第59話 大きくなりすぎたその憧れは 3
「本当の気持ちを言わないと、キスしちゃうぞ?」
ハイレグカットのレオタードと黒の網タイツを身につけた高瀬はそう甘くささやくと、ベッドで仰向けになる俺の上に、あろうことかハイヒールを履いたまま跨がってきた。
「神沢君は私のことを女としてどう思ってるの?」
俺は返答と目のやり場に困った。鎖骨が、きれいだ。「そんなの、言えないよ」
「今日という今日は言わなきゃダメ」高瀬はぐっと顔を近づけてくる。頭上の長い耳が垂れ下がる。「もうこれ以上私は待てないよ。どれだけ待ってると思ってるの? もう一年以上だよ? お願いだから、神沢君の気持ちを聞かせて?」
好きとキスの狭間で俺は揺れに揺れた。男の性なのか、キスのその先を期待した。「言えない」
「もう怒った」と高瀬ウサギは舌で唇を湿らせながら言った。「思わせぶりなことだけはいつも言うくせに一番大事なことは言えない。そんな罪作りなお口なら、私がふさいじゃうんだから」
潤いを帯びた唇がゆるやかに降下をはじめた。俺は薄目をあけて唇の到来を待ち構えていた。これがファースト・キスってやつになるんだな、と感慨深くもあった。鼻と鼻がかすかに触れ合ったところで、何かが、世俗的な何かが、俺を甘美な夢から現実へ引き戻した。その憎き何かとは無機質な電子音だった。スマートフォンの着信音が俺からバニーガール姿の高瀬を取り上げたのだ。
「もしもし!」と俺は苛立ちを隠さず電話に出た。
「ブエノス・タールデス!」能天気な声の主は悪友だ。「おいおい悠介ちゃんよ、年に一度しかない夏休みの真っ最中だっていうのによ、なんだってそんな不機嫌なんだい!?」
「太陽、おまえさ、今何時だと思ってるんだよ」
「はぁ? 何時って、夜の8時だろ。親友と語らうにはなかなか良い時間じゃないか」
俺は常夜灯の明かりを頼りに時計を見てみた。針は3時を指している。無論、夜中の3時ということだ。「おまえ今どこにいる? もしかして日本じゃないのか?」
「スペインだよスペイン! 情熱の国! だからさっきだってスペイン語で情熱的にあいさつしたんだよ。さぁご一緒に! ブエノス・タールデス! こんにちは!」
アディオスと別れを告げてさっさと通話を終えたかったが、どうせ懲りもせずすぐにかけ直してくるだろうから、少しだけ相手をしてやることにした。
「あのな、大病院のお坊ちゃん、よく聞け。ヨーロッパ旅行に行くなとも言わないし、電話でスペイン語講座をおっぱじめるなとも言わない。ただせめて、海外から電話をかけてくるなら、時差というものだけは頭の片隅に入れておいてくれ」
「まぁそう細かいことを気にしなさんな。スペインにいるこのオレにそんな酸っぺいんことを言ったってはじまらないぜ」
地球の裏側から届けられるやかましい笑い声を聞いて俺は、馬鹿につける薬はないということわざを強く実感した。
彼は呑気に続けた。「それで悠介。調子はどうだい。相も変わらず“跳ねっ返り娘三人衆”に振り回されてるのかい?」
「よくわかってるじゃないか」と俺は自嘲気味に答えた。そして廊下を隔てた部屋で眠る姫君たちを起こさぬよう、小さな声で「実は――」と近況を報告した。
「なんだって! 『Iー1グランプリ』に出場するってか! あれだろ? テレビの生放送で、日本一のアイドルユニットを決めるってやつだ。プロアマ問わず参加できるっていう」
「詳しいんだな」
「そりゃオレだって一応プロのドラマーという芸能人を目指してるからよ。畑が多少違うとはいえ、そっち方面には常日頃アンテナを張ってるよ」
そんなトレンディーな男に城之内柚とサシで会話したことを言ったらどんな反応を示すか興味が湧いたけれど、イベリア半島中の眠れる闘牛が目を覚ますような大声で騒ぎたてるのはわかりきっていた。よってやめた。
「つーことはなんだ。日本の片田舎の高校でオレたちと机を並べてお勉強しているあの娘たちが、テレビの生放送に出演して、全国に顔が知られるってわけか!」
「気が早いよ」と俺は冷静に言った。「いいか? 日曜夜の生放送に出るためには、まず予選を突破しなきゃいけないんだ。その予選にエントリーしているのは200組とも300組とも言われている。その中から本選に進めるのはたった10組だぞ、たった。俺たちみたいな知名度もなければファンもついていないノンプロが二週間そこら歌や踊りの練習をしたからって勝ち残れるほど、この挑戦は簡単じゃないって」
受話口からはチッチッチ、と聞こえてくる。おそらくキザ男は人差し指を左右に振っている。
「これはオレの予感が告げているんだが、何かが起こるね、必ず。思い出してもみろよ。今までだってそうだっただろう? 第三コーナーあたりでは十馬身差をつけられてのビリケツだが、最終コーナーに入ったあたりでなんだかよくわからん追い風が吹きはじめて、あれよあれよという間に気がつけばトップ争いしてやがる。これまでの挑戦をレースに例えるならそんな展開ばっかりじゃねぇか。おまえたちは揃いも揃ってそういう星の下に生まれてるんだな。だからきっと今回だって、例に漏れず風が吹くぜ」
「逆風じゃないことを祈る」俺は本当に夜空に祈った。
「さてと、こうしちゃいられねぇ」電話の向こうはにわかに慌ただしくなる。「明日以降の予定は全部キャンセルだ。バルセロナに移動してサグラダ・ファミリアとサッカーを観るつもりでいたがやむを得ん。おまえたちの晴れ舞台を見届けるため、至急、日本に帰還する」
「帰ってこなくていいって」と俺は友のために言った。「バルセロナに行った方がよっぽど人生のためになるから。せっかくスペインにいるのにもったいない」
それを聞くと太陽は不気味に笑った。
「いいや、Iー1グランプリの方が見ものだね。だって逆風どころか思いがけない突風が吹いて、テレビ史上に残るハプニングをこの目で目撃できるかもしれないだろ?」
「縁起でもないことを言うな」と俺は抗議した。
それから太陽は、自分と同じ名前のついたスペインの海岸で現地の女の子に声をかけられたという退屈な話をまどろむ俺に聞かせた。妖精のようにキレイな娘だったぞ悠介、と。電話が切れると俺は布団に横になって、恨み言を言った。
「なにが妖精だ、あのバカ。俺にバニーガール姿の高瀬を返せ」
♯ ♯ ♯
翌日の夜、縁側で昨夜見た夢のことをぼんやり思い出していると、月島の祖父が声をかけてきた。
「こんなところにおったか、悠介」
「どうも」
「探したぞ。ちょっとこれからわしに付き合え」
俺は耳を疑って時間をたしかめた。「もう10時ですよ? 今からどこかに出かけるんですか?」
「そうじゃ。とびっきりトレビアーンな場所へ誘ってやる」
月島の祖父はラフな格好のまま店の勝手口から外に出て、忍び足で庭を横切った。俺はわけがわからなかったが、とりあえず従順にその後をついていった。
隣の家とは目隠し用の高い塀で仕切られており、我々はその塀に沿って歩みを進めた。家の裏手は事実上物置になっていて、ビールケースやら空の一斗缶やらが無秩序に積み重ねられていた。彼が立ち止まったのは、そんな、お世辞にも招かれて嬉しいとはいえない場所だった。トレビアンもへちまもなかった。
「あの……」俺はあたりを見渡した。「なにしに、ここへ?」
「長かった」と彼は目を細めて言った。「わしはようやく見つけたのじゃ。最高のケツを」
「はい!?」
「晴香ちゃんのケツこそが、わしが追い求めてきた理想のケツじゃ」
今俺の隣にいるのは、名誉都民であると同時に、最高のケツを探すため敢えて通りに面した店先でせんべいを焼く色ボケじいさんであることをすっかり忘れていた。
「柏木のケツとこの場所がいったいどう関係あるんですか?」
彼はしたり顔で外壁の一部を指さした。暗くて気づかなかったが、目を凝らしてみるとそこには、硬貨くらいの大きさの穴がぽつんと空いている。
「穴ですね」と俺は言った。
「穴じゃ」とじいさんは力強く言った。「時に悠介よ。この穴の先には何があると思う?」
俺は頭の中で月島家の間取り図をイメージした。「風呂場、ですよね」
「そのとおり」
「まさか」声が裏返る。「まさか、出歯亀をするつもりですか」
「馬鹿もん。のぞきと言え、のぞきと」と憤る老人は、孫同様怒るポイントがよくわからない。「いいか? そろそろ晴香ちゃんが風呂に入ることになっておる。わしはどうしてもあのパーフェクトなケツをじかに見てみたかったんじゃ。もしこの目に収めることができたならもう死んだっていい。そのためにこうして少しずつ少しずつ誰にも気づかれんように穴を掘り進めてきたわけじゃな。『大脱走』のチャールズ・ブロンソンみたいにな。大脱走は一度は見ておけよ。示唆に富んだ良い映画じゃからな」
「やめましょうよ」と俺は言った。「風呂場にこんなあからさまに怪しい穴が空いていたら、外にのぞきがいるって言っているようなものじゃないですか。絶対にバレますって」
「その時のためにおまえさんを連れてきたんじゃ、悠介。もしバレたらその時は、若気の至りだったとおまえさんが謝ってくれ。そうすれば笑って許してくれるじゃろ」
じいさんが愉快そうにどあっふぁっふぁと笑ったところで、穴からほのかに光が漏れてきた。誰かが浴室の電気をつけたのだ。おそらくは柏木が。
「来た来た。晴香ちゃんに違いない。ほれ、悠介。礼と言っちゃなんだが、脱走の先陣を務めさせてやる。楽園に無事着くことを祈る」
じいさんは俺を穴の前に据え、みずからは後ろへ退いた。けがれのない月光の下で俺は、その穴を覗き込むべきか否か大いに迷った。覗けば自分のなかで大切な何かが損なわれるような気がした。でも結局は覗いた。淫靡な夢を見たせいで今日は朝から妙にムラムラしていた。
俺が落胆すると同時に安堵したのは、穴の先にシャンプーのボトルが見えたからだった。ボトルはただでさえ狭い視界のほぼ九割を覆ってしまっていた。これでは極上のケツはおろか、一本の毛すら目に焼き付けることはかなわない。
「隊長殿、脱走は失敗です」と俺は一兵卒のようにささやいた。「シャンプーが邪魔で何も見えません。掘る場所を間違えましたね。それとも柏木がシャンプーを使うまで待ちますか?」
しばらく待ってみたけれど、背後からはどのような指示も出されなかった。あれだけ威勢が良かったのに急にどうしたんだと思って振り返ると、月島の祖父はあろうことか地面に横たわっていた。
俺は慌てて駆け寄った。スケベじじいは白目をむいて全身を震わせている。まずい。
じいさん、パーフェクトなケツを見る前にぶっ倒れちまうなんて、そんな結末はないぜ。




