幸せだった」
アリスにとっての福は来なかったんだな、と俺は彼女のキーホルダーを見て思った。
「うちに変化が起きたのは、私が8歳の時。冬の海の一件があって家族の結束が深まってからちょうど一年後のこと。ママの撮ったある写真が有名なフォトコンテストで最優秀賞に選ばれたの。
それは森に棲むフクロウが人の捨てたスナック菓子の袋に頭を突っ込んでいる瞬間を捉えた写真だった。社会的なメッセージを含んでいるところが評価されたみたい。
ま、フクロウだけに袋っていう洒落っ気も加味されたのかも。ともかく、受賞が決まったママの元には、地元の新聞社やテレビ局なんかから取材が殺到した。おかしなもので、賞をとった途端にそれまで見向きもされなかった過去の写真まで脚光を浴びるようになった。私には何を言ってるかよくわかんないこともメディアは天才の発言だと持ち上げた。
そのうち東京から出版社の人が飛んで来て、写真集を出しましょうと持ちかけてきた。写真集は売れた。そのお金で私たち一家は狭いボロアパートから庭つきの広い一軒家に引っ越した。ママは一躍時の人になった。パパは依然として売れない画家だった。ふたりの格差は広がるばかりだった」
俺はアリスパパの気持ちを想像してみた。
「そうなるとパパとすりゃ、うれしい反面、肩身が狭いよな」
「そうなの。表向きは『ママに負けていられないな』って気丈に言うんだけど、どうしてもね……」
負けていられないと意気込んだアリスパパではあるが、それまでみたいに自分の創作世界に没頭することは難しくなった。なぜなら妻が急に多忙になったせいで、前にも増して家事や育児に時間を割かなければいけなくなったから。
すっかり有名写真家の仲間入りを果たしたアリスママの元には続々仕事の依頼が舞い込んでいた。仕事は多岐にわたった。
講演会の講師を務めることもあれば、“袋のフクロウ”で名を馳せたことから環境問題に関するシンポジウムのパネリストとして呼ばれることもあった。雑誌でコラムも掲載した。フクロウカフェの監修までやった。稼げるときに稼いでおかなくちゃ、が芽の出ない時期が長かった彼女の口癖になった。
そのように妻が外に出て写真家としての地位を確立していく一方、夫は相変わらず鳴かず飛ばずだった。家の中で家事や育児に追われていた。一緒に夕食をとることはほとんどなくなった。いつしか親密だった芸術家夫婦の間には隙間風が吹きはじめていた。
「ママがパパと別れて他の人と再婚したいと言い出した時、私は9歳になっていた」アリスはくぐもった声でそう続けた。「新しい父親としてママに紹介された男も画家だった。仕事の関係で知り合ったみたい。
その男はパパとは違ってすでに画家として成功をおさめていて、個展を開けば飛ぶように絵が売れていくような人気画家だった。けれど私はどうしてもこの男が好きになれなかった。芸術家だから別に聖人君子じゃなくたっていいんだけども、この人の場合は、なんていうか、人間として根っこが腐っているような気がした。心に闇を抱えているというかね。
こいつと家族になんかなったりしたら不幸になる。私はそんな予感を抱いた。正直、どうしてママがこんな男と一緒になりたいと言い出したのか私にはさっぱり理解できなかった」
その男の名字を言い当てる自信が俺にはあったが、俺が口を開くより先にアリスは答えを言った。
「そいつの名前は藤堂絵夢。現代アート界を代表する抽象画家」
藤堂アリス、と内心でつぶやいて俺はため息をついた。
「つまり、おまえのママは売れないパパを見捨てて、その売れている画家と再婚したというわけか」
「言い方は悪いけど、まぁ、そういうこと」アリスは肩をすくめる。「今の私ならどうにか考え直すようママを説得しただろうけど、当時の私はママの言うことに従うしかなかった。仕方ないよ。親権がどうとかこうとか、そういう難しいことは子どもにはよくわかんないし」
「そして今のおまえが『藤堂』で呼ばれても返事をしないほどその名字を忌み嫌っているということは……」
アリスはうなずいた。「私の予感は当たった、ということ」
「こいつと家族になんかなったりしたら不幸になる」
アリスはもう一度うなずいた。「結論からいえば、再婚して一年でママは精神を病んでしまった。藤堂絵夢のせいで。もうそれまでみたいにカメラを持つことはできなくなったの。そしていまだにママは――今この時も――病院に入院している。私が面会に行っても会える日と会えない日がある。私ですら会えない日があるということが何を意味するか、アンタにはわかる?」
「一人娘が面会に行っても会わせてもらえない」俺は慎重に言葉を選んだ。「まともに話もできない状態の日があるってことか」
アリスはうなずきこそしなかったが、否定もしなかった。
「入院する直前、まだ普通に会話ができた頃、ママは再婚に至ったいきさつを私に泣きながら打ち明けてくれた。
藤堂からしつこくアプローチを受けていたこと。ママにその気はちっともなくて、あくまでもパパと私の三人で一緒に暮らすつもりでいたこと。とはいえ、“最優秀賞特需”が終わっていつ仕事がなくなるかわからず――パパは相変わらず売れていなかったし――私の将来を思うと不安で仕方なかったこと。パパの可能性を信じるか藤堂の財力に頼るかとても悩んだこと。そして、そんな悩めるママに藤堂を選ぶことを決断させたのは、ある占い師の言葉だったこと」
占い師、と聞いて反射的に俺の背筋は張り詰めた。「まさか」
「未来の幸せを望むならあなたは藤堂絵夢――“未来の君”と共に生きていかなければならない。験をよく担ぎ、迷信を信じがちなママは、その占いを真に受けた。そして何もかもを失ってしまったの」
「おまえの母親も、あの占いを受けたっていうのか……」
「その占いが私の家族をバラバラにした」と言ってアリスは拳を握りしめた。「ママはとても悔やんでいた。占いを信じてしまったことを。“未来の君”が藤堂だと聞かされさえしなければこんな男と一緒になったりしなかったのに。ごめんね、アリス。ママは涙を流して私にそう謝った」
「おまえの母親は藤堂絵夢にいったい何をされたんだ? たった一年で心を病んじまうなんて、よっぽどだ」
「教えてほしい?」
「差し支えなければ」
「私の見立て通り――いや、思っていたよりもずっと――藤堂はイカれた野郎だった」とアリスは言った。「あの男の創作スタイルは常軌を逸していた。藤堂は自分以外の誰かを傷つけることで得たイメージなりエネルギーなりをキャンバスにぶつけていたの。そうすることでしか彼は絵を描けなかったわけ。
ママは藤堂に精神的な攻撃を受け続けた。容赦ない言葉で人間性を批判され芸術性を否定された。藤堂はその間にいくつもの作品を――抽象画家として代表作になるような作品をいくつも――描き上げ、世に送り出した。そう、藤堂はママに好意を持って近づいてきたんじゃないの。自分の絵のいけにえにするために近づいてきたの。狂った嗅覚が嗅ぎつけたんじゃない? この女は攻撃のしがいがある、って」
「絵夢なのにサディストなのか。ややこしいな……」
芸術家の考えることはよくわからん、と美術で4以上をとったことのない俺は思った。「ちょ、ちょっと待てよ。ママさんが今も入院しているということは、おまえはそんな危ない奴と一つ屋根の下で一緒に暮らしているのか、ふたりきりで?」
「だってしょうがないでしょ。高校一年生の私にどこへ行けっていうのよ」アリスはこともなげに言う。「変な心配しないで。どうやら私は藤堂の嗅覚にはまったく反応しないらしく、手出しは一切してこないから。むしろママにやりすぎたと思っているのか『美大に行きたいなら金は出してやる』とか抜かすくらい。もちろん私はそれを断ってる。冗談じゃない。ママを傷つけて儲けた金で夢を叶えるなんて死んでもできない」
「なるほど」ひとつ謎が解けた。「美大の学費は意地でも自分で稼ぐと決めているのはそういう理由か。たいしたもんだ」
「別に褒められるようなことじゃない」
俺は言った。「それじゃあ、今日みたいに月に一度、家に帰れない日があるってのは、どうしてなんだ?」
「いけにえが来るから」とアリスは言った。「ママがいなくなってから藤堂は、攻撃しがいのある女をどこからか見つけてきて、家で一晩中痛めつけるの。もちろん合意の上で。相手にはかなりの額の報酬を支払ってる。ある意味ではデッサンモデルってことになるのかな。
まぁとにかく、悲鳴や泣き声が夜通し聞こえてくる家になんか気持ち悪くていられないでしょ。そういう日が月に一度あるの。ちなみに今日のいけにえは借金まみれの28歳の塾講師。興味があるなら鍵を貸してあげるから藤堂邸に忍び込んでみれば? 全身をロープで縛られた裸の女教師に今なら会えるから」
「遠慮しておくよ」世の中には足を踏み入れてはいけない領域というものがある。何はともあれ、これでまたひとつ謎が解けた。今ならアリスはたいていのことは喋ってくれそうだ。「画家としてくすぶっていたパパさんは、その後どうなったんだ?」
彼女は柄でもなく誇らしげに口角を上げて、「売れたの」と答えた。
「きっかけはあの泉の絵。7歳の私がモチーフ探しについていった時にパパが描いていた絵ね。世界的に有名なある映画監督が作品内で使う劇中画を探していて、それでパパの泉の絵が目に留まったの。画家の生涯を描いたその映画はヒットして、パパの名前も広く知られることになった。そして今やシカゴを拠点に活動する世界的アーティスト。アトリエには毎日のように弟子入りを希望する若者が押しかけてくるみたい。
アンタ、芸術とかには無縁そうな顔してるけど、いくらなんでも一度は聞いたことくらいあるでしょ? イッセイ・イワザキ。それが私のパパの名前」
「あのイッセイ・イワザキか!」と俺は、さもよく知っているという風に目を見開いた。本当はその名に聞き覚えはなかった。芸術には疎いのだ。マネとモネの違いもよくわからん。「そうか、パパさんは売れたのか。……それならおまえ、変態画家なんかと一緒に暮らしてないで、パパを頼ればいいじゃないか。その方がママだって安心するだろ」
それを聞くとアリスは口を真一文字に結んで首を横に振った。
「パパからすれば私は、売れない自分を捨てて売れてる新しい父親を選んだ娘。それが売れて有名になった途端に『やっぱりパパがいい』なんて、どの面さげて言えるのよ。それにパパは長い間仕事や育児に追われて絵を描くことに専念することができなかった。今ようやく自分のために時間を使えるようになったの。私が会いに行ったりなんかしたらそれを邪魔してしまう」
どこの馬の骨か知れない弟子入り希望者ならともかくおまえならパパさんだって邪険にしないだろうと思ったが、余計なお世話だと言われそうなので俺は黙っていた。
「次パパに会うのは」アリスは下唇を噛んで続けた。「私が画家として一人前になった時。その時私はイッセイ・イワザキの娘としてではなく一人の画家としてパパに会う。いつかパパに認めてもらうためにも、私は美大に行って『これだ』っていう自分のスタイルを確立しなきゃいけないの」
アリスは自分に言い聞かせるようにそう言うと、リュックからスケッチブックを取り出し、それを俺に手渡した。中を見てもいいらしい。
ご厚意に甘えて表紙をめくった俺は思わず息を呑んだ。そこに描かれていたのはフクロウだった。木の枝にたたずむ一羽のフクロウ。月並みな表現ではあるがそのフクロウは生命感に満ち溢れ、今まさに枝から飛び立ちそうな気配すら漂わせていた。こちらをまじまじと見つめる二つの目には人の慢心を見透かしたようなシニカルな色が浮かんでいる。ともするとこれが絵であることを忘れてしまいそうだった。
「これ、おまえが描いたのか?」
アリスは無言でうなずいた。
「めちゃくちゃうまいじゃねぇか! 天才だよ!」ちょっと前までただの不良少女だと思っていた自分を恥じた。「なんだ、その、今までさんざん失礼なことを言って、すまんかったな」
「このくらい、素人だってちょっと練習すれば描けるようになる」まんざらでもないのか、アリスは照れ臭そうに鼻先を掻く。「こんなもんは私に言わせればまだまだ荒削り。うまいだけで人を惹きつけるだけの磁力のようなものはない。オリジナリティも出せていない。もっともっと力をつけないと」
興味が湧いたので俺はスケッチブックの他のページも見てみた。
なかには風景画や肖像画もあったが、そのほとんどはフクロウの絵で占められていた。
俺はたしかに芸術には疎いかもしれないけれど、それでもどうしてフクロウの絵ばかり描くんだ? なんて野暮なことを尋ねるほど馬鹿ではなかった。
ずっと背中を見てきた画家の父親とひたすらフクロウを追い続けた写真家の母親。
離ればなれになった家族を今でも愛するアリスにとっては、フクロウの絵を描くことそれ自体が大きなひとつの意味を持つのだ。




