第66話 ようこそ、不思議の国へ 5
さすがちょっと前まで援助交際まがいのことをしていただけあって、藤堂アリスは客のおっさん連中の扱い方を心得ていた。敬語も使わなければ愛想笑いもしないが、話しかけられれば気取ることなく応じたし、冗談を言われれば腹を立てることなく冗談で返した。
金色の髪を振りまわしながらきびきびと立ち働くその凜々しい姿は、さながら名うてのガンマンたちが集うバーの看板娘のようで、“握り拳”という屋号からしていかにも男臭かった場末の居酒屋に突如現れた少女は、早くもみずからの立ち位置を獲得したようだった。
客の関心が彼女に向いたことは、俺にとっても好都合だった。俺はもっぱら料理と酒の給仕に専念すればよかった。酔っ払いの話し相手にならなくてよかった。言うまでもないが、同じ給料なら仕事の量が少ないに越したことはない。
そのようにして何事もなく二時間が経過し、このぶんだとなんとかやっていけそうだなと手応えを感じはじめたところで、それは起こった。
発端は一人の客の来店だった。
その男は近くのパチンコ屋で副店長を務める40代の独身で、仕事が休みの日にはこうしてよく店に顔を出した。上司(すなわちパチンコ屋の店長だ)が年下の女性でまったく反りが合わないようで、そのことが彼にとって精神的に大きなストレスになっているらしかった。
シラフのうちはいたって温厚で、ともすればどちらが客なのかわからなくなるほど低姿勢なのだが、酔いが回るにしたがって言動が刺々しくなっていく傾向がその男にはあった。一言でいえば酒癖が悪かった。
酔うと決まって隣の客やマスターや俺に上司の女店長の悪口を言った。なかには性的に侮辱するような聞き苦しいものもあった。
「女は家で家事をしていればいい」というのが年下の女上司に仕えるなかで彼が育んだ持論であるらしく、他の客たちのあいだで女性の社会進出がどうのこうのという話題が出ようものなら、目の色を変えてみずからの意見をまくしたてた(もちろん彼は好かれておらず、陰で皮肉を込めて“ご意見番”と呼ばれていた)。
そんな、異性に対してどこかしら屈折した感情を秘めている客の来訪は俺に嫌な予感を抱かせたわけだが、その予感は思いがけぬかたちで当たることとなった。
「どこかで見たことがあるな」とご意見番は藤堂アリスの後ろ姿を見据えて言った。彼はカウンターの端の席に座り、すでに瓶ビールを二本空けていた。
一方、藤堂はといえば、ご意見番が暖簾をくぐってきて以来ずっと様子がおかしかった。口数は極端に減り、しきりに髪で顔を隠すような仕草をするようになっていた。
「どこかで見たぞ」とご意見番はしつこく繰り返した。そしてはっと目を見開いた。「そうだ、あの時の! おいバイトの姉ちゃん、こっちに顔を向けろよ」
藤堂ははじめは聞こえないふりをしていたが、やがて諦めたように彼の指示に従った。
「やっぱりそうだ」ご意見番は自身のあばた面を指さす。「なぁ、おじさんのこと、覚えてるかい?」
彼女はすげなく首を振った。「覚えてない」
「よく見ろよ、ほら。半年くらい前に――なぁ?」
ご意見番のその「なぁ?」には、やましさともやらしさともつかない歪なものが滲んでいた。それで俺はこの二人の関係に気づいた。限りある輝ける時間を売り出した側と、それを金で買った側だ。
「何のことかわかんない」藤堂は小声で答えた。「本当に覚えてない」
「またまたぁ。そのぶっきらぼうな話し方とか、なによりそのパツキンとか、間違いなくあの時の女の子だよ」そこでご意見番はビールをあおり、グラスを叩きつけるように置いた。「よくも別れ際におじさんのことを気持ち悪いだのなんだの言って罵ってくれたね。あの夜は悔しくて眠れなかったよ」
近くの品の良い客がご意見番をそれとなくたしなめた。しかし火に油を注いだだけだった。
「そういえば、君、鳴桜高校の一年生だって言ってたよな? 制服だって着ていた。高校生がこんなところで働いていいと思ってんの? ましてや進学校の鳴桜だよな?」
客たちの視線が一斉に藤堂に向けられる。言われてみればたしかにまだ子どものようにも見えるな。そんな心の声が店のあちこちから聞こえてきそうだ。本人もそれを感じたのか、慌ててこう反論した。
「だから、人違いなんだって。私はよく若く見られるけど高校生じゃない。大学生。だから居酒屋でバイトしても何も問題はない」
「まだシラを切るか。だったら――」と言ってご意見番は新しいグラスにビールを注ぎ、それを彼女に差し出した。「飲めよ。大学生なら酒くらい飲めるだろ。ほら、飲んでみろ!」
俺は風紀委員として藤堂を生活指導した際に、本人から聞いた話を思い出していた。彼女は甘酒ですら飲んですぐに吐いてしまうほどアルコールを受け付けない体質だった。このままでは彼女は保身のためにご意見番の挑発に乗りかねないし、それに何より、さきほど取り交わした協約のこともある。俺は思いきってふたりの間に割って入った。
「どうもすみません、生意気な奴で。こいつ、こう見えても酒もタバコもやらないんです。どうか勘弁してやってください。あ、それから、大学生っていうのは本当ですよ。鳴大の一年生で、英米文学を専攻しています」
「騙されないぞ」ご意見番は語調を荒くする。「おれはたしかにこの目で見たんだ。鳴桜高校の制服を着たこの娘を」
「そんなはずないんだけどなぁ」俺は腕を組んで悩むふりをした。「ちなみに、何の用で会ったんですか?」
「そ、それは……」
「援助交際のようなことですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。この娘がお金がほしいって言うから、ちょっと会っただけだ」
「いずれにしても、夜の街で会ったわけですね。一対一で?」
「ま、まあな」
俺はこの危機を乗り切るため、いちかばちか一芝居打つことにした。藤堂アリスの肩に、なれなれしく手を置く。
「それならなおさらあり得ませんね。実はこいつ、僕の妹なんです。僕は兄貴として、自分の妹がそんな危なっかしい真似をするのを黙って見過ごしたりなんかしません。だから人違いですよ。ほら、世界には似た人が三人はいるとも言いますし」
ここでもし藤堂に手を払いのけられたりしたら万事休すだったが、彼女とてせっかく見つけた仕事場を一日で辞めたくはないらしく、おとなしくうなずいていた。ただ、客から見えないカウンターの中では、軽く蹴りをかましてきたが。
「信じられないな」ご意見番は注意深く俺と藤堂の顔を見比べた。「そうだ、証拠を見せてみろ。おまえたちが兄妹だという証拠を」
あいにく、前髪を上げれば同じ紋様の聖印が額に浮かび上がっているわけではないし、手をつないで祈れば天駆ける竜を喚べるわけでもない。しかしながら実に幸運なことに、俺たちは今、同じアイテムならば持ち合わせていた。
チノパンのポケットに手を入れ、フクロウのキーホルダーがついた彼女の鍵を取り出す。先ほど、どちらかが裏切ったりしないようにと交換したものだ。妹も兄の意図するところがすぐにわかったようで、同じように鍵を手にとった。
「見てください」と俺は言った。「色こそ違いますが、同じフクロウのキーホルダーです。男女でおそろいにするなんて、恋人同士じゃないなら、仲の良い兄妹くらいしか考えられないでしょう? ね? 正真正銘、こいつは俺の妹です」
ご意見番は面白くなさそうに鼻の穴を広げたものの、反論はしてこなかった。もう一息だ、と確信した俺は、カウンターの中で藤堂アリスのかかとをつま先でつついた。「一言くらい妹らしいことを言え」という合図だ。
すると彼女はあどけない表情をその大人びた顔にどうにかしてこしらえ、こうのたまった。
「お兄ちゃん、大好きっ!」
♯ ♯ ♯
バイトを終えた俺は、街頭の灯りをたよりに家路についていた。隣には藤堂アリスもいる。ご意見番の前で即興の寸劇を演じたあとで、実は俺たちは幼い頃に生き別れた本当の兄妹であることが発覚した――なんてことはもちろんなくて、ただ単に家が同じ方向だっただけだ。
「ちょっとは感謝しろよ」と俺は自動販売機の前で言った。「あそこで俺が機転を利かせなきゃ、今頃どうなっていたかわかんないぞ」
「うるさいっての」と藤堂はかわいげもなく言った。「協約だっけ? どっちかがヤバくなったら助けるっていうのを提案したのはそっちでしょ。アンタはあたりまえのことをしただけ。偉そうにすんな」
頭に来た。教育係として〈おつかれさん〉の意味も込めて、缶ジュースの一本でもおごってやろうかと思っていたが、やめた。
「これからどうすんだよ」と彼女は続けた。「あの店でバイトしている間はアンタと兄妹ってことで通さなきゃいけなくなっちゃったじゃない。冗談じゃないんだけど」
「仕方ないだろ。あの時は目の前の危機をどう乗り切るかで精一杯だったんだから。他に何か良い方法があったなら是非とも教えてほしいね」元はと言えばおまえのせいだろ、と俺は心で続けた。
「ついてない」とつぶやいて彼女は小石を蹴った。
俺は飛んでそれをよけた。
「でもよかったじゃないか。もうあの客が店に来ることはないんだから」結局ご意見番は例によって見苦しいほどの酒癖の悪さを露呈し、競馬で負けて虫の居所が悪かったマスターによって無期限入店禁止を言い渡されたのだった。「あの男とのあいだに、いったい何があったんだ? おまえ、だいぶ恨まれていたみたいだけど」
「それは完全な逆恨み」と彼女は答えた。「二時間だけいっしょに食事するだけっていう約束だったのに、あのオヤジ、焼肉屋から出たところで私の腕を引っ張って、『ホテルに行こう』とか言い出したの。なんとか振りほどいて逃げたからよかったけど……。今まで会った男の中で最悪だった」
やはりと言うべきだろう、風紀委員長の加藤さんが危惧していたようなことは、実際に起きていたのだ。俺はやるせなさを吐き出すようにため息をついた。
「なぁ。そろそろ教えてくれないか。どうしてそんな危険を冒してまでおまえは夜の街に出てこなきゃいけないんだ?」
「アンタに関係ないでしょ」
「アンタにも関係すること。このあいだそう言ったのは、他の誰でもなくおまえだぞ」
「揚げ足取んな!」
俺はかまわず続けた。「それにおまえは俺の名前も知っていた。面識なんか全くなかったのに。それどころか、その……俺が高瀬に恋をしていることまで知っていた。ほとんど誰にも打ち明けてなかったのに。藤堂アリス。いったいおまえは何者なんだ?」
30メートルほど歩いたが、彼女が答える気配はなかった。
「言っておくが、こうなった以上、話すのはおまえ自身のためでもあるんだぞ。今日はたまたま首尾良く運んでピンチを凌げたけど、今度また同じようなことがあったら、その時はボロが出るかもしれない。高校生であることがバレるかもしれない。そうならないためにも、おまえという人間をよく知っておく必要がある。違うか?」
藤堂はさらに10メートルほど進んだところで、諦めたように立ち止まった。
「何から話せばいい」
また自動販売機があったので俺はジュースを二本買い、一本を彼女に与えた。
「そうだな。まずは、金を稼がなきゃいけない理由からだ」
「本当に面白くないけど、金が必要な理由はアンタと同じ」藤堂は缶を開けジュースを飲む。「大学に行くための学費にしたいの」
そういえば、と俺は思い出す。加藤さんは言っていた。藤堂アリスは授業をサボったりしないし成績もけっこう上位だと。賢き問題児。礼の一つも言えないこの女がどれだけきちんと勉強しているのか、ちょっと試してみたくなった。
「ピカソの『ゲルニカ』って、何の戦争をモチーフにした作品だっけ?」
「なに、急に」
「ど忘れしちまって」
「変なの。そんなの、スペイン内戦に決まってるでしょ」
少しだけ見直してやってもよかった。
「どこか、行きたい大学でもあるのか?」と俺は尋ねた。
「美大」と藤堂は答えた。「美術大学で絵画の勉強をして、将来は画家になりたいの」
そう聞くと、彼女の金髪も心なしかアーティスティックに見えてくるから不思議だ。いずれにせよ、さっきの問題は、画家志望に出すべき問題ではなかった。
俺は腕時計を見た。日付が変わるまであと一時間だ。
「でも、いくら学費のためとはいえ、こんな時間まで働いていて、親は何も言わないのか?」
「うち、普通じゃないから」藤堂はなんでもなさそうに言う。「アンタの家と同じくらいか、もしかしたらそれ以上に、うちもワケありなの」
藤堂という名字を彼女が忌み嫌っていることとそれは何か関係があるのだろうか? きっとあるのだろう。しかしあまり根掘り葉掘り聞くのも躊躇われた。せっかく重い口を開いてくれているのだ。デリケートな領域に立ち入って機嫌を損ねたくない。
「勘違いしてもらっちゃ困るけど」と彼女は続けた。「うち、別に貧乏なわけじゃないから。ていうか、金持ちだから。家には広い日本庭園があるし、外車だって何台もある。だから私一人美大にやるくらい痛くもかゆくもない。でも私は、家の金で自分の夢を叶えることだけはできないの。絶対に。意地でも私は自分の力で美大に行く」
本当にワケありなようで、と俺は心で同情した。
「とりあえず金が必要な理由はわかった。では次だ。おまえが夜の街に出るのにはもうひとつ、大きな目的があると言っていたが、それはなんだ?」
藤堂は20歩ほど無言のまま進んだ。そして言った。
「占い師を――“未来の君”の占い師を――見つけ出したいの」
俺は手に持っていた缶を思わず落としてしまった。残っていたジュースがアスファルトに染みを作った。どうなってんだ、と俺は立ち尽くして思った。
まさか、藤堂の口から“未来の君”という言葉が出てくるとは。
俺はなんだかふいに自分がおかしな世界に迷い込んだような錯覚に陥った。アスファルトの染みの形は、懐中時計を持った白ウサギのように見えなくもなかった。そういえば藤堂の名はアリスだった。染みからぬっと白ウサギが現れて、“ようこそ、不思議の国へ”と喋りだしても今の俺はちっとも驚かない。
「ちょっと、大丈夫?」
「あ、ああ」俺は我に返って頬を二度三度軽く叩いた。「おまえも“未来の君”の占いを受けたのか?」
藤堂は首を横に振った。
「でも私は、占い師に会わなきゃいけないの。占い師は必ず夜に現れる。だから夜の街に出て、金を稼ぎながら、占い師を探していたってわけ」
「一石二鳥と言っていたのは、そういうことか」
彼女はうなずいた。
「おっさんたちと会っていたのだって、単に金が欲しかっただけじゃない。占いに凝っているフリをして、占い師の関する情報を集めていた。なんていうか、いろんな意味ですごく効率が良かったのに……。アンタら風紀委員がしゃしゃり出てきたせいで、台無し」
「そいつは悪いことをしたな」と俺は言った。「なるほどな。俺たちに咎められたあと、新しい仕事場に居酒屋を選んだのも同じ理由か」
「そう。いろんな客が来るでしょ、居酒屋って。夜に飲み歩くような人たちなんだから、うまくいけば占い師の話が聞けるかもしれないと思って」
俺は缶を拾ってゴミ箱に捨てた。「それで、占い師の行方につながるような有力な手がかりは得られたのか?」
「全然。だから視点を変えて、実際に占われた人のことを調べたりもしてる。アンタの名前や好きな人を私が知っているのは――別に知りたくもないけど――そのせい」
俺は合点がいってうなずいた。「これが一番肝心なんだが、おまえが占い師に会わなきゃいけない理由はなんだ? 知りたいのか? 自分の“未来の君”が誰なのか」
「まさか」藤堂は吹き出す。「恋とか運命とか、そういうものが私は大嫌いなの。興味がない」
「それじゃあ、どうして」
彼女は空になった缶を手でつぶした。そして言った。
「復讐する。私はその占い師を、絶対に許さない」




