第63話 ふたりは出会うべきではなかった 3
もう二度と会うことがないと思っていた母親の登場は、俺に少なからず動揺を与えた。彼女は右手に傘を持ち、左手でキャリーケースを引いていた。ほとんど雨に濡れていないところを見ると、空港から寄り道せずに直接ここへ来たようだ。そして足としてタクシーでも使ったのだろう。アクセサリー類は一切身につけておらず、化粧も最低限に抑えられていた。
しばらくきょとんとしていた高瀬だったが、言葉もろくに発せぬほどうろたえる俺の様子を見れば、戸口に立つ人物が誰であるのか察したようだった。
「あなたが有希子さんですね」高瀬は声に怒りを滲ませる。「神沢君の人生をめちゃくちゃにした人……」
聞こえなかったわけではないだろうが、母は表情をぴくりとも変えなかった。
それに対して高瀬は眉をひそめていた。「今更いったい何しに帰ってきたんですか?」
母は間を置いてから口を開いた。「母親が自分の息子に会うのに、何か特別な理由が必要なのかしら」
「母親?」と高瀬は語尾を上げて繰り返した。「有希子さん。彼の今の顔色を見て、何か気づくことはありませんか?」
「具合があまり良くないのね」
「そうですよ」と高瀬は食ってかかるように言った。「風邪をひいていて、熱があるんです。数日後には二学期が始まります。本来ならあなたが温かいご飯を用意したり、病院に連れて行ったりして、なんとしてもそれまでに体調を回復させなきゃいけないんです。
それがどうですか。お夕飯を作るための食材が入った買い物袋じゃなく、そんないかにも『遠くからはるばる来ました』って感じの大きい旅行カバンを持って彼の前に現れるなんて、みっともないと思わないんですか。なにが『母親』ですか。笑わせないでください」
母は反論の言葉らしきものを口にしかけたが、思い直したように口を噤んだ。
「言いたいことはまだあります」高瀬の語気は強まるばかりだ。「3月に彼はあなたに会いに富山へ行きました。そこから帰ってきた彼はある発作の症状に苦しめられる羽目になったんですが、もちろんあなたはそんなことまるで知らないんでしょうね」
「それは触れなくていいよ」と俺は慌てて口を挟んだ。発作のことを母に知られるのは、なんだか弱さを露呈するようで恥ずかしかったのだ。「今はもう治ったんだから」
「だめだよ、神沢君。誰かが言ってやらなきゃ。私はどんなにがんばっても、神沢君のお母さんになることはできないから、せめて代わりに憎まれ役になる」そこで彼女は、自嘲気味に小さく笑った。「ごめん。格好つけすぎたね。正直に言う。この人に怒りをぶつけないと、私の気が済まないの」
高瀬の闘志に一度ついた火を消す方法などどこにもないことは、彼女との長い付き合いで嫌と言うほどわかっていた。いいだろう、と俺はなかば諦めた。こうなったら気が済むまでとことんやればいい。
「あなたには柏木恭一さんとのあいだに双子のお子さんがいるそうですね。その双子のそばで笑うあなたの顔が突然脳裏に蘇り、そして反射的に吐いてしまう。彼は長い間、そんな発作と闘っていたんです。なにが彼を救ったと思います? ぬくもりですよ。誰かのぬくもりを感じている時だけは、その発作はなりを潜めていたんです。
どうしたらそんなことが起こるのか、お医者さんにもはっきりした答えは出せませんでしたし、私にもうまく説明できません。でもこれだけは言えます。発作はある意味では、あなたに甘えることを我慢してきた反動なんです。彼はずっとずっと母親の愛情に飢えてきました。子どもは無償の愛を母親に求めます。それはちっともおかしいことじゃありません。男の子ならばなおさらです。
あなたはただの一度だって、彼のことを抱きしめてあげたことがないんじゃないんですか? いいですか、有希子さん。他の誰でもなく、あなたが彼を苦しめてきたんですよ」
高瀬は母の言い分を聞く時間を設けたけれど、母は何も言わなかった。しびれを切らしたように高瀬は話し続けた。
「有希子さんは私たちくらいの歳の頃、かなり苦労されたそうですね。なんでも不幸が重なって自分の思い描くような生き方ができなかったとか。でもどんな事情があったにせよ、生まれてくる子どもは親を選べないんです。にもかかわらずあなたは子どもを選んだ。彼ではなく双子を選んだ。私なんかが言うことではないかもしれませんが、そんなあなたに彼の母親を名乗る資格はありませんよ」
外から湿気を帯びた冷たい風が吹き込んできて、母は少し顔をゆがめた。
「とりあえず家に上げてもらいたいのだけど。あまり病人に外の風をあてるものじゃないわ」
「わかりました」と高瀬は渋々言った。「ありがとう」と母は淡々と返した。かくして先ほどまで平穏そのものだった居間が第2ラウンドの舞台となった。
「ところで、あなたは?」と母は上着を脱いで尋ねた。今度は私が主導権を握る、という意思表示のようにも聞こえる。
「申し遅れました。高瀬優里です。その昔、あなたに恋をしてフラれた男の娘と言った方がわかりやすいでしょうか」
「あなたが直行君の――」母は納得したようにうなずく。「言われてみればお父さんによく似ているわね。顔つきはもちろんだけど、世間知らずのくせして正論を振りかざすところなんか、特に」
「馬鹿にしてるんですか!?」と高瀬は声を荒らげた。
母は平然と肩をすくめた。「それで、あなたたち、交際しているの?」
「な、なんですか急に」と高瀬は言った。なんだよ急に、と俺も思った。
「だってずいぶん悠介のことをかばうから。まるで恋人のような怒りっぷりじゃない」
「彼は私に約束してくれたんです」高瀬は慎重に言葉を選んでからそう言った。「私は大学に行きたいという夢を持ちながら、ある事情でそれを諦めかけていました。でも彼は言ってくれました。『俺が高瀬の前にある壁を壊してみせる。だから一緒に大学を目指そう』って。神沢君、その約束、信じていいんだよね?」
「お、おう」不意をつかれて声が裏返るも、なんとか答える。「もちろんだ」
高瀬はうなずいて、たくましく向き直った。
「彼のその約束があったからこそ、私は今日まで前を向いて生きてこられたんです。そんな彼をあなたの存在が――いや、不在が――苦しめてきたとなれば、恋人じゃなくたって怒るのは当然でしょう?」
「ある事情?」母は聞き返す。「壁?」
「このままだと、私は高校卒業と同時に結婚しなければいけなくなります。父の会社とそこで働く従業員を守るための、言わば政略結婚です」
俺がいる手前、さすがに口には出さなかったが、母はこう思ったに違いなかった。
「私の高校時代と同じ」と。彼女は実家の葬儀屋を救うため、やむなく好きでもない男と結婚し、不幸にも俺が産まれたのだった。
「そういうこと」と母は言って、高瀬に一歩歩み寄った。「どうして初対面の私にここまで突っかかってくるのか、ようやくわかった。優里ちゃんだっけ? あなた、心のどこかでは私が羨ましくて仕方ないんでしょ? 自分と似たような境遇にありながら、最終的には愛する人と結ばれた私が。違う? そのお約束が守られるかどうか不安だからって、私に八つ当たりしないでもらえるかな」
まずいな、と直感的に思って俺はふたりの間に割って入ろうとした。しかし時すでに遅しだった。高瀬はたちまち母との距離を詰めたかと思うと、次の瞬間、鞭のようにしならせた右手を母の頬目がけて思いっきり振り抜いた。
雨音すら打ち消すその高く乾いた音は、平手打ちが見事に命中したこと如実に物語っていた。
強烈な一撃を母に見舞った高瀬は、「同じ女として私はあなたを軽蔑します」と言い残し、雨の中を帰っていった。俺は後を追うべきかどうか迷ったが、雨に濡れて風邪を悪化させたりなんかしたら、彼女にこっぴどく叱られるのは目に見えていた。なぜなら二学期開始直後にテストがあるのだ。だから家に留まることにした。
心のどこかに、一度外に出て戻ってきたら母が消えていて、それきり本当にもう二度と会えなくなるんじゃないかという思いがあったのも否めない。
二回り近く年下の少女にぶたれた左頬をしばらく無言でさすっていた母だったが、やがて気を取り直したように冷蔵庫の前へ進むと中をチェックし、そして夕食の買い物へと出かけていった。
高瀬も母もいなくなると、家の中がやけに広く感じられた。まるで家具をいくつか処分したみたいだった。とはいえもちろん家具のラインナップは以前と変わってなどいないので、俺はソファに腰を落とし、さて、と考えを巡らせた。さて、思いも寄らぬかたちで母と食卓を共にすることになってしまった。いったい俺はどんな顔をしてどんな声を出してどんな話をすればいいのだろう?
別に初恋の相手と再会したわけじゃないんだから、そこまでナーバスになる必要はないのだろうけど。
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母が買ってきたのは、いかにも高そうな牛肉と長ねぎと焼き豆腐と春菊だった。卵としらたきとそれから六本入りの缶ビールもあった。まさかすき焼きをするつもりじゃないだろうなと思ったが、果たして夕食はすき焼きだった。
「風邪を引いてるって高瀬に聞いて知ってるはずなんだけどな」と俺は椅子に座って言った。
ダイニングテーブルの向かいで母は缶ビールを開けた。
「せっかく久しぶりに料理を振る舞うっていうのに、お粥や素うどんなんかじゃつまらないじゃない。あいにく『おふくろの味』を提供することはできないけど、いいから食べなさい。良いお肉だから美味しいわよ?」
俺はため息をついて鍋に箸を伸ばした。高級割り下でほどよく煮られた高級牛肉がまずいわけがなかった。「まぁうまいけど」と俺は認めた。
「それはよかった」と母は言った。
食事をはじめて20分ほどが経過した。
結局俺はごはんをおかわりし、母は二本目のビールを開けていた。不思議なもので、腹が膨れてくるとそれに反比例するように肩の力が抜けていった。それで俺はずっと気になっていたことを口に出してみることにした。
「で、富山からわざわざ帰ってくるなんて、いったいどうしたの。柏木恭一と喧嘩でもした?」
母は小さく笑って手を振った。「悠介、夏休み中に東京へ行ってミッチーと会ったんだって? ミッチーでわかるわよね?」
俺はうなずいた。「黛みちるさん――高校時代の親友でしょ?」
母もうなずいた。「芸能事務所の社長って人脈が広いのねぇ。知り合いの探偵を使って私の居場所や連絡先なんかを調べ上げると、電話して叱ってきたの。『まだ高校生の息子を一人で放ったらかして何をやってるんだ』って。……旧友の言葉は耳が痛くてね。たった3日だけれども、一度帰ってくることにしたの」
あの人、裏でそんなことをしていたのか、と俺は驚いた。どこまでも考えていることが読めない人だ。ババ抜きで強いタイプだ。
見れば母はしきりに左頬を気にしていた。「まだ痛む?」と俺は尋ねた。
「アルコールのおかげでだいぶ和らいではきたけどね」と答えて母はビールを飲んだ。「それにしても、富山に来て恭一を叩きのめした晴香ちゃんといい、さっき私をぶった優里ちゃんといい、悠介のまわりには乱暴な女の子しかいないわけ?」
「高瀬の名誉のために言うと、普段の彼女は聡明でお淑やかなお嬢様だからね。賭けてもいいけど、人に手をあげたのは、あれが初めてだ」
「それだけ、優里ちゃんにとって悠介は大事ということね」
母の目に妖しい光が宿ったのを俺は見逃さなかった。
「まさか、高瀬の気持ちを試すために、敢えてあんな挑発するような真似を?」
彼女は口を閉じたまま笑う。
「だって、自分の息子のお嫁さんになるかもしれない娘でしょ? しっかり本心を見定めておかなくちゃ」
他にいくらでもやり方はあるだろ、と俺は思った。「やめてくれよ、心臓に悪い」
「でも良かったじゃない。好きという言葉こそ引き出せなかったけれど、脈はありそうで。どうでもいい男のために、あそこまで真剣に怒ることはできないもの。こうなればもう二人とも若いんだから、あまり難しいことは考えず、気がある者同士、同じ夢に向かって突き進めばいいじゃない」
わかった、と言いたいところだが、現実を直視すると、ついため息が漏れてしまう。
「それがそうもいかないんだよ」
「というと?」
「話すと長くなる」
「かまわないから話してごらんなさいよ。ちょうどいいじゃない。こうして私と向き合って食事したことなんかないから、話す話題に困っていたところなんでしょう?」
図星だった。「うまく話せるかな」
母は少し迷ってからビールの缶をつまみ、左右に揺らした。「ちょっとだけ、飲む?」
俺は耳を疑った。「風邪をひいている未成年の息子に酒を勧めるって、母親としてどうなの」
「いいじゃないの別に。どうせ今から百点満点の母親になんかなれないんだから」
アルコールの効果は絶大だった。
ビールをグラスに半分飲んだだけで嘘みたいに緊張は解け、とっ散らかっていた思考はまとまり、ばらばらだった言葉はすらすら口を衝いて出てきた。
俺は酒の力を借りなきゃ肉親と話もろくにできないのかと思うと情けなくもなったが、それは母も同じだった。「というわけで」と俺は一区切りつけるように言った。
「誰一人として、高瀬を選ぶことに賛同してくれないんだ。会う人会う人みんなが口を揃えて柏木を推してくる。みちるさんも、俳優の大橋隆之助も、東京でお世話になったせんべい屋の当代も。俺は高瀬が好きだ。もちろん誰が何と言おうがこの想いを貫くつもりでいる。
でもその一方で、これだけ多くの人に――人生経験が豊富な人たちに――柏木を選べと忠告されて、その決意がまったく揺るがないと言えば嘘になる。良い奴なんだよ、柏木も」
「それになんといっても、悠介の“未来の君”は晴香ちゃんだしね」
「ごもっとも」と俺は言った。
母はひとしきり考えてから口を開いた。
「優里ちゃんのことを本当に想っているのなら、その気持ちを大切にしなさいよ。なんだかんだ言っても好きな人と一緒にいるのが、一番の幸せよ?」
暗に俺と過ごした毎日は不幸せな日々だったと言われているようなものだが、今は揚げ足を取っている場合でもない。
「母さんは、好きな人が“未来の君”だったから、そういうことが言えるんだよ。高瀬が“未来の君”ならば、俺だってここまで悩まないさ」
困ったわね、という風に母は肩をすくめた。
「それじゃあ、私が応援してあげる。優里ちゃんとの恋を」
「えぇ? でも……」おのずと視線は彼女の左頬に向く。
「なんか勘違いしているかもしれないけど、私、あの程度のことで優里ちゃんを恨んだりしないから。むしろ割と気に入っているのよ? だって初対面の大人を引っぱたくなんて、かわいい顔に似合わずなかなか良い度胸してるじゃない。それに、あの子を見ているとなんだか高校時代の自分を思い出すの。当時の私とは見た目も性格も雰囲気も全然違うんだけれどね。もしかすると、人としての根っこの部分は似ているのかもね」
俺はどんな相づちを打てばいいのかわからず黙っていた。
母はカマンベールチーズを一口食べた。
「このままだと『高校卒業と同時に結婚しなければいけなくなる』ってたしか言ってたわよね? 優里ちゃん」
「ああ」
「それについてもう少し詳しく聞かせてもらえる?」
「ああ」
俺は高瀬が置かれている状況を嘘偽りなく母に説明した。
タカセヤの娘として会社を守るためには、ライバル企業であるトカイの御曹司と政略結婚をするか、あるいはこの街の政界と経済界に大きな力を持つ周防家に嫁ぐしか現時点では手立てがないのだ、と。いずれにしても彼女にしてみれば望まない結婚なのだ、と。
話が終わると母は冷蔵庫から新しいビールを持ってきた。
「直行くん――優里ちゃんのお父さんは、悠介と優里ちゃんの関係をどういう風に捉えているの?」
「交際しているものだと思っている。ちょっと訳あって去年の冬に彼の前で恋人同士のふりをしなきゃいけなかったんだ」
母は眉間を狭めた。
「それなのに、直行くんは周防家と優里ちゃんとの結婚を前向きに考えているわけ?」
「そうらしい」
「悠介と優里ちゃんの気持ちはどうなるの?」
「度外視だ」と俺は答えた。本当にそうなのだ。
「ちょっとそれは聞き捨てならないな」母は声を震わせてそうつぶやくと、冒険好きの誰かさんと同じように、両目をきらきら輝かせた。「決めた。明日、本社に乗り込んで、話をつけてきましょう。場合によっては、顔に食らった一発のお返しをさせてもらうことになるかもしれないわね」




