第63話 ふたりは出会うべきではなかった 1
結局高瀬と一度も言葉を交わすことがないまま、東京を離れる日を迎えた。
俺たちは13時半発の飛行機に乗るため羽田空港にいる。わざわざ見送りに来てくれた月島家の人たちも一緒だ。
「家族揃って見送りなんて大袈裟なんだって」月島家の一人娘は気恥ずかしそうに言う。「今生の別れっていうわけじゃないんだから。お正月にはまた帰ってくるっての」
「涼」と京さんは母親らしくたしなめるように呼んだ。「向こうはこれからの季節ぐっと寒くなるんだから、風邪をひかないように、うがいと手洗いはきちんとするのよ」
「心配いらんて」月島は苦笑いを浮かべる。「子どもじゃないんだから」
次に口を開いたのは治さんだ。「ひとり暮らしで親の目が届かないのをいいことに、夜遊びに耽ったりなんかしちゃ、ダメだよ」
「大丈夫だって。田舎出身の女子大生じゃないんだから」
祖母が続く。「悠介さんの前でくれぐれも粗相のないようにね。男の人から三歩下がって歩くことを心がけるんですよ」
月島は一見素直にうなずいたが、密かに舌打ちしてこうつぶやいた。「江戸時代じゃないんだから」
祖父の目だけは孫娘の顔を捉えていなかった。
「それにしても貧相なケツじゃ。それでは悠介を振り向かせることはできんぞ涼。よいか、美尻の秘訣を教えてやろう。まず姿勢には気をつけろ。適度な運動も忘れずにな。夜更かしは大敵じゃ。それと肉を食え肉を。わかったな?」
「ぶっ倒れたまま入院してればよかったのに」と月島は明らかに呆れて言った。
あれは仮病だから、と俺は心で言った。
じいさんはどあっふぁっふぁと例によって豪快に笑い、それからどういうわけか自分の後をついてくるよう、俺にだけ指で合図した。何事かと思って俺はそれに従った。彼はみんなから5メートルほど離れたところで立ち止まった。
「のう悠介。実はな、うちの連中は、おまえさんを月島庵の跡取りにすることをまだまったく諦めておらんのじゃよ。今度の正月こそ説き伏せるからまた東京に連れてこいと涼にうるさく言っておるんじゃ」
「はぁ」ある程度予想していたことなので、たいして驚きはしない。
「これはあまり大きな声では言えんが」と彼はけっこう大きな声で続けた。「わし個人の考えとしては、おまえさんには好きなように生きていってほしいというのがホンネなんじゃ。もちろんうちでせんべいを焼いてみたいというなら、わしらとしては嬉しいし、歓迎もする。ただもし他に本当にやりたいことがあるならば、無理強いはせん。そっちの道を選ぶがいい。You only live once.人生は一度きりなのだからな。まぁ何が言いたいのかというと、後悔だけはしてはいかんぞ、ということじゃな。わかったな?」
俺はしっかりうなずいた。
「聞き分けの良い子じゃ」と月島の祖父は目を細めた。「それと、老婆心ながら――といってもジジイじゃが――ひとつ忠告させてもらえれば、どんな道に進むにせよ、パートナーは必要じゃ。そしておまえさんと共に歩むパートナーは、あの三人の中ならば、断トツで晴香ちゃんがよいとわしは思うぞ。それはなぜだと思う?」
こんなに頭を使わないで済む問題もなかなか無かった。「ケツでしょ、どうせ」
「な、なぜわかった!」
それにしてもいったいどうなってんだ、と俺は思った。みちるさんや大橋さんだけならまだしも、本来は月島を薦めなければいけないはずの名誉都民までもこうして柏木を推してくる。
この調子だと、もしかしたら帰りの飛行機の中でもパイロットや客室乗務員なんかに機内放送で柏木を選べと諭されるかもしれない。
前途を憂いつつみんなの輪に戻ったところで、誰かが人混みをかき分けてこちらに走ってくるのが目についた。それが誰であるかは、遠くからでも格好を見れば一目瞭然だった。黒のニット帽にサングラスにマスク。この真夏にそんなものを身につけて素顔を隠さねばならない人間は世の中にそう多くない。
彼女は俺たちの輪の前で立ち止まると、「間に合ってよかった」と息を切らしながらつぶやいて、変装を解いた。
「ユズ!」柏木は、たった二文字で元トップアイドルの努力を台無しにする。
「しーっ!」城之内柚は口の前で指を立てた。「あんた、少しは頭を使いなさいよ。私がいるってバレたら騒ぎになって、飛ぶ飛行機も飛ばなくなっちゃうでしょ!」
「ご、ごめん」柏木はユズを匿うように輪の中へ引き入れた。
ユズは呼吸を整えて言った。
「実は、あなたたちに受け取ってほしいものがあって、こうして来たの」
高瀬は眉をひそめた。「私たちに?」
「ただその前に」とユズは言って、月島家の人たちに対し深々と頭を下げた。「小学生の時のあの事件。自分がやったんだと名乗り出ず涼に罪を着せてしまい、本当にすみませんでした」
「どうか顔を上げて、柚ちゃん」京さんが優しく声をかける。「テレビの生放送でも勇気を出して謝ってくれたでしょう? それで充分柚ちゃんの誠意は私たちにも伝わりました。……ねぇ?」
あうんの呼吸で祖父が継ぐ。「病院のテレビでわしもちゃんと見ておったぞ。あれだけやってもらってもまだ柚ちゃんを責めるような、ケツの穴の小さい人間は、この月島家にはおらん。安心せい」
ユズはゆっくり時間をかけて頭を上げた。「それじゃあ、また昔みたいに、月島庵のおせんべいを食べに行ってもいいですか?」
「もちろんよ」と月島の祖母は言った。「ちょうど涼たち若い子が今日でいなくなって、寂しくなるなと思っていたところなんですよ。いつでも気兼ねなくいらっしゃい」
がぜん張り切りだしたのは治さんだ。「あのね、ゆ、柚ちゃんさ、もしよかったら、その、サ、サインをだね――」
「はいはい、そこまで!」月島は無情にも父親の願いを遮る。「柚、今のはお願いだから聞かなかったことにして。はい、忘れた! ……それでさ、私たちに渡したいものがあるんでしょ?」
ユズは苦笑しつつ治さんから少し離れて、バッグを開けた。彼女が中から大事そうに取りだしたのは、一本のハンドマイクだった。
「これは決勝戦でみんなと一緒に『My sweet freind』を歌った時のマイク。私にとってはあの舞台は最後のステージでもあったから、顔なじみの番組スタッフが気を利かせてプレゼントしてくれたの。でも部屋に置いておくとなんだかアイドルに未練が残っちゃいそうだし、かといって捨てるのも気が引けるし。
そこでね、あなたたちに持っていてもらおうと今朝になって思いついたの。私が心から楽しいと思えたステージに一緒に立ったあなたたちに。私が新しい一歩を踏み出すためのけじめとして、どうか受け取ってほしい」
三人は顔を見合わせた。誰の表情にもそれを拒むような気配はなかった。代表して月島がマイクを受け取ると、柏木はユズに屈託なく声をかけた。「まぁ短い間とはいえ仲間だったわけだしね。いいじゃない。空飛ぶマイクってのもね」
「売ればお金になるからって、ネットに出品したりしないでよね」とユズは言った。
「そんなことするわけないでしょ」と柏木は言った。
「ありがとう」とユズは言った。
♯ ♯ ♯
出発時刻が迫り、搭乗ゲートに近づいたところで、ふいに月島が立ち止まった。彼女は後ろを振り返り、空港内を行き交う人々を一人一人眺めていた。
「どうした、月島」と俺は気になって声をかけた。
「うん」と彼女は何かを確信したようにつぶやいた。「やっぱりそうか。私ね、人の色が、見えなくなってる」
「は!?」思わず声が裏返る。にわかには信じがたいので、試しに問題を出してみることにした。「あそこでキャビンアテンダントのお姉さんの脚をじろじろ見ている警備員の色は?」
「わからない」
「それじゃあ、あのジェイク・ジレンホール似のいかにも面倒に巻き込まれそうなイケメン外国人はどうだ?」
「わからない」
「ということは、俺の色も――」
「残念ながら」と月島はどことなく嬉しそうに言った。「Iー1グランプリが終わった次の日の朝――つまりきのうの朝の時点でもう、実は見えなくなってたんだけど、気のせいかと思って黙っていた。でもこうして人のごった返している空港でも誰一人色が見えないということは、どうやら私の中からあの不思議な能力は、完全に消えたと考えていいらしい」
俺は八色先生の話を思い出した。
「もうおまえにはその能力は必要ないってことなのかな」
「なんか良い気分」月島はスーツケースから手を放し、思い切り背伸びをした。「これでちょっとは普通の女子高生に近づけたかな。ヒュー」
「結局、最後までユズの色はわからずじまいってわけか」
「まぁね」月島は、自分の家族と一緒に帰途につく友の背中を見つめた。「でも能力がなくてもわかることがある。あの子の色はもう濁ってなんかいない。赤か青か緑か白か。どれだとしてもとにかく、今の柚がまとっているのは、自分だけの澄んだきれいな色だよ」




