第68話 それを打ち明けるなら今が潮時だ 2
学園祭の出し物で優勝できたならキスをしよう。
惚れている女の子がそんな約束をしてくれて、それで奮起しなければ男じゃなかった。俺は鼻先に人参をぶら下げられた馬のごとく、俄然やる気を出して劇の稽古に挑んだ。
ところが、騎士グレイとなって勇んで舞台に立ってみればそこには、相も変わらず高瀬と柏木の確執がどんよりした重い空気となって漂っていた。
彼女たちは正面きって激しく罵り合うことこそないものの、高瀬が右と言えば柏木は左と言い、柏木が白と言えば高瀬は黒と言った。一方が笑顔を見せればもう一方は無表情に徹した。
そんな冷戦とでも呼ぶべき緊迫した状況は、俺の胃をいつになくきりきり痛ませた。もう稽古どころじゃなかった。それで結論から言えば、俺は逃げた。無意識のうちに俺は、舞台を降りて一目散に走り出していた。
体育館を出て廊下をだいぶ進んだところで、背後から誰かが追ってきていることに俺は気づいた。王子の格好。黄色い声を上げる女子たち。太陽だ。
彼と追いかけっこをしたところで、全身に鎧をまとって腰に剣を差している俺に勝ち目はなかった。どうしようか考えながら角を曲がると、そこでよく見知った顔と鉢合わせた。月島は2年A組の教室の前で、なにやら気味の悪い女の人形を作っていた。
「誰かと思ったら、神沢かよ。どうした?」
「王子に追われてるんだ」と俺は肩で息をして言った。「胃も痛い」
「王子? 胃? なんのこっちゃよくわかんないけど、そういうことなら」と言って月島は、俺の体を2年A組の教室へと押し込んだ。そこは黒い布で外の光が遮られているうえに迷路みたくなっていて、身を隠す場所としてはうってつけだった。耳を澄ませばどこからかお経が聞こえてくる。そういえばA組の出し物はお化け屋敷だったな、と俺は思い出す。
「おう、月島嬢」ほどなくして外から太陽の声がした。「悠介見なかったか? こっちに来たはずなんだよ」
「ああ、来た来た」月島はしれっと応じる。「神沢ならお尻を手でおさえながら『三年に一度の大物だ』って泣きそうだったから、学校中のトイレを探せばどこかにはいるんじゃない?」
「本当か! あのクソッたれ、必ず連れ戻してやる。月島嬢、サンキュな!」
廊下を蹴る音が遠くなると、目の前にきれいな形の頭が現れた。
「もう少しまともな嘘がつけないもんかな?」と俺は月島にちくりと言った。
「助けてやったんだからつべこべ言うな」と彼女は答えた。まぁもっともだ。「それはそうと謎の騎士よ。ほとぼりが冷めるまでしばらくここに隠れていろ。匿ってやる」
当然のことながら、どうして劇の稽古から逃げてきたのかそのわけを月島は知りたがった。俺は正直に打ち明けることにした。高瀬と柏木が生み出すギスギスしたムードに胃が耐えられなくなったのだ、と。
「なるほど」と彼女はギミックとして使う人形・呪裏ちゃんの口元に血糊を塗りながら言った。「話には聞いていたけど、あのふたりの仲がそこまで悪化してるとはね。実に愉快だ。ケケケケケ」
迫り来る呪裏ちゃんを俺は払いのけた。「怖いよ」
月島はおほん、と声色を戻した。
「まぁでも、高瀬さんも柏木もなんだか可哀想な気がするね。“未来の君”の占いに一喜一憂させられているみたいで。占いごときに翻弄されるなんてアホくさいと思えたらちょっとは肩の力が抜けるのに。その点私は楽なのだ。一貫して“未来の君”関連の話題とは距離を置いているからね。占いなんか信じてないからね。キミといっぱい気持ちいいことをするのは、あのふたりじゃなく、私だ」
彼女の独特の言い回しにもすっかり慣れた。今さら驚きはしない。
「高瀬も柏木も妙にナーバスになってる今、おまえだけはいつものおまえでいてくれて、本当にほっとするよ」
それを聞くと月島は、俺ではなく呪裏ちゃんに話しかけた。
「聞いておくれよ呪裏ちゃん、こいつはひどい男なんだよ。今のセリフだってなにげなく言ってるつもりなんだろうけど、私をドキッとさせていることに気づきやしないんだ。呪裏ちゃん、こんな男、呪っておしまい!」
俺は迫り来る呪裏ちゃんを再び払いのけた。「占いは信じないのに呪いは信じるのかよ」
何はともあれ、月島とたわいのない話をしていると、気が紛れるのは事実だった。胃の痛みも和らいできた。そろそろ稽古に戻るよと言いかけたところで、彼女は「ひっ」と怯えたような声を出した。
「どうした?」と俺は言った。
無言で擦り寄ってきた月島は、教室の外を見ていた。その視線の先には、ひとりの男子生徒の姿が確認できる。曲がり角の影からちらちらとこちらの様子をうかがっている。
「あの人」と月島は耳元でささやいた。「最近ずっと私につきまとってるの。神沢は覚えてない? 私たちと同じ中学校だった人。同級生。オクラって呼ばれていじめられていたでしょ?」
「あのオクラか!」
彼はたしか奥村という名字だったはずだが、いかんせんネクラなうえに粘着質な性格をしていることから、そんな粘っこいあだ名がつけられていた。心ない連中に囲まれて『これで一品できあがり』と醤油やかつおぶしを頭からかけられた一件は、今でも語りぐさになっている。
「なんだってあのオクラがおまえにつきまとうんだ?」
「なんかね、あの人、高校に入ってからボクシングを始めたみたいなの。いじめられていた過去の自分と決別するために? 神沢がすぐには誰だかわからなかったのも当然だよ。風貌がまるで中学時代とは違うんだから。それであの人、今度大事な試合があるから、私に観に来てほしいって言うわけ。おれを応援してほしいって」
顔中を腫らしてエイドリアンとリング上で叫ぶスタローンが思い浮かんだ。
「早い話が、オクラはおまえのことが好きなんだな?」
おえっと月島は嘔吐く。
「勘弁してよ、せっかく考えないようにしてたのに。たとえ百億積まれたって私はあの人の子は産めない」
すまん、と俺は詫びた。「話を戻すけど、それだけ強く拒絶しているからには、当然その誘いは断ったんだろ?」
「それが」と月島は弱々しくつぶやいた。「他の男なら迷わずそうするんだが、なんだかあの人は妙に恐いんだよ。断ったら何をされるかわかんないっていうかね。中学の時のひ弱な彼ならまだしも、今はボクサーとして体もガッチリ鍛えているわけでね……。だから仕方なく返事をうやむやにしていたら、こうしてしつこくつきまとうようになっちゃって。いやぁ、参った」
「ストーカー」と俺は言ってみた。
「ストーカー」と彼女はうんざりして言った。
「そういえばおまえ、去年の今頃もたしかストーカーに悩んでいたよな?」
「そう。変態教育実習生!」
「すっかり秋の風物詩だな」
「人の不幸をマツタケやサンマみたいに言うな」月島は鎧を小突いてくる。「とにかく、勘違いしてもらっちゃ困るけど、私はオクラに対して思わせぶりな態度を取ったりはしていないからな」
「はっきりと断ってもいない」
「でもさ、普通はわかるでしょ。なんとなく表情や声色なんかで。ああ、自分はこの人には好かれてないな、脈がないな、っていうのは。たしかに体は鍛えたかもしれないけど、心は以前のままなんだ、彼は」
俺はなんの気なしに廊下の曲がり角へ目をやった。見違えるほどたくましい体つきになったオクラは、こちらを眺めながら不満そうに何やらぶつぶつ独り言を言っていた。これは月島でなくとも関わり合いになりたくないなと思ったところで、一生のお願い、とその月島が口を開いた。
「ねぇ、私の代わりにキミが今行って誘いを断ってくれないかな。ついでに、もうつきまとわないでって、伝えてほしい」
「えぇ?」
「なんだよ薄情だな。匿ってやっただろう? 貸しがあるんだぞ、私には」
俺は再び曲がり角のオクラを見た。いやでも隆々とした腕が目に入る。
「ボクシングやってるんだよな、あいつ……」
「何を怖じ気づいてる。それでも騎士か。その腰に差している剣は飾りか?」
本物なら大変だった。「飾りだよ、あいにく」




