第61話 いつだってその瞳はきらきら輝いていた 4
それは一言で言えば“魔法”だった。
序盤は可もなく不可もない滑り出しだった。特別うまいわけでもなければ、ミスらしいミスもなかった。それはスタジオで何百回と繰り返し見た『My sweet friend』だった。ユズが一人増えただけだった。
彼女は自分だけが目立つことを防ぐためなのか、明らかに力を抑制して他の三人にレベルを合わせていた。そんな中途半端な具合だから、客席からは歓声もなければブーイングもなかった。
ステージで動きがあったのは、曲がBメロ部分に差し掛かった時だった。500人の聴衆を前にして力んだのか、月島がやや音程を外してしまった。その程度のミスは俺としても織り込み済みだったが、驚いたのはその直後だ。
ユズが月島に近づき、励ますように軽く肩に触れたのだ。それは一見すれば足並みを乱しかねない独りよがりな振る舞いだった。ところがユズのその突然のアドリブは、パフォーマンス全体にどのような悪影響も及ぼさなかった。むしろあまりにも自然過ぎて、隣の太陽が「これも演出の一部か?」と誤解したくらいだった。
さらに特筆すべきは、月島の変化だ。どうしたらそんなことが起こるのかわからないけれど、ユズがそばに来てからというもの、歌唱力も表現力も格段に向上したのだ。魔法だ、と俺は思った。それ意外に適切な言葉はちょっと思いつけなかった。
ユズは頃合いを見計らって、どこか気後れしている様子の高瀬と柏木にもその魔法を施した。すると二人はやはり月島同様、それまでとは見違えるほど洗練された演戯を見せるようになった。
となればもはや、百戦錬磨のトップアイドルが力をセーブしなくてはならない理由はどこにもない。ユズは持てるエネルギーのすべてを、最後のステージに注ぎ込んだ。
もちろん俺の目に映ったこの光景は、「こうなればいいのに」という願望が作り出した幻覚ではなかった。現実だった。その証拠に、間奏が始まる頃には立ち上がって活発に応援する客も一部で出始め、二番のサビが始まる頃にはそのムーブメントは客席全体に波及していた。ユズはその間も魔法の効果を持続させるかのようにステージ上を動き回った。
俺はこの魔法の正体はいったい何なのか二番のメロの間ずっと考えていた。すなわちなぜユズに触れられると月島も高瀬も柏木も実力以上の力を発揮できるのか、を。しかしたった48秒ではそんな神がかり的な現象を説明し得る答えは浮かばなかった。ヒントを与えてくれたのは、太陽のなにげない一言だった。
「さすがユズだな」と太陽は感嘆した。
「さすがユズだな」と俺はオウム返しした。
「ユズと一緒に歌うと、途端に三人娘の表情が明るくなるんだよな。心なしか、着ている衣装の色まで鮮やかに見える」
色――。思えばそれは、城之内柚という人物を語る上で欠かすことのできないキーワードだった。「太陽。それはあながち、気のせいじゃないかもしれないぞ」
俺は〈その人を象徴する色を見抜く〉摩訶不思議な能力を持つ二人の言葉を思い出した。
ユズの色は頻繁に変わると月島は言っていた。他の人に合わせて自分の色が変わる珍しいタイプだと八色先生は言っていた。その色はくすんで見えると二人は口を揃えて言っていた。
ここから先は根拠のない俺の推測になるけれど、誰かに頼らなければ自分の色が出せないことをユズは職業的な勘でうっすら気づいていたのではないか。そしてそんな色は自分本来の色とは到底言えず、実際、くすんでいることも。
彼女はどうすれば二週間前まで素人だった三人を最大限光らせることができるか考えた。出た答えは、敢えて自分が引き立て役に回るというものだった。
だからユズは三人に触れて色を合わせた。すると相対的に三人の色は際立つことになる。ユズは一か八かの賭けに打って出たわけだ。そしてその賭けは見事当たった。
「おい悠介、客席を見てみろ!」太陽が耳元で怒鳴った。怒鳴らなければ歓声が大きすぎて聞こえないのだ。「すごいぞ。いつの間にか総立ちじゃねぇか!」
今や立っていない人を見つける方が難しかった。
「さっきまでのアウェイ感が嘘みたいだ」
「間違いなくこれまでのどのユニットよりも客席を沸かせてるよ。あいつら、優勝するぞ」
「優勝ね」とみちるさんも耳打ちしてきた。
「優勝……」俺は思わず息を呑んだ。いやしくも賞金を山分けするところを想像してしまう。
太陽はしたり顔で笑った。「悠介。スペインでオレが言った通りになっただろ? 必ず最後には風が吹くんだって。旅を途中で切り上げて正解だったぜ」
俺はかしこまって自画自賛の言葉を拝聴するしかなかった。なんにせよ、風が吹いたのは事実だ。ユズは本当に逆転の風を巻き起こしてしまった。
このまま何も余計なことが起こらなければ優勝だ、と思って俺はほくそ笑んだ。でも何も起こらないわけがなかった。
それは、ちゃんと起きたのだ。
♯ ♯ ♯
『My sweet friend』を歌いきった四人を待っていたのは、スタンディングオベーションだった。まわりの誰もが偏差値46を称えていた。ユズ以外の三人は今何が起こっているのかいまいちわかっていないようだった。演戯に集中していた証だろう。
「それにしても、なんという掌返しでしょう」と司会の内藤は言って客席を見渡した。「こいつら、ついさっきまでブーイングしていた連中ですよ!」
「そんなこと言っちゃダメです」と醍醐アナが苦笑してたしなめた。「それでは客席の皆様の感想を聞いてみましょう」
マイクを持ってこちらに向かう醍醐アナと入れ替わるように、ステージの中央へ歩み寄る影があった。それは審査員席にいたはずの大橋隆之助だった。俺の胸はにわかにざわついた。あの優男、いったい何を考えているのか。
「すばらしいパフォーマンスでした」彼は拍手しながら四人に近づいていく。
「おやおや、どうしました大橋さん」内藤は困惑する。大橋の登場は台本にはないのだ。
「みなさん、少しだけ僕のために時間をください」と大橋はよく通る声で言った。「僕は今夜、彼女たちのステージを見て確信しました。晴香ちゃん、君はやはりアイドルになるべきだ。君にはその素質がある。今のまま地方でのんびり暮らすのも悪くないかもしれないけど、その才能を埋もれさせておくのはもったいないよ。東京に残って、プロデビューを目指すんだ。そして、これが一番晴香ちゃんに伝えたいことになるんだけれど、もしよければ、僕のそばにずっといてほしい」
内藤は文字通り飛び跳ねた。
「この番組はいったい何度この言葉を私に言わせれば気が済むのでしょうか。まさにアンビリーバブル! 大橋さん。それは、公開告白と受け取ってよろしいでしょうか!?」
大橋が深くうなずくと、会場は再び熱狂に包まれた。指笛の甲高い音が四方から飛び交う状況はさながら、新しいカップルの誕生を祝福しているみたいで、柏木がすでに申し出を受け入れたかのような錯覚に陥ってしまう。
俺は頭を振って目の前の現実を直視した。柏木は承諾などしていなかった。しかし同時に、拒否をしていないのもまた事実だった。
「悠介!」太陽が肩を揺すってくる。「まずいぞ! 柏木の奴、悩んじゃってるよ! どうにかならないのか!」
みちるさんも続く。「あの子、会場のムードに流されてOKしちゃうんじゃない? 悠介あんた、本当にそれでもいいの!?」
俺は思わず両手で頭を抱えた。目を閉じ、意識を研ぎ澄ませる。心に浮かんでくるのは、柏木との思い出の数々だ。
俺は高校の屋上の縁に立って戯けてみせる無鉄砲な柏木を思い出した。
自分を捨てた父親を見つけ出して殴りに行くと息巻く無分別な柏木を思い出した。
ひとつの布団の中で俺の意気地のなさを責める無慈悲な柏木を思い出した。
俺の嘔吐の発作を止めるために抱きついてきた無用心な柏木を思い出した。
そして世界一幸せな家庭を築くと宣言した無邪気な柏木を思い出した。
彼女が理想とする家族像について俺に話す時、いつだってその瞳はきらきら輝いていた。アイドルのことを話してもそうはならない。そこには好奇心と同じくらい、不安や恐れの影がつきまとっていた。結局、あいつが選ぶべき未来はアイドルではないのだ。アイドルになったところで幸せにはなれないのだ。そしてあいつは絶対に幸せにならなくてはならないのだ。
となればこの限られた状況で俺にできることは――。
「なぁ太陽」と俺は目を開けて言った。「スペインって、いいところだったか?」
「は? 急になんだよ? まぁ、明日にでも旅の続きを再開したいくらい、いいところだよ」
「スペインにはうまい食いもんもいっぱいあるんだろ?」
「おう。パエリアなんかは絶品だぞ。馬鹿でかい貝やら海老やらがゴロゴロ入ってやがる」
「パエリアか。いいな」
太陽は眉をひそめた。「悠介、本当にどうしちまったんだ? 今おまえが考えなきゃいけないのは、柏木のことだろ」
俺はそれには答えず言った。「もし俺が日本にいられなくなったらさ、スペイン旅行の続きに俺も連れて行ってくれないかな?」
「うーん、まぁ、いいけどよ」
「持つべきものは友だね」
俺は今が全国放送の生放送中だとか高瀬との約束はどうなるのかだとか月島庵の跡継ぎ問題はどうなるのかだとか地元の学校での居心地はどうなるのかだとか、とにかく、柏木以外の一切合切を頭から振り払った。そして立ち上がり、インタビューをするため近くに来ていた醍醐アナのマイクを奪い取った。
「柏木! 俺だ! 悠介だ! おまえはひとつ思い違いをしている! 俺は今から本当のことを言う。ずっと隠していたことがある。一度しか言わないからよく聴け。柏木、俺の“未来の君”は、おまえなんだよ!」




