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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第二学年・夏〈解放〉と〈アイドル〉の物語
222/434

第63話 ふたりは出会うべきではなかった 2


 アイドルのプロデューサーという不相応な仕事を終え半月ぶりに帰郷した俺を襲ったのは、アデノウイルスだった。まぁ早い話が風邪だ。もうじき二学期が始まるので、いつにも増して体調管理には注意を払っていたつもりだったのだが、いかんせん東京との気温差が半端じゃなかった。


 連日真夏日が続いていた向こうとは対照的に、こっちの気温は季節外れの長雨のせいで10月下旬並みにまで落ち込んでいた。ローカルニュースの気象予報士もコートの襟を立てて「冬ですね」と三文芝居をやらされるくらいだった。そんな激しい気候条件の変化に疲れの蓄積したこの体が適応できるはずもなく、あっけなくウイルスの侵入を許してしまったのだった。

 

 家のチャイムが思慮深い誰か(・・・・・・)によって鳴らされたのは、始業式を3日後に控えて雨音を聞きながら安静にしていた夕方4時のことだった。


「え?」と俺は玄関ののぞき穴から外を見て困惑した。一瞬俺は発熱による幻覚を見ているのかと思った。しかしドア一枚隔てた向こう側にいるのは、間違いなく実在する人間だった。そこには傘を差して立っている高瀬の姿があった。


 困惑の次にやってきたのは疑問だった。


 なぜ高瀬は事前の約束もなく突然うちまで来たのだろう? きっと何か話をするためだろう。それは電話で済ますことができるような(たぐ)いの話ではないのだろう。


 それでは俺に何を告げるつもりで彼女はわざわざ雨の中を歩いて来たのだろう? 


 再びチャイムが鳴り、俺ははっと我に返って頭を振った。今優先すべきは、高瀬を暖かい家の中へ入れることだ。考えることじゃない。

 俺は鏡を見て寝癖を直すと深呼吸して、静かにドアを開けた。


「急にごめんね」と高瀬は言った。彼女はセーターの上にジャケットを羽織り、黒のロングブーツを履いていた。すっかり秋の装いだ。「今、大丈夫?」


「ああ」と俺は努めて明るい声を出した。「寒いだろう? 入りなよ」


「お邪魔します」

 高瀬は傘についた水滴をしっかり外で落としきってから玄関にあがった。育ちの良さはこういうところに表れるんだよな、と俺は感心した。

 

 高瀬は言った。「風邪ひいちゃったんだって?」

「うつらないように気をつけてくれ」俺は咳をこらえる。「夏の風邪はやっかいだ」


「そういえば神沢君、去年の夏も風邪をひいていたよね」

「そうだったな」ふとある単語とメロディが耳に蘇る。「夏風邪(・・・)


「夏風邪」と高瀬は懐かしそうに繰り返した。「夏フェスで演奏する曲が必要だから、ふたりで力を合わせて作るよう葉山君に頼まれたんだっけ」

「高瀬が歌詞を書いて、俺がそこにメロディをつけた」

 

 高瀬は『夏風邪』を鼻歌で歌いながらブーツを脱いで居間にあがった。俺は彼女を適当な場所に座らせると、キッチンに行ってホットココアを作りそれを出した。高瀬はマグカップを両手で持ってそこから暖を取るようにしてココアを飲んだ。


 彼女がどんな表情をしているのか、俺は部屋を片付けるふりをして横目でうかがってみた。なんらかの強い決意をセーターの下に秘めているということくらいは、硬くこわばった頬を見れば、いくら鈍感な俺でもわかった。

 

 高瀬はしばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。

「今日私がここに来たのはね、夏休みが終わる前に、どうしても神沢君に聞いてもらわなきゃいけないことがあるからなんだ」


 やっぱりな、と思って俺は身構えた。だいたい予想はついていたが、いざ切り出されてみるとやたら胸が重くなる。


 しかしながら俺は、その話を聞かないという選択肢をとるわけにはいかなかった。高瀬の目の前で「“未来の君”は柏木なんだ」と公言しておいて、これまでと何も変わらぬ日常を送ろうなんていう甘い考えは持っちゃいない。


 俺は一旦目を閉じて、それから彼女の顔を見た。

「わかった。話して」


 高瀬はうなずいて、マグカップを置いた。そして今になってようやくジャケットを脱いだ。心なしか、すこし痩せたようにも見えた。

「本題に入る前に、まず、空港で城之内さんから受け取ったマイクについてなんだけど」


「ああ、あれね」


「晴香や月島さんと相談してね、あのマイクは誰か一人の元じゃなくて、学校の私たちの部屋に置こうっていう話になったの。その方が城之内さんにとってもいいだろうって。つまり、この夏の“冒険の証”ってことになるのかな。神沢君はそれでもいい?」

 

 俺はぎこちなく笑った。

「偏差値46の三人で出した結論なら、俺としては異存はないよ」


「そう」と高瀬は言って、小さく咳払いした。「それで、ここからが重要(・・・・・・・)なんだけど、私、こっちに帰ってきてからずっと、考えていたことがあるんだ」

 

 俺は聞いているしるしに小さくうなずいた。

 高瀬は言った。「小説のこと、なんだ」


「小説?」俺は拍子抜けしてしまった。しかしすぐに、表情を引き締め直す。忘れちゃいけない。なにしろ彼女が今リライトしている原作の題名は、『未来の君に、さよなら』なのだ。


「20年前に柏木恭一さんが執筆した作品を現代風に書き直した私が、東京の出版社で編集の人になんてダメ出しされたか、神沢君は覚えてる?」

 

 実に手厳しい批評だったので、忘れるはずがない。

「なにがなんでもこの作品を世に出したい、一人でも多くの人に読ませたい、そういう積極性――情熱みたいなもの――がまったく感じられない。たしかそんな風だったよな?」

 

 高瀬はうなずいた。

「そう言われた時は本当に納得がいかなくて、出されたお茶をあやうく編集さんの顔にかけちゃいそうになったくらいだった。でも東京から帰ってきて、その言葉についてじっくり考えてみると、なるほどな、って思い直したんだよね。あの編集さんの言っていたことは間違いじゃなかったなって」


「というと?」


「この作品を世に出したい、多くの人に読ませたい、そういう情熱が感じられない。うん。それもそのはずだよ。だってこれは、私が書きたかった物語じゃないんだから」

 

 それはいったいどういうことだろう、と思って俺はいっそう耳を澄ました。

 

「神沢君もよく知っている通り、この小説を20年前に書いた晴香のお父さんは、主人公の男の子にとって優等生の娘と花屋の娘のどちらが“未来の君”なのか、そこを明らかにしないまま物語を終えてしまった。でも新人賞を本気で狙うなら、そんなあやふやな結末はあまり望ましくない。だから私は書き直すにあたって、まずはどっちが“未来の君”なのか、決める必要に迫られたの」

 

 優等生は高瀬に、花屋の娘は柏木に、そして主人公の少年は自分に置き換えて、俺は話を聞いていた。


「何度も繰り返し読み込んだ」と高瀬は言った。「読み込んでいくうちに、晴香のお父さんは、花屋の娘が“未来の君”だと念頭に置いてこの作品を書いたような気がしてきたの。台詞の端々や行間なんかになんとなくそれが滲み出ていたんだ。それに物語の構成としても、その方がなんだかしっくり来たんだよね。そういうわけで私は、花屋の娘を主人公の“未来の君”に据えて書き直しを始めることにした」

 

 ご名答、と俺は優等生の読解力にひそかに敬意を示した。事実、柏木恭一は、花屋の娘が“未来の君”であると占い師に聞かされていた。そして主人公は花屋の娘と手を取り合って歩いていくのだと。もっとも、小説家としてのこだわりが顔を出したようで、言われた通りには仕上げなかったのだが。


「私はどうすれば賞を獲れるか考えた。過去の受賞作の傾向を分析してみると、奇をてらわないきれい(・・・)な終わり方をしている作品が比較的多いことがわかった。それで私は、この物語がハッピーエンドになるよう心懸けて書き進めていくことにした。


 ハッピーエンドにするためには、なんといっても主人公の男の子に幸せになってもらわなきゃいけない。ちょうどこの作品の登場人物には、主人公を幸せな未来へと導く占い師がいた。彼は男の子に『幸せを望むなら“未来の君”と一緒に生きろ』と言う。その占いは物語のいわば核になる部分。そこをないがしろにしたら、いろんな部分にほころびが生じてしまう。


 だから男の子はその助言に従って、優等生には別れを告げなければいけなかった。彼は最終的には花屋の娘と一緒に生きる道を選ばなければいけなかった――。


 書き直しが一通り終わったところで、私は今度は、一読者として冒頭から最後まで通して読んでみた。


 物語の流れはとても自然で、自分でも驚くほど違和感がなかった。男の子と花屋の娘の幸せな未来が目に浮かぶようだった。もしもこの物語を100人に読ませたとしたら、きっと99人はこの結末に納得してくれるだろうと思った。新人賞が獲れるかもしれないという手応えさえ感じた。でも――」


 そこで高瀬は雨音をき消すほどの大きな深呼吸をした。そして弾力のある声で、でも、と繰り返した。


「でもそれは、私が本当に書きたい物語じゃない! そんなの全然おもしろくない! 神沢君、私はね、主人公の男の子を幸せにできるのは、花屋の娘じゃなくて、優等生の娘だと思うんだ。


 そりゃあ彼女は優等生とは言っても、頑固だし意地っ張りだし向こう見ずだしそれに怒りっぽいところだってある。それは認める。でも、でもね、他の誰よりも男の子のことを想っているんだよ。彼のことが好きなんだよ。花屋の娘が“未来の君”だと知ったら食べ物だって喉を通らなくなるし、夜だって眠れなくなるほど好きなんだよ!


 想いの強さは運命を変える。そう、私が書きたいのは、たったひとつの占いが運命を決めてしまうつまらない物語なんかじゃない。男の子と優等生の娘が運命を乗り越えて結ばれる物語なの」

 

 運命を乗り越えて結ばれる物語、と俺はその言葉を心で反芻した。

 

 高瀬は前髪をかきあげた。

「それなのに私は自分の気持ちに嘘をついて、“未来の君”が花屋の娘だと知った優等生を、男の子から遠ざけていた。挙げ句の果てには、『ふたりは出会うべきではなかった』なんていう原作にはない台詞を彼女にわざわざ言わせて、自分をごまかしていた。そんなことはない。決してない。ふたりは出会えてよかった。出会えたからこそ毎日が輝きだしたんだ」

 

 降り続ける雨の音がつかの間の沈黙を埋めていた。高瀬は残っていたココアを思い出したように飲んで、話し続けた。


「私、今度はね、自分の書きたいように書いてみる。一から。たとえきれいじゃなくても不自然でも99人が結末に納得がいかなくても誰にも祝福されなくても、私の物語にする。賞を獲らなきゃ、って力んで考えすぎて、一番大切なことを忘れていたみたい。編集さんの言うとおり。多くの人に読んでもらいたいと思える物語にしなきゃね。もう迷わない。私の物語は、私がつくる」


「未来の君に、さよなら」と俺は無意識につぶやいていた。


「私のお話はこれでおしまい」と彼女は照れを隠すように早口で言った。「具合が悪いのに、聞いてくれてありがとうね。おかげで、すっきりした。これでまた前に進める」


「高瀬――」

 自分の気持ちを伝えるなら今がチャンスだということに気づかないほど、俺は愚かではなかった。愚かではなかったかもしれないが、あいにく勇敢でもなかった。「高瀬」に続く言葉がなかなか出てこない。俺も自分の気持ちに嘘はつきたくない、の一言がどうしても言えない。結果、ふたりのあいだには、気まずい沈黙が降りてきてしまう。


 玄関のチャイムが誰かによって鳴らされたのは、そんな時だった。俺と高瀬は思わず顔を見合わせた。きっと彼女は俺と同じ人物を思い浮かべているはずだった。それは誰かといえば花屋の娘――もとい、鉄板焼き屋の娘だ。柏木ならば、予告なしに雨の中を見舞いに来たとしてもなんら不思議はない。


「出ないの?」と高瀬は無表情で言った。


「そうだな……」

 高瀬と柏木がここで鉢合わせてしまえば、いささか面倒なことになるのは目に見えていた。だからといって居留守を使えば、のちのち面倒なことになるのも目に見えていた。どっちにしても面倒なことになる。早いか遅いかだけの違いだ。


 俺が対応を決めかねていると、高瀬が決心したように立ち上がった。そして「私が出る」と言い残して玄関へ向かった。


「おい、待てって!」と慌てて止めたものの、無情にも玄関からはドアの開く音が聞こえてきた。それはともすればゴングのように聞こえなくもなかった。俺はため息をついて、この家が修羅場と化すのを覚悟した。ところが、次に耳に届いた高瀬の言葉は、まったく予想していなかったものだった。


あなた誰ですか(・・・・・・・)?」と彼女は怪訝そうな声でたしかにそう言った。


 何事だと思って俺は、重い体を引きずるようにして玄関まで移動した。外に立っている人物を見て俺は愕然とした。


 そこには、北陸の地で愛する者たちに囲まれて幸せに暮らしているはずの、母・有希子がいた。

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