第66話 ようこそ、不思議の国へ 1
その日の放課後、俺は風紀委員としての初仕事に臨むべく、いかつい腕章をつけて校舎の果てにある空き教室に向かっていた。同じく委員の加藤さんもいっしょだ。
みんなからいい人と評判の加藤さんはともかくとして、優等生でもなければ模範生でもない、どちらかといえば秩序を乱す傾向さえある俺がなにゆえ風紀委員会なんぞに属しているかといえば、それは貧乏くじを引かされたからに他ならない。
学年が後期に入るのにともない半年に一度の委員会決めがクラスでなされたわけだが、品行方正な生活態度が求められるうえに他の生徒から疎まれやすいその性格から、風紀委員の二枠だけはいつまで経っても空欄のままだった。
そんな状況を見かねた加藤さんが「私がやります」とけなげに言って(四期連続四回目の選出だ)とりあえず一枠は埋まったものの、それに誰かが続きそうな気配はまるでなかった。
となればもう一人のいけにえは、もはや天に聞いて決めるより他に手はない。厳正なるくじ引きの結果、赤丸の記されたあたりくじは、何の因果か俺の元へやってきたのだった。
「なんだかごめんね神沢君」と隣で言って加藤さんは両手を合わせた。「風紀委員なんか誰もやりたくないよねぇ」
俺は歩きながら首をかしげた。「なんで加藤さんが謝るの」
「ほら私って、一年生の頃からずっと風紀委員でしょう? だから生き字引みたくなっちゃっていて、この秋から委員長を任されてるの。トップとして、むりやりこっちの世界に引き込むかたちになって、悪いなと思って。仕事のやり方は丁寧に教えるから、半年だけ我慢してね」
「いい人だなぁ」と俺は感嘆した。彼女は何も悪くないのに。これでもまだふて腐れていたらバチがあたるというものだ。姿勢をただし、声を整える。「未熟者ですが、委員長の下で、しっかり働かせていただきます」
加藤さんはほっとしたように微笑んだ。でもすぐにまた手を合わせた。
「それはそうと、なんだかごめんね」
今度はなに、と俺は思った。
彼女は言った。「神沢君、出し物の劇で主役をやることになっちゃったじゃない? そもそも私が創作劇を提案しなければ、そうはならなかったわけで。ここだけの話、本当は主役を演じるのは、あまり気乗りがしないんでしょう?」
あまり気乗りがしないなんていう甘っちょろいレベルではなく、嫌で嫌で仕方ないというのが本音だったが、俺は苦笑してごまかした。いまさら彼女に愚痴をこぼしたところで、どうにかなることでもない。賽は投げられたのだ。
「キャスティングをすべて一任させてくれるなら台本を書いてもいい」という高瀬のある意味独裁的ともいえる逆提案は、何人かの協調主義者の眉をひそめさせはしたものの、おおむねクラスでは好意的に受け入れられた。少なくとも声を上げてまで反対する生徒はいなかった(俺は呆然として言葉が出なかった)。
そんなわけで紆余曲折あったが、我々2年H組は結局、一ヶ月後の学園祭で創作劇を上演する運びとなったのだった。
それはとりもなおさず、高瀬が書いた台本で俺と柏木がラブストーリーを演じるということであり、本番までは毎日のように稽古をしなければならないことまで併せて考えると不安で億劫で憂鬱で退学届を提出したくもなるが、みずから未来を閉ざすような真似ができるはずもなく、俺は腹をくくらなければいけない状況に追い込まれていた。
「それにしても」と隣で加藤さんは独り言のように言う。「配役を一任させてほしい、なんて、きっと高瀬さんには何か良いアイデアがあるんだろうな。鳴桜祭で優勝するためのとっておきのアイデアが」
それはどうだろう? と俺は心で疑問を呈した。たしかにクラスのためにがんばると高瀬は言ったわけだけど、それはあくまでも建前というやつで、心には何か別の思惑があるような気がしてならない。
まぁ高瀬に裏の顔が――それもかなり黒い面が――あることなど、いい人と評判の加藤さんには思いつきもしないだろうが。
目的地の空き教室が見えてきたので、俺はひとまず劇のことは頭から追い出した。
「それで加藤さん。今日の仕事内容は?」
「そうだ。まだ話してなかったね」委員長ははっとしてクリアファイルから資料のようなものを取り出した。「素行が悪い生徒が一人いるんだけど、この子に生活態度を改めるよう、今から注意しに行きます。早い話が、生活指導ってことね」
「生活指導?」つい間の抜けた声がでる。「え? それって、教師がやることじゃないの?」
「この子の場合は、相手をしていると精神がすり減っていくみたいで、先生方もお手上げなんだって。それで風紀委員でなんとかしてくれっていう話になったの」
「丸投げじゃないか」俺は職員室を白い目で見た。「というか、相手をしていると精神がすり減るって、どんな生徒だ、それ」
「神沢君、知らない?」と嫌味なく言って加藤さんは資料を俺に渡した。「一年生の藤堂アリスさんっていう女の子。なんでも生徒や先生のあいだでは『鳴桜高校始まって以来の問題児』とか『非行のデパート』っていう風に呼ばれているみたい」
「なかなか名誉な称号をお持ちのようで」
将来そんな子の父親にだけはなりたくないなと思いながら、俺は資料に目を通した。藤堂アリスがしてきたとされる悪事一覧には、喫煙があり飲酒があった。暴力があり暴言があった。破壊行為があり窃盗行為があった。ないものがなかった。非行少女の見本のようなプロフィールだった。
なかでもひときわ目を引いたのは、“深夜徘徊”の項目だ。
「繁華街においてスーツ姿の男性と一緒にいるところを多数目撃……」
隣で加藤さんは気まずそうに咳払いする。
「ぼかしてはいるけれど、それがどういうことかは、神沢君もわかるよね?」
「春を売るってやつね」俺は後輩の未来を憂えてため息をついた。「しかしこれだけ散々やっておいて、よく今まで退学にならなかったな」
「高校を辞める気はないみたい。その証拠に授業をサボったりはしないし、成績もけっこう上の方なの」
「賢き問題児」と俺は言ってみた。
「そう」と加藤さんは言って空き教室を見た。「でも、警察沙汰になったりなんかしたら学校の評判にもかかわってくる。だから、今のうちにしっかり本人にお灸を据えます」
俺はうなずいて藤堂アリスを呼び出しているという空き教室へ歩き出したが、どういうわけか加藤さんは立ち止まったままだった。どうしたのと聞くと、彼女は不安そうに小さく肩をすぼめた。
「私、実はこの仕事あんまり好きじゃないんだよね。人にああしなさいこうしなさいって言うのって疲れるし、それにどうしたって煙たがられる。私なんか四期目だから、廊下ですれ違った生徒に、舌打ちされることもあるんだよね……」
「それならどうして、すすんで風紀委員に立候補なんかするの」
加藤さんは「風紀」と書かれた腕章を心なしかきつく付け直して答えた。
「だって必要な仕事には変わりがないわけで。風紀委員に限らず、『やりたくないからやらない』ってみんなが言っていたら、世の中は良くなっていかないでしょう?」
「いい人だなぁ」と俺はふたたび感嘆した。この際、仮病でも使ってたった一度の劇の主役すら誰かに押しつけちまおうかと考え始めていた自分の愚かさを、心より恥じる。




