第68話 それを打ち明けるなら今が潮時だ 4
人生初の口づけを高瀬と交わして次の段階への足がかりとするために――いや、もとい――学園祭で優勝してクラスの結束を深めるために、帰宅後もセリフの練習に時間を使いたかったところだが、あいにく課せられた数々の使命がそれを許しはしなかった。今の俺には金を稼ぐ必要があり、占い師を探す必要があった。
そんなわけで居酒屋“握り拳”でのバイトを終えた俺は、同じ目的を持つアリス(相変わらず『藤堂』と名字で呼ぶと見向きもしないので不本意ながら下の名前で呼んでいる)とともに、夜の街を探索していた。
「今夜も見つかりそうにないな」とつぶやいて俺は腕時計を見た。季節柄、プロ野球の優勝チームがビールかけをやっている頃だ。「もう遅い。そろそろ切り上げよう。潮時だ」
「間違ってる」とアリスは言った。
「は?」
「“潮時”っていう言葉の使い方、間違ってる」と金髪女はすげなく言い直した。「アンタはたぶん『引き際』みたいなことを言いたくて今『潮時』を使ったんだろうけど、それは本来『何かをするのに絶好のタイミング』っていう意味。だから間違ってる。それでもアンタ上級生? 一年生からやり直せば?」
ここまであからさまに揚げ足を取られたら、誰だってカチンとくる。俺はわざとらしく首を回した。
「誰かさんのミスの尻拭いに追われたせいで疲れきっていて、言葉の意味まで頭が回らなかったんだ。どうもすみませんね」
さっぱり仕事を覚えない新人バイトは舌打ちした。「イヤなやつ」
おまえもな、と俺は思った。
「それじゃ、また」とこちらに背を向けたアリスは、どういうわけかいつもとは違う方向へと歩き出した。
「おまえの家はそっちじゃないだろ」と俺は言った。「家に帰るんじゃないのか?」
アリスは面倒くさそうに振り返った。「今日はどうしても朝まで帰れないの。うちは月に一度、そういう日があるの」
高校生の娘が月一で帰ることができない家ってどんな家だと言いかけたが、そういえばワケありな家庭環境だったな、と俺は彼女の話を思い出した。
「ということは、ホテルでも予約してあるのか?」
「まさか。無駄な出費はしたくない。カネは美大に行くためだけに貯めてるんだから」
「それじゃあどうするんだよ、朝まで」
「公園で時間をつぶす。ヤバそうな酔っ払いや警察のパトロールが来たら別の公園へ行く。その繰り返し。そしたらそのうち空が明るくなってくる」
そこでふいに強い風が吹きつけてきて、たまらず俺は体をすくませた。季節は確実に冬へと近づきつつあった。見ればアリスが身につけている防寒具は、薄手のブルゾン一枚のみだ。手袋もなければマフラーもない。
「どう考えても危険だよ」と俺は言った。「公園で女子高生がひとりで夜を明かすなんて。頭のおかしい奴や変質者だって少なくないんだから。それにそんな薄着じゃ、風邪だってひくかもしれないぞ。風邪をひいたらバイトもできなくなる。美大が遠のく。悪いことは言わんから、考え直せ」
「しょうがないでしょ!」とアリスは食ってかかってきた。「リスクがあるのはわかっていても、他に行くところなんかないんだから!」
行くところ、と聞いて俺の頭には反射的にある場所が思い浮かんでいた。そこには雨風をしのぐ屋根があり、寒さから身を守る暖房があり、一日の疲れをとる布団があった。そのうえなんと宿泊費もかからない。ホームレスの縄張り争いに巻き込まれることもない。青姦愛好家と出くわすこともない。さすれば彼女が一夜を過ごすには最適な場所のように思えた。
ただひとつ敢えて問題点を挙げるとすればそれは、そこが、俺の自宅であるということだった。
「これは下心があって提案するわけじゃないが」と俺は良心から言った。「もしよかったら、うちに来ないか?」
「はぁ?」
「前にもちょっと話したと思うけど、いろいろあって今は一軒家にひとり暮らしなんだ。おまえがひとりで寝るところくらいは用意できる」
「断る。アンタにかぎらず、誰かに手を差し伸べられてその手にすがるような生き方はしたくない」
アリスが威勢良くそう言い放った次の瞬間、ぐうぅぅぅと低い音が彼女のへそのあたりから聞こえてきた。倹約の一環としてアリスが、居酒屋の厨房からちょろまかしたキュウリを夕食代わりにしているのを俺は知っていた。なんといっても育ち盛りの年頃だ。河童じゃあるまいし、キュウリで腹がふくれるわけがないのは当然だった。
赤面するアリスに俺はあらためて声をかけた。
「格好つけんな。人の親切は素直に受け取るもんだ。ついてこい。たいしたもんは出せんが、腹一杯食わしてやる」
♯ ♯ ♯
俺が台所でせわしなく料理をしている間、アリスはリビングでくつろいでテレビを見ていた。
彼女が見ていたのは、渋谷だか原宿だかの街頭で若い女の子に体験人数を聞いて、返ってきた回答でタレントがビンゴゲームをするというおそろしくくだらないバラエティ番組だった。
タレントたちのやかましい声に混じって時々、「ふふっ」とか「くすっ」というような笑い声が――画面越しではなく――聞こえてきた。PTAが激怒しそうな低俗な番組の何がそんなに可笑しいのかはわからないけれど、とにかくそれはアリスの笑い声だった。
なんだ、ちゃんと笑えるんじゃないかと俺は卵を溶きながら思った。
「ふうん。アンタみたいなたいしたイケメンでもない、良い家の生まれでもない男がなんでよく女と一緒にいるのか、なんとなくわかった」アリスは味噌汁をすすってそう言った。「こうやって女の弱みにつけ込んで、その気にさせてんだ。汚い手口」
「人聞きの悪いことを言うな」俺は空いたグラスに茶を注いでやった。「もしそんな策士だったら、もう少しうまく世渡りできている」
「何が狙い?」アリスは感謝も告げずその茶を飲む。「なんで私にここまでするの? 兄妹のフリをするっていうのは、あくまでも居酒屋の中だけの話でしょ? 外に一歩出たら、私たちは赤の他人。私がどうなろうがアンタには無関係のはず。なのにどうして」
俺は答えに困ってしまった。言われてみればたしかにそうだ。なぜ俺はこんな口の利き方も知らない生意気な小娘に、自分の時間を割いてまで施しを与えているのだろう?
なぜ俺は彼女を――。
自問自答の末に答えが見つかったのは、なにげなくアリスの目を見ていたその時だった。それは過去に見覚えのある目だった。すべての人を疑い、否定し、拒絶する、冷めきった目。俺はそんな目を中学時代、毎日のように見ていた。鏡の前で。
「今のおまえはなんだか、昔の自分を見ているようなんだ」と俺は言った。「俺もちょっと前までそうだった。人間不信がひどかった。人と関わること自体を避けていたし、差し伸べられた手は払いのけていた。それが格好いいとさえ思っていた。心の底では孤独になるのを人一倍恐れているくせに。まぁでも、公園でひとりで夜を明かすのが平気なところをみると、おまえは俺とは違って孤独を恐れていないんだろうな」
アリスは何かを言いかけたが止めて、トマトに箸を伸ばした。俺は続けた。
「とにかく、昔の自分と同じ目をしていたおまえを俺はどうしても放っておけなかったんだよ。これは俺がしたくてやってることだ。だから見返りなんか本当に求めちゃいない。細かいことは気にせず、食え」
キモいだの死ねだの言われるのを覚悟していたが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「孤独は恐い」とアリスは箸を置いて言った。真顔だった。「アンタ、また間違ってる。私に言わせれば、公園で夜を明かすくらい孤独でもなんでもない。あの時に比べれば……」
「あの時?」
「アンタには関係ない」
俺は諦めなかった。普段はガンコ親父より無口な彼女が今日はやけに喋ってくれている。この好機を逃してはならなかった。
「なぁアリス。そろそろ話してくれないか、おまえの秘密を」と俺は言った。「全部関係があるんだろう? “藤堂”という名字を忌み嫌っていること。今夜みたいに月に一度、家に帰れない日があること。バイトをしてまで美大を目指していること。今言った“あの時”のこと。そしておまえが『復讐する』とまで言わなきゃいけないほど“未来の君”の占い師を憎んでいる理由。
どう考えてもすべてつながっているよな? そしておまえは“未来の君”の秘密を知っている。いっそすべて話してみないか? 徹夜を覚悟していたんだからどうせすぐには眠くなんかならないだろう? 秋の夜長とも言うし、それを打ち明けるなら今が潮時だ」
「イヤミったらしいイヤな奴」とアリスは言った。「まぁいい。気は進まないけど話すから、せめてゴハンを食べ終わるまで待ってて」
「もちろん」と俺は言って、白米のおかわりはいらないか、彼女に聞いた。




