第60話 この戦いでは大番狂わせは起こらない 1
さいわい宇宙戦争も彗星衝突も起きなかったので、Iー1グランプリは滞りなく開催される運びとなった。例年通り立秋とは名ばかりの猛暑が列島に居座るなか迎えた大会初日、まずは厳しい予選を勝ち抜くべく、俺たちは戦場となるテレビ局へ乗り込んだ。
局内はアイドル日本一を目指して全国から集まった女の子たちでひしめきあっていた。
大会にのぞむ挑戦者にはテレビ局から控え室が用意されており、出番が来るまではそこで準備なり練習なり自由にしていいとのお達しだった。
とはいえ250組近くのユニットが栄冠を夢見てエントリーしているわけだから、一組一部屋というわけにはいかない。相部屋ということになる。
俺たち“偏差値46”は“√プレックス(平方根プレックス)”、“変態★シンデレラ”といった頭文字が“へ”の――なかなか個性的そうな――ユニットと同室だった。
「検査結果が出たみたい」荷物を置いて一呼吸したところで、月島が言った。スマートフォンを見ている。「多少血圧と尿酸値が高い以外は、どこも特に異常なしだって。意識ははっきりしていて、今はテレビで高校野球を観てるみたい。東東京代表の高校が勝ってるからご機嫌だそうで。しぶといじいさんだ」
「よかったぁ」と胸をなで下ろす高瀬の方が、よほど実の孫っぽい。「倒れたって聞いたときはどうなっちゃうんだろうって思ったけど、これで一安心」
柏木は慣れた手つきで後ろ髪を束ねた。「でもさ、どこもおかしくなかったのに、なんで倒れたりしたんだろ?」
「むりやり病名をつければ」月島は家族の報告を読みあげる。「過労ということになるみたい」
「過労」と俺は休みなくせんべいを焼き続ける老人の背中を思い出して言った。
月島はため息を漏らした。「だいたいね、いい年こいて毎日好きなものを食べてお酒をしこたま飲んで女の尻を追いかけ回して。それで今まで一度も倒れなかった方がおかしいくらいなんだよ。せんべいはじいさんしか焼けないから、しばらく店は休みだね。まあちょうどいいんじゃない? これを機にちょっとは悔い改めるでしょ」
悔い改めない気がするのは俺だけだろうか?
それからほどなくして、さっそくと言うべきか、プロデューサーの俺をやきもきさせる出来事が起こった。柏木が「飲み物が欲しい」と言って退室したまま、戻ってこないのだ。控え室を出てからもう20分は経っていた。
偏差値46の審査はまだまだ先ではあるけれど、振り付けを確認したり受け答えのシミュレーションをしたりと、出番までにすべきことはいくつもあった。もちろん三人が揃っていなければ何をするにも埒があかない。
俺の存在など「ないもの」として振る舞っている柏木だけに、電話をかけたって出てもらえる見込みはほとんど無いに等しいし、高瀬と月島に相談しようにも、ふたりは身だしなみを整えるのに余念がなく、話しかけるのはためらわれた。そんなわけで、おそろしく気が進まないが、俺が一人で柏木を探しに行くことにした。
彼女の姿はさしたる苦労もなく見つかった。
同じフロアにある広めのラウンジに行くと、そこには20人ほどの人だかりができていて、その中心にいるのが柏木だった。
群衆は柏木に容赦なくマイクやカメラを向け、鼻息荒く矢継ぎ早に質問をぶつけている。俺はすぐに一枚の白黒写真を思い出した。人気俳優・大橋隆之助と柏木が親しげに話す様子が写った、スクープ写真だ。それを見たテレビ関係者が熱愛報道の真偽を柏木に問いただしているのは想像に難くなかった。
当然のことながら柏木は困惑していた。どれだけ大橋さんとの恋仲を否定しても信じてもらえず、挙げ句の果てには、売名行為じゃないかと非難を浴びせられもした。彼らとしては真実は二の次で、世間のゴシップ好きの関心を集められればそれでいいのだろう。
なんにせよ、袋のねずみも同然の柏木を放っておくわけにはいかない。俺は息を胸いっぱいに吸い込み、今まで出したこともないくらい大きな声で「ハシリューだ!」と叫んだ。
柏木を取り囲んでいた連中は、面白いように方々を見やった。その様子はさながら、親鳥を探す腹ぺこの雛のようだった。俺は生じたそのわずかな隙を突いて群衆のなかに飛び込み、柏木の手をつかむと、一目散に走り出した。
背後からは、無数の足音とともに、「待て」・「追え」というような怒声が聞こえてくる。どうやら簡単には逃がしてくれないようだ。上等だ、と俺はタイル張りの床を蹴りながら心で受けて立った。俺が今連れているのはか弱いお姫様などではない。とびきりタフな暴れ馬だ。追いかけっこならばそうそう負けるはずはない。
俺たちはラウンジを廊下を階段を、脇目も振らず駆け抜けた。読み通り、走れば走るほど追っ手との距離は広がっていった。
このまま首尾良く彼らを撒くことができたなら、男子としての面目を保てたのだろうけど、あいにくそうはならないのが俺が甲斐性なしだなんだと罵られる所以だ。
準備運動もせずに急に全速力で走り出したのがまずかった。スピードを落とすことなく角を曲がったその瞬間、左の足首が嫌な曲がり方をした。嫌な音もした。思わず顔がゆがんだ。そして「痛ッ」と情けない声が漏れた。
「ちょっと、大丈夫!?」トラック一周分は疾走したというのに、柏木は息切れひとつしていない。
「捻っちまったみたいだ」と俺は右足一本で立ちながら言った。「もうこれ以上走れそうにない」
「肩を貸すから、そこまでなんとかがんばって」
柏木が顎で示した先には、ドアの開いた大部屋がある。俺は素直に彼女の肩を借りた。
その部屋には警察の制服やチャイナドレス、果ては十二単に至るまで、ありとあらゆる種類のコスチュームがきれいな状態で保管されていた。衣装部屋なのだろう。さいわい中には誰もおらず、俺たちが勝手に入っても見咎められることはなかった。
柏木が俺を連れていったのは、着ぐるみの前だ。アライグマのようなものをモチーフにしていて、二体ある。
「なんだこれ?」俺は首を傾げた。
「知らないの?」柏木は呆れた。「このテレビ局のマスコットキャラクターだよ。はちまきをしめている方がライブ君で、リボンをつけてる方がアライブちゃん。さぁ、あの人たちが追いつく前に、急いで着て!」
かわいらしいマスコットに扮装した我々がふたたび廊下に出ると、ちょうどあの一団とすれ違った。先頭のカメラマンがふいに立ち止まった時には肝を冷やしたが、彼の目に映っているのは、自社の広告塔以外の何物でもないらしかった。
「やぁ、ライブ君とアライブちゃんじゃないか。ちょっと聞きたいんだけど、今ここをポニーテイルが似合うかわいい女の子が走っていかなかったかい? 偏屈そうな少年と一緒に。どこに行ったかわかるかな?」
アライブちゃんは愛嬌のある動きをひとしきりしてみせてから、デタラメな方向に腕を伸ばした。俺も見よう見まねでそれに倣った。彼らは少しも疑うことなくそちらへ突き進んでいった。
「まだ油断はできないよね」とアライブちゃんは一団の姿が見えなくなってから言った。「この格好のまま、どこかで隠れていよう。はとばりがさめるまで」
俺は感謝しながらも着ぐるみの中で静かにつぶやいた。
柏木よ。それを言うなら、ほとぼりだ。
♯ ♯ ♯
近くにあった空き部屋で俺と柏木は時間が経つのを待つことにした。
もし仮に誰かが入ってきてもこのキュートな格好ならば叩き出されることはあるまい。今の俺たちはどこからどう見ても休憩中のマスコットだ。
「ごめんね」とアライブちゃんの中の柏木が言ったのは、潜伏をはじめてから5分が過ぎた頃だった。「なんだかいろいろと迷惑かけちゃって。おまけにケガまでさせちゃって。……足、大丈夫?」
「気にすんな」と俺は痛みを堪えて返した。「ケガなんてほっときゃ治るからいいんだよ。それよりさ、やっと口をきいてくれたな」
アライブちゃんは気恥ずかしそうに大きな手でリボンのあたりを撫でた。
「なかなか気持ちの整理をつけられなくてね」
俺は無言でうなずいて柏木の言葉を待った。
「あたしは、悠介の“未来の君”は、あたしなんだってずっと信じていたからさ。でも実際は優里だったわけじゃない? それで、どう悠介と接すればいいのかわからなくなっちゃったの。……バカみたいだよねぇ。悠介は悠介で、あたしはあたし。“未来の君”は誰だろうと、それは変わらないのに」
俺は何も言うことができなかった。短い沈黙のあとで柏木が続けた。
「こないだの春にさ、悠介はこんな質問をあたしにしたでしょ。『もし“未来の君”が高瀬か月島だったら、おまえはどうするんだ?』って」
俺はうなずいた。「べつにどうもしないよ、ってあっけらかんと答えたよな」
「そうなの。その時は本気でそう思ってたの。悠介のことが好きっていう気持ちさえあれば、“未来の君”が誰かなんて、たいした問題じゃないって。でもね。いざ“未来の君”が自分じゃないと聞かされると……思いのほかショックだったね。悠介を幸せにできるのはあたしじゃなくて優里なんだと思うと、目の前が真っ暗になっちゃった。ははは、ごめんね」
「ずいぶんあけすけに話してくれるんだな」
柏木は巧みに両腕を操って自身を指さした。
「これ、いいね。気持ちの整理なんてまだついてないのに、これ着てると、話しにくいこともなんだか話せちゃう」
「怪我の功名ってやつだ」実際に負傷した人間が言うんだから説得力がある。
「あたしにとっては最悪の結果だったけど」と柏木は言った。「悠介にとっては最高の結果なんだもんね。好きな人が“未来の君”でした。うん、それがいちばんいい。優里のことをずっと想い続けてきて、よかったね」
柏木のその声に、皮肉や嫌味の響きは聞き取れなかった。むしろ額面通り祝福してくれているようだった。それだけに俺の心は痛み、そして顔はこわばった。人一倍目ざとい柏木のことだから、俺の表情を見れば一目で何か隠し事があることを察しただろうけど、さいわい今の彼女に見えているのは、はちまきを巻いた愛くるしいアライグマだ。これ、いいね、と俺も着ぐるみの有用性を認めたくなる。
それからまたしばらく経って、柏木が口を開いた。
「あたしは悠介を幸せに導く“未来の君”ではなかったかもしれないけど、悠介に不幸な未来を提案していたわけじゃなかったってことだけは、せめて覚えておいてよね。疫病神みたいに思われたらいくらあたしだって悲しいから。あたしと一緒に居酒屋を切り盛りする未来はきれいさっぱり忘れなさい。ね?」
ここで柏木の誤解を解くのは、なんにも難しくなかった。“未来の君”はおまえなんだとひとこと言えばいいのだ。考えようによっては、着ぐるみをまとっている今この時が、またとないチャンスだ。
しかし――。
しかし、翻訳家を志すと誓った高瀬のまじりけのない笑顔がまぶたに浮かんで、それができない。柏木に真実を伝えれば、遅かれ早かれ高瀬も真実を知ることになる。
俺の“未来の君”が柏木だと知ったら高瀬はどうするだろう? それでも夢への情熱を絶やすことなく残り一年半の高校生活を送ってくれるだろうか? これまでと同じような態度で俺に接してくれるだろうか? わからない。そんな保証はどこにもない。どこにもないのだ。
俺が決断をためらっていると、アライブちゃんが先に言った。
「さぁ悠介、そろそろ控え室に戻ろう。みんなきっと心配してる」




