第68話 それを打ち明けるなら今が潮時だ 3
命の恩人でもある女の子に「一生のお願い」と手を合わせられて、それで引き受けなかったら男じゃなかった。結局俺は月島の期待に応えるべく、奥村のいる廊下の曲がり角へと向かうことにした。
奥村は高校に入ってからボクシングを始めた。その情報がどうしても頭から離れず、足取りも気分も実に重かったが、「正義は我にあり」と騎士グレイのセリフで自分を奮い立たせ、なんとか前進した。そして彼と向かい合った。カン、とゴングが鳴った気がした。
「よう奥村」と俺から話しかけた。
「なんだおまえは?」と言って彼は顔をしかめた。無理もない。こっちは鎧を着ているのだ。
「同じ中学だっただろ。覚えてないか? 神沢悠介だ」
「ああ……名前を聞いて思い出したよ。あの神沢か。で、おまえがおれに何の用だ?」
先制パンチを浴びせるなら、今だ。「他でもない。月島のことだ」と俺は切り出した。「あんたも心当たりがあると思うけど、彼女、あんたにつきまとわれて迷惑してるんだ。悪いが、やめてやってくれないかな?」
それを聞くと奥村は一瞬ムッとしたものの、すぐさまその痩けた頬に笑みを浮かべた。まるで劣等感と優越感が彼の中で椅子取りゲームをしているような中途半端な笑みだった。
「たしかおまえの親父って逮捕されたんだよな? 図書館に放火して。今もブタ箱の中だ。社会にさんざん迷惑かけた奴の息子がよ、よく臆面もなく人様に迷惑なんて言葉を使えるよな。恥を知れ、恥を」
不覚にもなかなか強烈なカウンターパンチを食らってしまった。思わずよろめきかけたが、こんな序盤戦で退くわけにはいかない。
「迷惑という言葉が気に障ったなら、謝る。すまんな。とにかく、今したいのは俺の話じゃないんだ。月島の話なんだ。いちおう確認しておきたいんだけど、あんたは彼女のことが好きなのか?」
奥村は周囲を見渡した。彼の告白になんか誰一人として聞き耳を立てていなかった。「す、好きさ」
「そっか」俺は息を吐く。「残念だが、月島はあんたのその気持ちに応えることはできない。もっとはっきり言っちまえば、彼女はあんたのことを嫌っている」
「嫌っている?」そんな可能性を万に一つも考えていなかったのか、奥村は二の句が継げない。
「ショックなのはわかるが、恨むなら俺じゃなく自分を恨めよ。これでも最初は俺なりにオブラートに包んで迷惑って言葉でそれとなく月島の本心を伝えようとしたんだからな。その言葉を使えないようにしたのは、他でもなくあんた自身だ」
「嫌っているはずはない」と彼は突然声を荒らげた。「中学でいじめがひどくなって、頭から醤油やかつおぶしをかけられた時、その現場にたまたまいた月島さんだけは『オクラ』として調理されるおれを見て笑わなかった。いじめに参加した奴らはもちろん、傍観している奴らもみんな笑っていたのに。それどころか彼女は、誰もいなくなった後でおれにハンカチを貸してくれたんだ。拭きなよって言って。そんなあの子がおれを嫌っているはずがない。むしろ、その、どちらかといえば、好意を持っているはずなんだ」
今俺が真っ先にすべきなのは、月島おまえ株を上げやがってと感嘆することではなく、目の前のおめでたい男に現実を突きつけることだった。
俺は言った。「月島は表向きは飄々としていておまけにクールだから、つかみどころのない冷たい奴だっていう風に思われがちだけど、ああ見えて実際は人一倍情に厚い奴だよ。まわりに決して流されない強さも備えてる。だからひどい目に遭ったあんたにハンカチを差し出したのは、彼女にとってみればいたって自然な行動だったはずだ。他の誰かが同じ目に遭ってもそうしたはずだ。つまりあんただけが特別な存在というわけじゃないんだよ」
それを聞くと奥村の顔は、たちまち気色ばんでいった。「さっきから黙って聞いてりゃ、ふざけたことばっかり言いやがって! だいたいおめぇはなんなんだよ! 月島さんとどんな関係なんだよ!」
恋人同士だ、と答えてしまえば手っ取り早く話が済んだだろうが、一時しのぎでそんな嘘をついたら後々面倒なことになるのは目に見えていた。
「学園祭のミスコンに月島は出場するんだが、俺は彼女の推薦人を務めることになっている」
「たかがそれだけの関係でなんで偉そうにしてんだよ! なめてんのか!」奥村はシャツの袖をめくって、筋肉のついた上腕をこれ見よがしに剥き出した。そして俺との距離を一歩二歩と詰めてきた。「そうか、わかったぞ。さてはおまえ、『ボクシングをやってる奴の拳は凶器だから素人には絶対に手を出さない』とか思ってんだろ。だからなめた口をきくんだ」
本能的に身の危険を感じ、俺の心臓は早鐘を打っていた。しかしさいわい、分厚い鎧を着ているおかげで、それを悟られることはなかった。台本を書いた高瀬に感謝だ。奥村は唾を飛ばしながら続けた。
「おまえ、間違ってるよ。間違ってる。おれはそんなに甘くねぇ。特別におまえに教えてやるよ。実はもうおれは、素人を殴ったことがあるんだ。誰だと思う?」
「さぁ?」
「おれに醤油やかつおぶしをかけた連中だよ」と奥村は言った。「大変だったよ。全員の進学先を調べて、通学路を調べて、下校時間を調べた。いざ実行の日となると今度は死角になる場所を探したり相手がひとりになるタイミングを見計らったり……。
いつも彼女を連れている奴がいて、そいつだけはしょうがないから彼女の見ている前で殴ってやった。いい気味だったなぁ。尻餅ついて半ベソかきながら『許してくれぇ』って命乞いして、格好悪いのなんの。あれはクセになるね。そういうわけで神沢。おれは、やる男だよ。あんまりなめてたら、痛い思いをするぞ?」
正直言うと俺は、自分と同じく暗い中学生活を送ってきた奥村に対し、ちょっとした同情心のようなものを抱いていた。しかし彼の話を聞いているうちにだんだん、そんな気持ちは薄れていった。今は目に映る男が、ただただ憐れに見えてならなかった。
「別にいじめを肯定するわけじゃないが、さすが『オクラ』と呼ばれてみんなから嫌われていただけあるな」と俺は言った。「復讐のためなら時間も手間も惜しまないそのねちっこさには、素直に感心するよ。そこまでいくともう、天性の素質なんだろうな」
「死にたいのか、おまえ」奥村は右手を上げかけたが、ちょうど近くを数学教師が通りかかったのを見て、取り繕うようにその右手で額の汗を拭いた。「まぁいいや。おまえじゃ話にならねぇ。とにかく月島さんに会わせろ。今度の試合を彼女に観てもらう」
俺は首を振った。「月島はあんたの試合を観に行く気はないと言っている」
「彼女自身の口から聞かなきゃ、信じられないな。彼女にはっきり断られるまで、おれは何度だって誘い続けるぞ」
オクラめ、と俺は思った。なんにせよ、このままだと埒があかない。こうなったらあのことを持ち出すしかなさそうだった。月島が人知れず抱える問題に触れるわけだから、できればそれを話さず奥村をリングアウトさせたかったのだが、やむを得まい。
「月島があんたの誘いを断らなかったのは、行こうかどうか迷っていたからでも、いたずらにもったいぶってあんたの気持ちを試していたからでもない」そう言って俺は、慎重に言葉を選んだ。「ただ、恐かったんだよ」
「恐かった?」
「月島はある一件をきっかけに男性恐怖症になっちまったんだ。彼女にとって男はそもそも恐怖の対象なんだよ。あんたは彼女を近くでずっと見続けてきたくせに、そんなこともわからなかったのか?」
その一件とは強姦未遂事件であることまでは、この男に教える必要はないだろう。
「特に」と俺は続けた。「あんたのような力でものを言わせようとする男は、月島が最も苦手としているタイプだ。向かい合うと、声すらまともに出せなくなっちまう。そう、月島は、誘いを断りたくても断れなかったんだよ。そんなわけで彼女が今のあんたに振り向く可能性はゼロだ。潔く諦めるんだな」
「いやだ!」奥村は取り乱す。「月島さんの口から直接気持ちを聞くまでは、諦められない!」
「何度言えばわかる!」見苦しいぞ、と苦言を呈したところで、何かがふわっと飛んできて、俺と奥村のあいだに落ちた。まるでセコンドがリングに投げ入れるタオルみたいに。それは不気味な人形だった。呪裏ちゃんだ。となれば投げ入れたのは、ひとりしかいない。俺はすぐにピンときた。これは月島の意思表示に他ならない。
俺は呪裏ちゃんを丁重に拾って奥村に見せた。「こいつは、A組がお化け屋敷で使う呪いの人形らしい。制作を任されていたのは、月島だ。ここまで話せばもうわかるよな? 呪いたくなるほどあんたのことが嫌い。それがあんたが知りたがってた彼女の気持ちだよ」
奥村はそれこそ呪われたようにしばらく青ざめていたが、やがて不敵に笑うと、こんなことを言い残して、去っていった。
「おまえらたしかミスコンに出場するんだよな? いいことを思いついた。あはは。楽しい学園祭になりそうだ。覚えとけよ」
奥村の姿が見えなくなると、月島がやってきて、呪裏ちゃんを回収した。
「おつかれ神沢。それにしてもあそこまで威嚇されて、よく怯まなかったね。えらい。もうずっと、私の騎士でいろ」
俺は苦笑した。なぜなら「素人を殴ったことがある」と奥村にすごまれた時に実は小便をちびりそうになっていたからだ。そんな俺に騎士は務まらん、と思ったが、わざわざそれを言うこともないだろう。
それよりなにより、今は奥村の捨て台詞が気がかりで仕方ない。ミスコンでいったい彼は何をするつもりなのだろうか。はったりだといいのだが。
妙に胸騒ぎがする。




